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決心・未来5

「ありがとう。そう言ってもらえて良かった」


 姫芽はコーヒーに砂糖とミルクを入れて一口飲んだ。照れ臭さを隠すためだったが、予想よりずっと美味しかったそれをしっかりと味わってしまう。

 櫂人がそんな姫芽を見て頬を緩める。それから、僅かに視線を下に落とした。


「──姫芽ちゃんも、今日、個人面談だったよね」


「うん。私は進学だから、頑張らなきゃ」


 頷いてそう答えた姫芽は、今日の面談を思い出していた。

 先生は無理とは言わなかったが、感情までは隠せていなかった。つまり、相当努力しなければ難しいのだ。

 そんなこと、他の誰より姫芽が一番分かっている。

 先生が厳しい言葉を言わなかったのも、滑り止めに選んだ大学が適切だったからに過ぎないだろう。

 しかしそれを知らない櫂人は、自然と次の質問をする。


「この辺りの大学?」


「うん。その、……慶院大学の、英米文学科が第一志望なんだけど」


 どうしても自信のない言い方になってしまう。


「あれ、姫芽ちゃんって」


 しかし櫂人はそこには特に触れず、専攻に疑問を持ったようだ。これまで、姫芽が英語を特に好きとも嫌いとも言ったことがなかったからだろう。

 姫芽は思い切って、櫂人の瞳を正面から覗き込む。櫂人がコーヒーカップをソーサーに置いた。


「うん。あのね、私……これまで、特にやりたいことがあったわけじゃなかったの。なんとなく大学行こうって思って、なんとなく本が好きだから、日文かなって感じで。あんまり無理したくないから、丁度良いくらいの偏差値のところって」


 櫂人が姫芽の話を真摯に聞いてくれている。それが、姫芽の恐怖心を和らげた。

 自分の考えていることを、未来のことを、誰かに話すのは勇気がいることだ。それが大切な人なら、尚更である。


「でも、それじゃ駄目だなって思ったんだ」


 このままの姫芽ではいられない。

 姫芽の原動力は、その追い立てられるような焦燥にも似た感覚だった。

 櫂人が息を呑んだのが分かる。


「どうして?」


「それは」


 純粋な問いに言葉が詰まった。

 しかし櫂人はまるで縋るような目で姫芽の瞳を覗き返してくる。


「……お願い、聞かせてくれる?」


 逃げることも誤魔化すことも、できなかった。


「──櫂人くんと、一緒にいたいから。そのためには、認められるようにならないといけないでしょ。私にできることなんて……そんなにないけど、それでも、一人で世界で立っていられるような人にならないと、櫂人くんの隣にいられないと思って」


「姫芽ちゃん」


「勿論、無茶なのは分かってるんだ。まだ何になれるのかも分かってないし、なりたい職業とかも、分かんないまま。だけど」


 今のままの姫芽が、未来の櫂人の隣に胸を張って立てるかと言われたら、答えは否だ。

 だから、今の姫芽にできることは、ただ一つだけ。


「覚悟だけなら、したよ」


 それだけは、自信を持って言える。

 櫂人は花も綻ぶような笑顔を浮かべて、次の瞬間にはすうっと姫芽から目を逸らした。その仕草が、まるで何かを堪えているように見えて、姫芽の胸がきゅうっと締め付けられる。


「俺の事情に巻き込んで、ごめん」


 櫂人の後悔は、それだった。

 本来ならばまだ関わらなくて良い世界と関わり、高校生には重い覚悟をさせている。その自覚があるのだろう。

 しかし姫芽は、もう迷うことをやめていた。どれだけ迷ったところで、自分にできることも、世界も、大して変わらないのだ。


「もう、思いっきり巻き込んで良いよ。重いかも、しれないけど」


 姫芽は苦笑して手をひらひらと振った。


「いや、重いのはきっと、俺の方だ」


「櫂人くん?」


 姫芽は飲もうとしたコーヒーを、口につける前に戻した。両手をテーブルの影で組み合わせる。

 櫂人は真剣な瞳を姫芽に向けている。

 その黒の深さに、直感的に聞きたくないと思ってしまった。

 しかし、今更逃げることはできない。


「──……俺、卒業したら、アメリカに行く」


 その声は、僅かに震えていた。


「え……」


「条件を出されたんだ、兄様に。それで、俺はどうしてもその条件を呑まないといけない」


 姫芽ははっと目を見張った。姫芽が道人に呼び出されたときの、脅しの言葉。あれは姫芽に向けられてのものでいて、同時に櫂人にとっても強い拘束力がある言葉だったのではないか。


「私のせいで、」


「違う。俺のためだよ。このまま日本にいても、俺にできることは限られてる。なら、外側から攻めていかないと……何も変えられないから」


 櫂人はそう言って、顎を引いた。そんな顔をすると、本当に大人になってしまったかのように見える。

 大人になってしまったように見えて、悲しくなる。


「必ず姫芽ちゃんの側に帰ってくる。だから、自分勝手なのは分かってるけど……待っていてほしい」


 櫂人が頭を下げる。

 姫芽にはそんなこと、しなくても良いのに。

 それでもそうしてしまう櫂人が、姫芽は好きだった。

 姫芽は、姫芽にできることをするだけだ。


「──待ってる」


 振り絞った言葉は、どこか虚しい。泣かないようにと取り繕った笑みは、歪んでいるだろう。

 それでも必死で笑うと、櫂人の手がぽんと姫芽の頭に乗った。

 囁くように告げられたありがとうの言葉を、姫芽はきっと、ずっと忘れない。

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