決心・未来1
◇ ◇ ◇
あの日、櫂人は姫芽の両親に謝罪をしていた。
姫芽はその謝罪の内容を、聞いていない。
「あけましておめでとう、姫芽ちゃん」
「おめでとう、櫂人くん」
まだ呼び慣れない名前が恥ずかしくて、姫芽は熱をもつ頬をマフラーの中にそっと隠す。櫂人が嬉しそうに笑って、手を差し出した。
「並ぼ。俺、屋台も楽しみにしてるから」
「そうだね」
長くなり始めた参拝の列に、神社の規模をひしひしと感じる。
学校から比較的近くの場所を選んだが、人気の場所だったらしい。よく見ると、同じ高校の生徒らしき人もたくさんいる。櫂人だと気付いて、遠目に窺っている人もいた。
「どうしたの?」
「いや。……目立っちゃうかなと思って」
姫芽は櫂人に向き合うように立って、周囲から顔が見えないようにする。櫂人がきょろきょろと周囲を見て、それから諦めたように首を振った。
「気にしなくて良いよ。……隠さなくて良いから」
櫂人が姫芽と繋いでいる手を持ち上げる。どうするのかと首を傾げた姫芽の目の前で、櫂人はその手の甲にキスをした。
姫芽は赤くなる顔を隠す余裕もないまま、勢いよく櫂人を見上げる。
「櫂人くん!?」
「ああ、勿論、姫芽ちゃんが嫌がることはしないから。安心してね」
櫂人はそう言って、楽しそうに笑う。姫芽もそれにつられてつい笑顔になった。
あの日以降、姫芽に道人からの接触はない。櫂人が改めて話をすると言っていたが、会ってどんな話をしたのか、聞く勇気は出ないままだ。
「大丈夫。もうワンピース汚すようなことはさせないよ」
「やっぱり知って気付いて──」
櫂人が姫芽の抗議に曖昧に笑う。
いつの間にか列が進んでいて、姫芽は慌てて鞄から財布を取り出した。賽銭をいくらにするか悩んで、小銭入れの中にあった一番高価な硬貨を選ぶ。
勿体ない、と思った。
大人にとってはたいした金額ではないのかもしれないが、バイトをしていない小遣い制の高校生である姫芽にとっては大金だ。
しかし姫芽がこれだけの覚悟をしているのだから、神様だって、願い事の一つや二つ、大盤振る舞いで聞いて欲しい。
鈴を鳴らして、礼を二回。手を二回打ち鳴らして、目を閉じる。
──どうか、櫂人くんに辛いことが起こりませんように。
──櫂人くんが笑っていられますように。
──それから、
姫芽は隣で手を合わせている櫂人を盗み見る。綺麗に揃えられて合わさっている手の片方は、さっきまでずっと姫芽の手を握っていた。
──これからも、ずっと櫂人くんと一緒にいられますように。
目を開けて、一礼する。
顔を上げると、姫芽より先に顔を上げていた櫂人が、当然のように姫芽の手を掴んで引いた。
人混みから連れ出されて、少し空気もすっきりしたような気がする。
「櫂人くん?」
「姫芽ちゃん、一生懸命お願いしてたけど、何願ってたの?」
「何で?」
姫芽は僅かに気まずい思いを隠して答える。
言ってもいいのだけれど、何だか恥ずかしかった。まさか、目一杯のお願い事の全てが櫂人のことだったなんて、本人に言いたくはない。
櫂人は姫芽の質問にきょとんとして、それからふっと柔らかく微笑んだ。
「姫芽ちゃんの願いを叶えるのは、俺の仕事だから」
姫芽はどきりと跳ねた心臓を誤魔化すように苦笑する。
櫂人は初めて会ったときから、ずっと同じようなことを言っているのだ。姫芽だって、今更その度に狼狽えるようなことはしない。
「そ、れは、また、従者だからとか……そういうのでしょ」
「違うよ、姫芽ちゃんの彼氏だから。彼女のお願いだから叶えてあげたいんだ」
姫芽は今度こそ、高鳴る鼓動を誤魔化すことはできなかった。
櫂人の口からはっきりと姫芽のことを彼女だと言われたのだ。想いを伝え合ったのは年末のことで、あの日姫芽の家に泊まった櫂人はそのことには触れずに帰っていった。
だから、こうして改めて言われると、本当に彼女になったのだという満足感にも似た感情が胸を占めていく。
「それで、何をして欲しいの?」
櫂人が優しく、しかし逃がさないというように聞くから、姫芽は誤魔化すのを止めた。
「櫂人くんが……笑っててくれますように、って。あと」
本人に向かって言うのはやはり恥ずかしい。
気付けば社の裏手にある小さな公園の隅にいた。どうやってここまで来たのか、姫芽は覚えていない。
いつの間にか周りに人は誰もいなかった。屋台が出ているのとは反対方向だからだろうか。
しかし誰もいないなら、素直になることへの抵抗も少し減る。姫芽がどんなに顔を赤くしていても、他人に見られることはないのだ。
思い切って勇気を出して、姫芽は櫂人を見上げる。
「ずっと一緒にいれますようにって……あれ。櫂人くん?」
櫂人は姫芽と繋いでいない方の手で、顔を隠していた。
指の隙間から、赤くなった頬と耳が覗いている。もしかして、照れているのだろうか。
「──今のは、姫芽ちゃんが悪い」
「え?」
首を傾げた姫芽は、すぐに櫂人の腕の中に閉じ込められる。質の良さそうなウールのコートに、姫芽の顔がぽふりと沈んだ。
「反則だよ、可愛すぎ」
櫂人が姫芽の頬に手を添える。
そっと導かれるままに顔を上げると、櫂人の顔がすぐ近くにあった。こんなときどうしたら良いのか、もう姫芽は知っていた。
そっと目を伏せると、櫂人の目も伏せられる。
閉じて真っ暗になった視界と、唇に感じる柔らかな熱。
穏やかな口付けに、姫芽の心の中にもほわりと明かりが灯る。
拘束が緩んで、自然と手を繋いで歩き出した。
「──屋台、行こうか。何食べる?」
「えっとね。私、綿飴好きなんだけど──」
自然と話し出した櫂人に、姫芽も調子を合わせる。
煩すぎる心臓の音が、耳元で鳴っていた。