文化祭・距離4
お化け屋敷の中は暗い迷路のようになっている。黒い布で仕切られた通路は、今にもそこから何かが飛び出してきそうな雰囲気だった。
櫂人が受付で渡された懐中電灯で進路を照らしてくれている。姫芽は怖がる美紗を庇いながら、距離を開けずについて行った。
段ボールで作られた門を開けて、先に進む。布には絵がうまい生徒が書いたらしい廃屋の絵が貼られている。と、そのとき、幽かな青い光が天井近くを横切った。
「ひっ」
美紗が小さく悲鳴を上げ、姫芽の手を強く握る。
姫芽は光が横切ったあたりを観察した。よく見ると、透明なテグスが天井のフックに吊られている。ここに紐を通したLEDライトのようなものを滑らせたのだろう。
「あー、これ、よくできてるね」
「本当だ。手が込んでる」
姫芽の言葉に櫂人が冷静に相槌を打つ。
「怖くないの……?」
「お化け屋敷ってことは、人がいるってことだから」
美紗の質問に、櫂人がさらりと答える。
姫芽はそれを聞いて納得した。本当の廃屋であれば、自分以外の人はいないのだ。物音がしたらそれは正体不明で恐ろしい。しかしここはお化け屋敷だ。脅かし役の人が何人もいて、そのための仕掛けがある。だから、物音などに怖がることはないのだ。
「分かってるけど、怖いもんは怖いよっ!」
美紗が半分怒りながら先に進んでいく。脅かし役の数人の生徒と会い、もうすぐ出口というところで、目の前にいかにもな棺桶が置かれていた。
蓋が開き、気合いの入った血糊の歩が上半身を起こす。
「見ーたーなー」
姫芽は、やっぱりここにいたかと思った。ドラキュラといえば棺桶だ。この出し物もドラキュラの館モチーフなのだから、最後だろうと予想していたのだ。櫂人も同じだったのか、驚かず、片手を上げて挨拶をしようとしている。
しかし、美紗は違った。繋いでいた姫芽の手を振り払って、全速力で走っていく。
「う……う……うぎゃー!!」
「美紗ちゃん!?」
驚く三人を取り残し、美紗はあっという間に出口から出ていってしまった。
美紗が落ち着いたところで、血糊を落とした歩が合流した。
大階段の踊り場は広く、人通りはあるが端の方ならば落ち着いて話ができる。四人はこれからどこを見て回るかの相談をしていた。
邪魔にならないように固まっているので、何も知らない人が見たら、二組の恋人か、仲が良い友人同士に見えるだろうという距離感だった。
姫芽は家庭科部を見に行きたいと言い、美紗が頷く。櫂人は歩から、運動部の練習試合に混ざってきたらどうかと言われ、手をひらひらと振って断っている。姫芽もこの機会に、校内をたくさん見たいと思ってわくわくしていた。
そのとき、階下の騒めきがこれまでよりもひときわ大きくなった。
ひょいと首を伸ばして騒ぎの元を確認した歩が、勢いよく櫂人に目を向けた。
「──櫂人。あれ、道人様じゃ」
櫂人は慌てて振り返り、『道人様』らしき男性を見つけて顔色を変えた。
「姫芽ちゃん。ごめん」
「え。ちょっと、な──」
櫂人が姫芽の腕を掴んで引く。すぐ側に二つ並んでいた掃除用具入れのロッカーを開けると、姫芽の声にも構わず押し込み、人差し指を唇の前に立てて扉を閉めた。
「美紗ちゃんも念の為ね」
歩の声と金属の音から、美紗も隣のロッカーに押し込まれたことが分かる。
ロッカーの中は暗くて狭かった。踊り場のロッカーの中にほうきとちり取りしか入っていなかったのが不幸中の幸いだ。そこまで匂いは気にならない。
斜め下に向かって開いている隙間から、櫂人と歩の足下が見える。そこに、スーツを着た男の足が近付いた。ぱりっと糊が利いたスーツに学校のサンダルは妙にちぐはぐだ。
