クリスマス・隠し事4
それから一時間程、曲が途切れることはなかった。
姫芽も美紗と一緒にクリスマスソングを歌った。櫂人が女子にねだられて流行のアイドルソングを歌ったり、クラス委員が失恋ソングを歌って泣きそうになっていたりと、賑やかで楽しい時間だった。
予約待ち画面を見ると、まだ先に五曲予約がされている。
姫芽は、曲の切れ目でスマホをポケットに入れ、空のグラスを持って部屋を出た。
ドリンクバーは同じ階の端にある。壁の矢印を追いかけながら細い廊下を進んでいくと、あちこちの部屋から音楽と賑やかな声が漏れ聞こえてきた。他のパーティールームも埋まっているようだ。
ドリンクバーには誰もいなかった。姫芽は並んでいる機械を見ながら、どれにしようかと悩む。空いていると、ゆっくり選べるのが良い。とはいえこんなに部屋が埋まっているのだから、すぐに誰か来てしまうだろうけれど。
「あ、すみません」
「ごめんなさい。どうぞ」
姫芽は背後から声をかけられて、機械の前を譲った。
同じくらいの歳の女子だった。飲み物を注ぎながら姫芽を見て、驚いたように目を見張る。
「……和泉さん」
「ええと──」
姫芽は相手の顔も名前も思い出せなかった。しかし転校生で、最初に悪目立ちをしていた姫芽だ。きっと同じ高校の生徒なのだろう。
姫芽の想像を裏付けるように、女子生徒は会話を続ける。
「2-Bもクラス会?」
「あ、はい」
「そう。櫂人くんもいるのかしら」
櫂人の名前が出て、姫芽はそうか、と思った。
姫芽が覚えている筈がない。何故なら、姫芽が転校してきた当初、姫芽と櫂人の関係を探ってくる生徒はこれでもかといたのだから。とてもではないが、全員を覚えていることは不可能だった。
瞬間、目の色が変わったことに、姫芽は気が付かなかった。
「は──」
──ぱしゃん。
女子生徒が持っていたグラスが、姫芽の目の前でひっくり返った。というよりも、投げつけられたと言った方が正しいだろう。姫芽のオフホワイトのワンピースのスカート部分に、並々と注がれていた紫色の液体が染みを作っている。
床に落ちたグラスが、ぱりんと割れた。
「わ、大丈夫? 和泉さん。ワンピースにかかっちゃった。ごめんなさい」
女子生徒は慌てた様子でドリンクバーのコーナーに置いてあった濡れタオルを手に取り、姫芽のワンピースに付いたジュースを擦った。ニットの表面に付いて吸い込まれずにいた液体が、雑に擦られることでワンピースにしっかりと色をつけていく。
咄嗟に反応できずにいた姫芽は、目の前で広げられていく染みを見て、慌てて一歩下がった。
「や、止め──」
女子生徒はにやりと口角を上げてから、わざとらしく両手を合わせた。
「わざとじゃないから許してくれるよね。ありがとう! それじゃ」
女子生徒が新しいグラスを持って、適当な飲み物を注ぐ。それから逃げるように、駆け足で廊下を曲がっていってしまった。きっとどこかの部屋に入ったのだろう。追いかけていったところで、姫芽にはどの部屋だか分からない。
その場に残されたのは、割れたグラスと、床に巻き散らかされたジュースと、派手に汚れたワンピース。それから、放心している姫芽だけだった。
「あー……店員さん、呼ばなきゃ」
姫芽は周囲を見渡して、ドリンクバーの横にあるインターホンを押した。すぐにやってきた店員が、惨状に顔を顰める。繰り返し謝罪して片付けてもらいながら、姫芽は自身のワンピースを見下ろした。
オフホワイトなんて色を着てきたからだろうか。紫色の染みがこれでもかと目立ってしまっている。クリーニングで落ちてくれたら良いのだが。いずれにせよ、このままの状態でクリスマス会に参加し続けるのは無謀だろう。
慣れた様子で片付けをした店員に改めて謝罪と礼を言い、姫芽は近くのトイレに駆け込んだ。このまま戻ったら、目立ち過ぎてしまう。何があったか聞かれるだろう。
洗面台でスカートを持ち上げ、水で濯ぐ。できるだけ濡らしたくはなかったが仕方ない。
姫芽の格闘の結果、ワンピースは腰から下がびしょ濡れになってしまった。染みは、今は明るいところで見なければ分からない程度にはなってくれている。
姫芽はできるだけ目立たないようにしてから、スマホを手に部屋に戻った。
「姫芽ちゃん、大丈夫ー?」
真っ先に声をかけてくれたのは美紗だった。姫芽が戻ってくるのを待っていてくれたのだろう。姫芽はさり気なく濡れたところを隠しながら、ハンガーにかかっているコートを手に取った。
「あ、うん。ごめん。急に家から電話があって……先に帰るね」
「そうなの? えー残念。でも、それじゃ仕方ないか」
コートを着て、前のボタンを留める。これで染みの殆どが見えなくなってくれただろう。バッグを持ち、中身を軽く確認する。渡せていない小さなプレゼントが、一瞬視界に入った。
姫芽を見ていたクラス委員が、くじが入った袋を持って寄ってくる。
「え、何。ひめ様帰んの? じゃ、先にくじ引いてってよー」
「あ、うん」
姫芽が引いたくじには、『3』と書かれていた。クラス委員に見せると、すぐに小さな紙袋を持ってきてくれる。どうやら、これが『3』のプレゼントのようだ。
「はいこれ。それじゃ、また新学期にね!」
「ばいばーい!」
皆が笑顔で姫芽を見送ってくれて、うっかり泣きそうになる。しかしそんなことをしたら、折角の楽しい場が台無しになってしまうだろう。
姫芽は笑顔を作って手を振った。また新学期に、と決まった挨拶をして、部屋を出る。会費は先に渡してあるから、大丈夫だろう。
外に出ると、途端に冬の寒さを感じる。まだ五時なのに、すっかり暗くなっていた。あちこちの店に飾られたイルミネーションが、きらきらと輝いている。
「……せっかく、楽しかったのに」
ぴゅうと風が吹いて濡れたワンピースを冷やしていく。タイツまですっかり湿っていた。ただでさえ寒いのに、これでは風邪を引いてしまうだろう。
「寒……早く帰ろ」
楽しいクリスマス会だった。クラスの皆との距離も、更に縮まったような気がする。それなのに、途中で帰らなければいけなくなったことが悲しかった。
姫芽が帰るとき、櫂人の顔は見られなかった。何かに気付かれてしまうような気がした。
櫂人に懸想する女子生徒の行動とはいえ、もう転校当初のように、姫芽が櫂人を恨むことはない。櫂人のせいではないと分かっているからだ。
それでも櫂人の顔が浮かぶのは、慰めてほしいからではない。
ただ鞄の中にあるプレゼントを渡せなかったことを、残念に思っているからだ。