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霧の八峰山  作者: ウチダ勝晃
第六章 静かなる夏

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静かなる夏③

 うっすらと二日酔い気味の体で、いちおう宿をとる段に目的として話してもいた八ヶ峰神宮参りを済ませると、真樹は病み上がりの体を温泉で癒し、坂東医師は学会の発表で大勢の同業者を相手にして疲弊した神経を鎮めるべく、宿の部屋と浴場をひっきりなしに行き来し、松前漬けを肴に、地酒で満たした杯を交わすのだった。

 そして、四日にわたる逗留も幕を閉じ、悠々たる調子で宿を出た二人は、昼頃に八峰町を出た快速列車の座席でうたた寝をしながら傘岡に戻り、再び、傘岡駅の喧騒に満ち満ちたプラットホームへと降り立ったのであった。

「――右も左も足音、おしゃべり、嘆きに怒り。どうしてまぁ、駅のホームっていうのはこうも人間模様が豊かなんでしょうねぇ」

 向かいのJRのホームに止まっている特急列車から降りるお客や、信号待ちでドアを閉じたままぴくりとも動かない鈍行列車の車窓。そして、キヨスクで新聞を買うOL、小さなカウンターのついた軒先で立ち食いのそばをたぐるサラリーマンや学生を眺めながら、古びた革のトランクを提げ、カンカン帽子を被った真樹は、隣でスタンド灰皿を前にキャメルをくゆらす坂東医師につぶやいてみせる。

「石川啄木がお国訛りを聞きに出かけたほどです。人の行き来のあるところには、その数だけドラマがあるんでしょう」

「さすが先生、粋にまとめましたね」

 坂東医師が吸い殻を捨てたのを見て、彼を近くのベンチへ誘うと、二人はそこへ腰を下ろし、JRのホームの上を行き来する人々や、発車していく特急列車の様子をのどかに眺めていたのだった。

「――前にも、こうして駅のホームで話をしたと思うんですがね」

 おもむろに口を開いた真樹に、坂東医師はそういえば、そうでしたね、と、目を合わせずに返す。

「なんとなく、あの神社と、あのナホという何者かのつながりが読めたような気がするんです。なぜ、あの女性は六年おきにあの場所へ現れるのか……」

 足を組み替え、トランクをベンチの下へ押しやってから、真樹は話を続ける。

「祠の中にあった銅像も、はてはその祠の痕跡すらもない今となっては、たしかに鳴虎帆という神様を祭る、物理的なものは存在しない。けれど、浦部宮司が言ったように、ああしてその使いか何からしい、ナホがあの神社に現れた時だけ、そこには目に見えない、信仰という形で鳴虎帆教とでも言うべきものが存在していたわけです」

「もしかするとその六年ごとにだけ、信徒が集まりを催して、鳴虎帆をあがめていたのかもしれませんね。それこそ、九州の隠れキリシタンが観音様をマリア像に見立てて祭っていたように……」

 坂東医師が付け加えると、真樹は頷いて、そうかもしれませんね、と、彼の推測を肯定してみせる。

「はたしてそのことをかつての神社庁や、今の神社本庁が知っていたかはわからない。ただ、ある程度嗅ぎつけていたとすれば、そりゃあ面白くはないでしょうよ。ああして鉄砲玉みたいなやつを送り込むのも無理はないわけだ」

「自分たちが拠り所とする神道の教えを頑なに守ろうとする。まあ、僕などに言わせたら、つまらぬ見栄で意固地になっているだけ、とも思えますがね」

 オールバックの生え際をそっと撫でながら笑う坂東医師の言葉に、間違いないでしょう、と、真樹啓介も笑ってみせる。

 その目の前のプラットホームを、上りの貨物列車が寝ぼけたような警笛をあげてコンテナの行列を引いていくのを真樹たちはぼんやりと見つめていたのだが、突然、その光景がストップモーションでもかけたように、残像を帯びたまま止まったのに気づくと、二人はバネのとれたおもちゃのように、ベンチから飛び上がった。

「真樹さん、これは……」

「夢まぼろしの類じゃなさそうですよ、これは……」

 この奇妙な状況は果たして――と、二人は額に汗を浮かべながら様子を伺っていたが、その答えは案外早く、仕掛けを施したであろう張本人の登場によって明らかとなったのだった。

「やっぱり、あんたの仕業だったか」

「――こんにちは。お二人とも、八峰町からのお帰りですか」

 包帯ひとつない整った顔に笑みを浮かべる、袴姿に小さな巾着を携えたナホに、真樹はポケットへ手を突っ込んだまま、頼まれごとは果たしましたよ、と、どこかつっけんどんに返してみせる。

「で、いったいどうしてまた、僕らの前に現れたんです?」

「最後のお別れ……というよりは、お礼が言いたくって参りました。長い間、このNの地にいましたけれど、残念ながらこれで、私もお役御免、故郷へ戻ることになったんです」

「――お役御免、というのは、あなた自身が信仰されていたことと、関係がおありなのですか」

 坂東医師がロイド眼鏡を直しながら尋ねると、ナホはちょっとためらってから微笑んで、ご想像にお任せしますわ、と、肩をすくめてみせる。

「――遠い遠い昔、私がこの地で果たすべきだった真の目的は、頼んだ側も志半ばで折れてしまって、何一つ果たせないままに済んでしまった、とでもいえば、多少はご満足いただけるでしょうか。迎えに来た同胞のおかげで傷も癒えたことです、しばらくは静かな、長い夏休みを過ごすことにしましょう」

 それだけ言うと、ナホは軽く咳ばらいをしてから、

「それではお二人とも、またどこか、遠い時間の中で……さようなら」

 まるで、蚊取り線香の煙がうちわの風に掻きまわされるように、貨物列車の過ぎる音と夏の熱気に巻き込まれて、かげろうのように姿を消してしまったのだった。

「……最後まで、とらえどころのない人でしたね」

 いつも通りの騒がしい音にくるまれた傘岡駅のホームの上で、坂東医師はベンチにけだるげに座りなおしてから、隣でペットボトルのミネラルウォーターをなめている真樹へつぶやいた。

「元来、そういう性質の人なんでしょう。まぁ、これで鳴虎帆稲荷の秘密も、永久にわからなくなってしまったわけだ。かくなる上は――」

 そこから先を言いよどむ真樹に、どうかしましたか、と坂東医師が尋ねる。すると、ようやく口を開いた真樹は、彼のほうを向き直って、

「かくなる上は、彼女の言う通りに、静かなる夏を過ごそうじゃありませんか。人ならざるものに命を狙われるならいざ知らず、有意義に過ごせと言われるなんて、なかなかない経験でしょう」

「その言葉に忠実に動くのもまた、面白いのかもしれませんな。――行きましょうか、真樹さん」

 黙って頷く真樹の荷物を抱えると、坂東医師は夏風のゆるく吹くホームを抜けて、改札口へと向かうのだった。

 セミの鳴き声が遠くで聞こえる、八月を間近に控えたある午後の光景である。


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