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9話 夜



「ああ、よかった。こっちでよかったのね」

「え?」


 ルビナはついほっとしてそのまま喋ってしまったため、タイラーが怯んで眉を寄せた。彼は就寝するための全ての準備が整い、ガウンのみの姿でそこに立っている。髪の毛はオールバックをといて、サラサラと空色の髪が額に垂れている。

 懐かしい空色だ。


「問題があったか?」

「いいえ、何でもないの。入ってちょうだい」


 ルビナは赤い頬を手のひらで仰ぎながら平気なふりをしてタイラーを部屋に招き入れる。もちろん問題なんてあるわけがない。

 さっきまで、二人の部屋をつなぐ扉を開いてタイラーの部屋に入るべきなのか、それとも待っているべきなのかを悩んでいたのだ。

 むしろ問題が解決した。


「お待ちしてました」

「そうか」


 タイラーは何でもないように答えてから「本当に?」と付け足した。

 ルビナは気分が落ち着いてきたので、平気な顔で答えた。


「だって今日は初夜でしょう? 侍女に用意されましたし。来ると知っていたから、待っていたんです。どうします? すぐにベッドに入る?」


「……とりあえず座ろう」


 タイラーはソファーへ向かって行って、腰を下ろした。


「使用人がお酒を用意してくれていますけど、飲みますか?」


「ああ」


 ルビナはグラスにウイスキーを注ぐと、それをタイラーに渡した。タイラーは自分の分しかグラスがないことに気がついて、促す。


「君も飲むといい」


「私、飲んだ事がないわ」


「今日は必要だ」


 お酒に痛み止めの効果でもあるのだろうか?

 初夜は痛いと聞いたことがある。それが一体どういう場所がどう痛むのかはわからないが、数日経てば治るし、そのうちとても良くなるとよく前世で話したがりの女性たちが教えてくれた。

 ルビナは渋々自分の分も用意すると、タイラーの正面のソファーに座った。

 二つとも一人掛けなので、自ずとそうなる。


「君と話をしようと思ってきたんだ」


「話ですか?」


 初夜じゃなくて? それとも話してからするのかしら? と思ったが、とりあえずルビナは黙ってタイラーを見た。


「わかったわ。何の話かしら?」


「君と結婚した事情を話しておきたい」


 なるほど、とルビナは思った。

 確かに彼は結婚する理由として、ルビナの持っていそうな情報が必要だというようなことを言っていた。

 今からそれを聞かれるのだろう。


「そうですか、では話してください公爵様」


 タイラーは「名前で呼んでくれ」と小さくつぶやいた。

 そしてウイスキーで少し口を潤してから話を始めた。



「私が子供の頃、父にサーカスを観たいとせがんだんだ」


 その言葉に、ルビナは息を呑んだ。

 その話が今から始まるとは思っていなかったからだ。それが関わりのある話だとも思っていなかった。

 今から、あのサーカスで前世のルビナが死んだ時のことをタイラーの視点で語られるのだと思うと、少し緊張した。どんな話が始まるのかわからない。


 ルビナは自分が死んだ後のことを一切知らない。

 それは「貴族令嬢には恐ろしい話をしてはならない」というような慣例から、誰も教えてくれなかったというのもあるし、自分からも知ろうとしなかったという事情もあった。

 なぜ知ろうとしなかったのかといえば、人助けという良い事をしたのだと思っていたからだ。前世の人生はあれで終わったし、良い事をして死んだ。だから新しい人生をあゆむ自分には関わりのない事だと思っていた。


 こうやって聞かされなければならないのならば、あの後起きたことについてもう少し考えたり、調べたりするべきだったのかもしれない。もしも大変な事件になって、色々なことが起こって、恨まれていたらどうしよう。

 ルビナは今になって背中が寒くなった。


「君も知っての通り、この国には娯楽がない。それは前王、私の父親が決めた法律だ。前王は娯楽を忌み嫌って、国民が楽しみを得ることを堕落だと思っていた。国民は国のために働き、国を潤す為にいると思っている人間だった。だから、民に楽しみや喜びなど必要ないと、娯楽など憎むべきものだといって、そういうものを国から全て排除したんだ」


 タイラーはとても真面目な口調で語った。

 それをどう思うかという、個人の感情は含まれていなかった。


「それは遊び場や演劇場などというだけでなく、楽器も歌もない。物語もないし本もない」


 タイラーはそこで一度、ウイスキーを口に運んだ。

 ルビナもそれに倣って、手に包んだままだったグラスを口に運ぶ。

 あまり口には合わなかった。

 こんな刺激臭のする液体を口にしたのは初めてだ。


「だが、王宮には前王がそう決める前からあった絵本や、物語も残っていた。歴史という観点から、絶対に破棄すべきではないと王と戦った者たちがいたんだ。それで、人の目につかないようにするとの約束で、図書館の奥の奥に立ち入り禁止のエリアを作り、そこに封じ込めた。……そこに、子供だった私は入れてしまったのだ」


