10話 ぐっすり眠って、少し前へ
もうこれは、初夜どころの話ではないな。とルビナは思った。
タイラーは思い出を口に出すことで、ひどく憔悴しきっていた。
ルビナは立ち上がると、彼のソファーの横に回り込んだ。その肘掛けに座って、彼のひどく冷たい体に手を触れる。
それから、振り払われませんように、と願いながら彼の体を抱きしめた。
これが優しさから来る行動ではないことは分かっていた。
どちらかと言うと罪悪感だろうと思う。
彼の心にトラウマを残したのはルビナ自身なのだ。それなのに今日からルビナは彼の妻でもある。
だから、ルビナには彼を抱きしめて慰める責任がある。そしてそうする権利も。
「ひどい話ね」
彼の頭に頬を擦り付けながら言い放った言葉が、随分そっけなく響いて、情けなくて笑えてしまった。
だがルビナはそういう人間なのだと思う。人の心に寄り添うことができない。前世で占いババアが言ったように、何かが欠けた人間なのだ。今その言葉が本当だと初めて実感した。そしてそのことをひどく残念に感じた。
だからルビナは、男爵家の愛情深い母がしてくれたのを思い出しながらタイラーの体を抱きしめ、優しく背中を撫でさすった。
「話はゆっくりでいいわ。ね? だからもう今日はもうベッドに入りましょう?」
この言葉も母の真似だ。だが効果がある。
だからそれでいい。
どんな方法でも、たとえ人真似でもいいから、彼を慰め、癒してやらなければならない。
でなければ彼が壊れてしまいそうに見えた。
自分がなんとかしなければ。
それは責任感でしかないが、思わないよりマシなことだけはわかる。
そして、ゆっくり時間をかけて、彼がその思い出を風化させることができるように助けることが私の義務なんだと気づく。
ルビナはそれをこの結婚の目標として、今決めたのだった。
二人は初夜を、ただ抱きしめあって寝るだけで過ごした。
貴族にとって後継者作りは大事な仕事の一つであったが、タイラーはそんな気分ではなかっただろうし、そんな体力もなさそうだった。
ひどく憔悴し、ベッドに入れて抱きしめてやると、すぐにうとうととして眠ってしまった。
ルビナはしばらくそうして彼の背中を撫でていたが、タイラーの落ち着いた寝息を聞いているうちに、自分も眠りに落ちていった。
子作りは焦る必要はない。明日も明後日も夫婦生活は続くのだ。
きっと明日ベッドのシーツを確認した使用人が血がついてないことで何か思うだろうが、そんなの今日はどうでもよかった。
使用人が私たちの関係に疑問を抱くかもしれないという心配は必要なかった。
ルビナの朝の支度を手伝いに来た侍女が、ルビナのベッドですやすや眠るタイラーを見て、嬉しそうに駆けて行ったのだ。おそらくみんなのところに報告に行ったのだろう。
そして、昼前に目覚めたタイラーは、いつもの不幸の影を少しだけ薄くしていた。
新しい公爵夫人は、主人の苦しみを深く理解していた使用人たちに、幸せを運んできたらしい。
彼らはタイラーの様子を喜び、
朝から晩まで、ルビナに対して好意を持って接してくれた。
やはりこの家の使用人は、とても素晴らしく、そして情に熱い。
〜〜〜
「君はこの屋敷に来てまだ一日だというのに、使用人たちに随分気に入られたようだな」
タイラーは夜にはまたルビナの部屋にいた。
「あなたが私のベッドで寝ていたから、メイドはとても満足そうだったわ」
「前の妻とは、そんな関係じゃなかったからな」
その言葉を聞いてルビナは初めて、この部屋に彼の前の妻が住んでいたことに気がついた。
そして彼はその人と離婚したと言っていた。
ルビナはひどく興味が湧いてきた。こう言う時、口に蓋ができた試しがないのだ。
「最初の結婚の内容が知りたいわ。その人と、どういう関係だったの?」
「もちろん政略結婚だ」
タイラーは今日もウイスキーを片手にソファーに座っていた。
昨日より随分気楽そうだ。
「それで?」
「それだけだ。初夜と、それから何度か抱いて、途中で彼女が妊娠していることがわかった」
「あら、あなた子供がいたのね。それでどうなったの?」
「私たちは結婚して一ヶ月で、彼女は妊娠五ヶ月だった。明らかに私の子供じゃない」
「あはは」
「君は笑うのか」
タイラーは呆れた顔でルビナを見やった。
本気で不快なわけではないと思う。タイラーは最後に口の端を曲げて笑った。
「それでどうなったの?」
「妻は、どこかの男と出て行った。駆け落ちだ。それから、私は離婚して……今に至る」
「なるほどね」
「つまらない話だ」
「ふふっ」
二人の間には、くつろいだ空気が広がっている。
少しも気まずくない。
ルビナとタイラーは、今日はお互いに一緒にいる相性がいいと感じていた。
そしてルビナは昨日の事を思い出したら、今度はそれを聞かずにはいられなくなった。
「ねえ、昨日の話の続きをする?」
「ああ、そうしたい」
タイラーも頷いた。
「それで、十三歳の時の話はわかったんだけど、結局あなたは何で私と結婚したの?」
「君がケーキサーバーを投げた時、サーカスのナイフ投げと姿が被った」
「へえ」
ルビナは驚いた。たったあれだけのことで?