「兄様、お久しぶりです。こんなところで、何をしているのですか」
櫂人の声が、硬かった。
「……久し振りだという自覚はあるのか」
道人というらしい男の声は、櫂人の声に似ていて、しかし櫂人よりも早口だった。なんとなく責められているような気持ちにさせられるのは何故だろう。
道人はふんと鼻を鳴らした。
「そんなにもお前が通いたがる高校を、わざわざ見にきてやったんだ」
「見学でしたら、俺が案内しますが」
櫂人がすかさず言って返す。
兄弟にしては固い言葉遣いと櫂人の警戒している様子から、姫芽は櫂人の家には何か事情があるのだろうと思った。
櫂人は、道人から姫芽と美紗を隠したいのだろう。姫芽は気付いて息を詰める。しかし隠れようと意識すると、自分の心臓の音が普段以上に大きく聞こえる。どきどきと煩い鼓動に、手の平に汗が滲んでいく。
「いや、もう目的は果たした。……そうか」
「どうされましたか」
「いや、何でもない。そんなことより、櫂人。たまには実家に顔を出せ。父上が喜ぶ」
「はい」
櫂人の返事を聞いて、道人が今来た廊下を戻っていった。隙間から見えていた足が一組なくなる。本当に、櫂人に会うためだけに来たような行動だった。
姫芽は離れていく道人にほっと息を吐いて気を緩めた。
「──七匹の子ヤギの母親のほうが、まだ隠すのは上手い」
「それは──……っ」
櫂人の落ち着いた声が乱れた。
姫芽は叫びそうになるのを必死で堪えた。さっきのお化け屋敷なんかより、ずっと怖かった。櫂人の背中が隙間から見える。きっと、姫芽を庇ってくれているのだ。
今度こそ、道人は帰っていったようだ。歩が深い溜息を吐く。
「失敗したな。かえって隠さない方が良かったんじゃね?」
「それじゃ、顔をしっかり見られるだろ。……こうするしかなかった」
がたん、とロッカーのドアが開けられる。姫芽は急に差し込んだ明かりに目を細めた。
「……姫芽ちゃん、もう良いよ。美紗ちゃんもごめんね」
光に慣れてきてしっかりと目を開けると、櫂人が申し訳なさそうに眉を下げていた。心なし顔色も悪い気がする。
「急にどうしたの?」
「姫芽ちゃんは気にしなくて大丈夫だから」
そう言って首を左右に振った櫂人の身体が、僅かにぐらりと傾いだ。倒れる──と思って、姫芽は支えるように腕を掴む。その肌が妙に冷えていてはっとした。
「園村くん!?」
姫芽は、櫂人が心配だった。
しかし櫂人はそれ以上の追求を拒絶するように、姫芽の手にそっと反対の手を添えて外してしまう。
「ごめん、姫芽ちゃん。……なんでもないよ」
「櫂人──」
「歩、大丈夫だから」
どうやら、誰にも話す気はないようだ。歩は何かを知っているのだろうけれど、言わないだろう。姫芽も、他人の家庭の事情を無理に探る気はない。
姫芽が言葉を探していると、歩がぱんと手を叩いた。
「そうか。よっし! それじゃ、購買寄ってパン買って、折角だし屋台回って買い食いしよう。良いか、櫂人?」
「ああ、そうだな」
「う……うん! 楽しみ!」
なんとなく空回りの返事になってしまったが、櫂人の顔色はさっきよりもいくらかましになっている。心因性のもののようだから、本人が大丈夫だと言うならば、無理に休ませることもないだろう。逆に気を紛らわせた方が良さそうだ。
四人は購買で買ったパンをいつもの定位置で座って食べる。その頃には、櫂人はすっかり普段通りに戻っていた。
しかし次の日、文化祭最終日。櫂人は学校を休んだのだった。