 タイラーは第二王子で、教育も第一王子ほどは厳しくなく、たまに部屋を脱走してかくれんぼするのが楽しみな子供だった。

 その小さな男の子は、どこにでも入り込み、とても好奇心が旺盛だったのだという。


「そこで出会った絵本の中に、サーカスの挿絵を見つけ、それに憧れてしまったんだ」


 子供だったタイラーは、

 楽しいことが悪いことだなどとは知らなかった。そして十二歳の時に、次の誕生日にサーカスが見たいと父にせがんでしまった。


「王は、あまり熱心な父親ではなかった。だから話の内容をよく聞きもせず、側近たちに準備してやれと命令してしまった。もしかしたら、サーカスが何かも知らなかったのかもしれない」


 そして十三歳の誕生日、前世のルビナが死んでしまう事件が起きてしまったのだ。



 サーカスの虎が、王子に襲いかかり、ナイフ投げの女が王子を庇って死んだ。



 タイラーは膝の上に何かがあることには気づいてなかった。ただ、どこかのタイミングで、何かがぶつかる衝撃だけを感じてはいた。だが、それを確認する余裕はなかった。

 自分に向かって走ってくるだけの女性に対して、自分の左右を守っていた大量の騎士たちが一度に剣を抜き出した事に驚き、気を取られていた。

 そして止める間も無く、騎士達は彼女を何本もの剣で突き刺してしまったのだ。


 彼女は血を吐きながら、それでも手を伸ばしてタイラーの膝の上のものを取り上げた。

 それは血の滴るような生肉の塊で、血だらけの彼女は満足そうに笑った。


 そして騎士たちが彼女の体から剣を引き抜いた時、大量の血が吹き出し、

 十三歳の子供だったタイラーは、頭からその血を浴びたのだ。


 虎はどうなったのか覚えていないらしい。


 タイラーは深いため息をついた。


「あれは、事故ではなかった。娯楽がないところに、王子のわがままでサーカスが国に来てくれたのだ。それを見られると国民が期待するのは当たり前のことだ。それなのに、そのサーカスは王子の誕生日のその一日、一回だけの為に開催された。それを見られるのは王子とその護衛の騎士だけだ。他には誰の目にも触れさせるなと王は言った。……だから、それに不満を持ったものたちが、騎士に紛れ込み、事件を起こしてしまったんだ。だが、誰だって不満を持ったはずだ。この国では禁止されていたが、誰もが待ち望んでいた娯楽だったのだ、それを、外側からテントを見る事さえ許さないだなどと……」


 タイラーは苦しそうに言った。

 ウイスキーのグラスを持つ手は、あまりに力強く握っているせいか、指先は真っ白になって、手の甲には筋や血管が浮き上がっている。このままでは手の中で割ってしまうだろう。

 ルビナは彼の手に触れて、ゆっくりと力を抜かせると、グラスを取り上げた。

 タイラーは「すまない……」と小さくつぶやく。


「サーカスの虎は、神経に効く特殊な香りを嗅がされイラついていた。そこに生肉で誘って私を攻撃させようとしたんだ。その事に気づいたのは走ってきたナイフ投げの女性だけだった。彼女は私を助けようとしただけだったんだ……」


「ええそうね」

 ルビナは思わず相槌を打ってしまった。

 知らないはずの情報に、訳知り顔で返事などすべきではなかったが、つい口をついて出ていた。


「騎士たちは、サーカスを警戒しすぎた王によって、近づいてきたものがあれば問答無用で殺せと命令されていたらしい。だから彼女は私の目の前で騎士たちの剣によって殺されてしまった」


 タイラーは淡々と喋っていたように見えたが、ここで力尽きたように俯いてしまった。

 さっきまでもずっと、遠い幻を見るような目をしていた。思い出を語る事で、その映像がフラッシュバックしていたのかもしれない。

 ルビナはひどく申し訳ない気分になった。


 彼は背中を丸めて俯いたまま、しばらく何も言わなかったが、やがてゆっくりと震えるため息をついて、苦しそうに声を絞り出した。


「私は……あんな風になるなんて、思っていなかったんだ」


 結局最後はまた、声が震えてしまっていた。泣いているのかもしれない。

 彼の悲痛な叫びが聞こえるようだ。十三歳の時の彼が傷ついたままで震えて泣いている。タイラーの丸まった肩がそう思わせた。


 ルビナは震えた。


 あの時、あの小さな王子様を死なせたくなかった。ただサーカスが見たくて、とても喜んでいた少年が傷つくのを見たくなかった。


 サーカスをキラキラした目で見つめる子供たちが大好きだったのだ、

 だから、そんな子供たちに夢を見せるあの場所で、事故など起きてほしくなかった。

 サーカスを楽しむ少年の夢を壊してほしくなかった。

 だから、虎の前に体を投げ出して、王子を守ったというのに。


 確かに、きっとあの時のことは王子にトラウマを残しただろうなとは思っていた。

 タイラーの不幸の影が、あの時の事に起因しているのではないかとも。


 でも、想像したのよりも全然酷い。

 私の想像なんて全然追いついていないほど、色々な事情を孕んでいた。


 彼は、あのサーカスでの事件をずっと引きずって生きてきたのだ。

 そんな傷を決定的にしたのは私だ。


 これは私の罪なのかもしれない。


 タイラーの無防備な背中を見て、ルビナの心臓がバクバクと音を立てた。

 彼にどうしたら償える?


 どうして私は、記憶を持ったまま生まれてきたのに、この事に無関心で来れたのだろう?


 私が男爵令嬢として新しい人生を満喫している間、


 私の守った王子さまは、何て可哀想なことになっていたんだろう。

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