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霧の八峰山  作者: ウチダ勝晃
第六章 静かなる夏

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20/21

静かなる夏②

 鳴虎帆稲荷のナホより、真樹啓介様へ


 このお手紙を読むころには、おそらくあなたはお召しになった夏風邪が治り、仲の良いあの少年の来訪を受けてひと段落ついているところなのではないでしょうか。もっとも、わたくしはあなたの頭の中に、あの鳴虎帆稲荷で起きた出来事、一切の記憶が真樹さんの中に残っているものと勝手に思ってこの手紙を書いておりますから、訳の分からない、気の違った手紙だと思って破り捨てられても文句は申せません。が、ひとまず、書きたいことを書きたいままに、したためさせていただこうと思います。

 わたくしがあの晩、皆さんの前で神社本庁の一団から放たれた数多の矢を至る所に受け、つゆりちゃんの腕の中に倒れ込んだのはご記憶の事と思われますが、あのあとわたくしは、かつて真樹さんやそのお友達が本殿へ現れたときにしたように、時間をおもいきり巻き戻し、みなさんをあの道路が溶ける以前の、七月の末にお連れしたのです。最初に時間をさかのぼった時と同じよう、あなた方の頭の中にここまでの記憶の一切が残ることを期待して――。

 真樹さん、そして、おそらく一緒にこのお手紙を拝見なさっているであろう坂東先生。あなた方にお願いしたいことはただ一つきりです。どうか、この天命を全うし、長い年月を過ごした者を追わずに、ひそやかな夏をお過ごしいただきたい、ただそれだけなのです。

 人ならざるものとして生を受けたとは言えども、いちおうこれでも女ですから、白粉の下のしみやそばかすは数えられたくないのだろう、というくらいに思っていただければ、それで十分です。

 では、お二方の今後がより良いものとなりますことを祈って。


ナホ


 追伸

 お願いがただ一つきり、というのはやっぱり無理でした。六年おきに顔を出していたあの神社の人々の行く末がどうにも気にかかってなりません。どうか、この夏につゆりちゃんや宮司さんの元を訪問して、それとなく様子をお尋ねになってみてはもらえませんか。手筈は整えておきますから、いつ訪ねられても大丈夫なようにしておきます。


「――まさか、こうして手紙をもらうことになるとは思いませんでしたねぇ」

「まったく、その通りですよ」

 坂東医院の二階、洒落たバーカウンターのある客間のソファに向かい合って座りながら、真樹と坂東医師は、どこにでも売っているような白地に薄灰色の罫線を引いたきりの便箋を前に、アイスコーヒーの入ったグラス、そして火のくすぶるキャメルの吸いさしを持ったまま、かれこれ五分ばかり姿勢を変えずにけだるいまなざしをテーブルの上に送っていた。

「――こうして目の前に便箋があり、達者な筆致が躍っているところからすると、私が学会の合間に見た、白昼夢かなにかだと思ったあの光景は、すべてこれから起こるはずだったこと、というわけなのですね」

 唇から紫煙をもらしながら、坂東医師は細く開けた両の目をしばつかせ、彫像のようにぴくりとも動かない真樹のほうを見やる。Nで開かれた学会のためにとっていた宿で電話を受けてからというもの、かねてから疑問になっていた出来事にけりがついたためか、真樹に比べて、坂東医師はいくらか落ち着いたような装いであった。

「おかげで、あの怒涛の数日間の苦労がみんなパァになりましたがね。まあ、これはこれで、平和的な解決をした、ということになるんでしょうが……」

「真樹さん、もしかしたらですが……」

 フィルターを灰皿の上でねじり、真新しいキャメルへ火をくべると、坂東医師はワイシャツの上へ着けた夏物のチョッキのポケットへ両の手をつっこみ、おそらく、僕らは同じことを考えてると思うのですよ、と、ちょっとお道化た表情を浮かべてみせる。

「――あなたは現在進行形で神社本庁ににらまれているであろう、浦部宮司とつゆりさんが気にかかって仕方がない。どうです」

「――その通りですよ。おそらく、ナホさんの一番の気がかりはあの二人でしょう」

 グラスをおいて足を組み、両腕を後ろへ回したまま、真樹は坂東医師の目を穴が開くように見ていたが、そのうちに、どちらからともなくヒクついたように肩を揺らして笑いだすと、