タイラーはどうやらすごい記憶力の持ち主のようだ。
でもまさかそれだけで私が生まれ変わりだとは思わないわよねと、ルビナは首を傾げる。
「投げ方が似ていたんだ。とても。だから、君がナイフ投げを習った相手か、その関係者と繋がりがあると思ったんだ」
なるほど、そう考えたのか。
「じゃあ、その情報を聞くためだけに結婚したの?」
「すぐに結婚しなければ、君と話す事は一生できなくなっていただろう。それに、そろそろ再婚して、子供を持つべき時が来ていた。だから、もし君が彼女と関係がなくても、恨みはしない」
「そう。私がそのサーカスのナイフ投げと繋がりがあったとして、どうしたいの?」
「彼女の形見を、故郷に持って行ってやりたい」
「故郷……」
ルビナは言葉を止めた。故郷なんてない。
前世のルビナは小さな頃、知らない街で捨てられ、それからずっとサーカスで旅を続けてきたのだ。
小さな頃だったから、元いた町の名前も知らない。
それに、故郷がどこか分かったからといって、形見なんか持って行って欲しくない。家族が生きていたとして、その“誰か”に私のものを渡したくないという強い感情が動いた。
私を捨てた人たちに、物でも謝罪でも、受け取る資格はない。
ルビナが密かな憤りを感じている間、タイラーは説明を続けた。
「あの後、サーカスはすぐさま国内から追い出された。彼女の遺体を置いたままで。あの時、ナイフ投げが虎から私を守ろうと体を張らなければ、おそらくサーカスの全員がこの国で処刑されていただろう。だが彼女を先に殺したのは、虎ではなく騎士だった。だから温情がかかって猶予が出来た。それでも揉めたがな。だが、その隙に兄がサーカスをすぐに逃した」
「お兄さんが」
今の王だ。
「それから、この問題が大きくなり過ぎた。行き過ぎた発言を繰り返した王は王位を剥奪されて幽閉された。そして兄が王になり、私は叔父が死んだ後保留となっていた公爵を継いで王家を去った」
「そう、色々あったのね」
前世の時と今とで王が代わっている理由にまで、あのことが関わっていたとは驚きだった。
だが、ルビナにはどうでもいいことだ。今は他に気になって仕方ないことがある。
「ねえ、どうしても彼女の形見を届けたいの? もしかしたら彼女には故郷なんてないかもしれないじゃない。サーカスで世界中を周っていたんだもの。他には、何かやりたいことはない?」
できれば彼女の故郷を探すのはやめて欲しい。それはルビナにとっては珍しく大きな感情だった。必死だったといってもいいかもしれないほどに。
だが、彼の気持ちをはっきりした言葉で止めるのは、結婚して二日目の夜の寝室ではないだろう。
ルビナはヤキモキしながら彼の意識をずらそうとした。
するとタイラーは、ぼんやりと壁を見てから、ボソリとつぶやいた。
「私は、娯楽に関する規制を無くしたい」
「ああ、いいことだわ」
ルビナはとても安心した。
タイラーに前世のルビナ個人のこと以外の目的があったこともだが、彼は前に進む必要があるというのも、確実に確かなことなのだから。