「ナホさんの言葉の通り、静かな夏を楽しむために行こうじゃありませんか。霧のない、あの霊峰のふもとへ」

「賛成です。ちょうどいい、あの温泉で暑気払いと洒落たかったんだ。先生、予定はどうしましょうか」

 と、いつも申し合わせて遊びに出かけるような気軽さで、二人はカレンダーを眺めながら、めいめいの予定を突き合わせ、旅の支度を始めるのだった。

 そして、あと二日で七月も終わろうという日の朝、貨客混載の快速列車に乗り込んで八峰町へと向かった二人は、実際のところは二度目の逗留となる「八峰館」へ入ると、真樹の好物となっていたドクダミ茶をすすり、昼食をすませてから、町一軒のタクシー会社へ電話をして、鳴虎帆稲荷へと出発することとなったのだった。

「――お客さんも物好きですねえ。八ヶ峰神宮ならともかく、あんなひなびたお稲荷さんへ行こうだなんて」

 いつぞや、少年たちと自転車で登った細い道を、器用なハンドルさばきで悠々と走るタクシーの車内で、真樹たちは白髪頭の運転手からそう声を掛けられ、そうかもしれませんなぁ、と適当に相槌を打っておいた。

「ただどうも、あそこは学術的ナントカ……という点じゃ、大変に興味をそそられる場所なんですかなぁ」

「まあ、そういうことになるでしょうね。ずいぶん前に、僕もどこかで名前を聞いたような気がしたんですが……きっと有名なんでしょうよ」

 もちろんそれは、真樹が本来の目的をぼやかすためについた嘘だったが、おもいがけずに、運転手からこんな話がもたらされたのである。

「――いや、どうもそうらしいんですよ。それこそ、五月ぐらいに東京からいらっしゃった民俗学研究の偉い先生をお連れしたんですわ。そうしたらしばらくあとに、なんとか研究とかいう、白い表紙に文字ばっかり、目次みたいに書いてある本が届いて……」

「――もしかしてそれ、『民族研究』じゃありませんか」

 すかさず坂東医師が助け舟を出すと、運転手はバックミラー越しに目を丸くして、それそれ、と車内めいっぱいに響く声を二人へ浴びせた。

「それですよ、それ! なんでも、このNにもその雑誌に記事を寄せてる、実に優秀な学者がおるとか手紙には書いてありましたが……。案外この、工場やなんかばっかの県にも、そういう大変な人がいるもんなんですなぁ」

 まさかそれが自分のこととも、後ろにいるこの青年のことだと言えず、真樹と坂東医師はしばらく、こそばゆい気持ちを抑えるのに必死だったが、ただ一人、真樹だけはそれに交じって、ひどく納得のいく、安心に近い心持ちにひたっているのだった。

 ――そうか、「民族研究」に載ってたのか。六月号、あいつに貸しっぱなしで手元にないからなぁ。

 ここまでのきっかけとなった、あのモデルロケットの話を持ち込んできた常連の少年に件の号を貸していたことも思い出すと、真樹は自分の記憶が達者だったことに安心しつつ、そのうちに催促の電話をしておかないとな、と、揺れる車窓を見つめながらぼんやり考えるのだった。

 数分ののち、どうにか神社の前に来ると、真樹と坂東医師は一時間後に迎えに来てほしい、と運転手に伝えて、遠くからこだましてくるセミの合唱を聞きつつ、鳴虎帆稲荷の様子を伺った。自分たちのほかに参拝客もおらず、かといって、社務所のほうが騒がしい、という気配もない――。

「留守にかちあっちゃったんでしょうか」

「ひょっとすると、そうかもしれませんね。ちょっと座りましょうか」

 春にはよい枝ぶりを見せていたらしい、すっかり青葉でいっぱいになった小ぶりの山桜の下へ向かい、日差しをよけながら水筒のお茶、キャメルの煙をかみしめながら二人が待っていると、今しがた通り抜けてきたトンネルの暗闇の中から、原付自転車のあえぐようなローギアの音が、のっそりとこちらへ近づいてくるのがわかった。

「――真樹さん」

「もしかすると、そうかもしれませんよ」

 吸いさしをポケット灰皿へ入れ、水筒の栓を閉めると、二人は姿勢を正し、だんだんと大きくなってくるエンジンの音の方角をじっと見つめていた。そして、予想通りにその音の主が、年季の入ったスーパーカブへまたがったつゆりであることに気付くと、二人は彼女の視界へ自分たちの姿が入ってから軽く頭を下げ、ゆっくりと、近くまで向かうのだった。

「――あの、失礼ですが、浦部つゆりさんでお間違いありませんか」

「は、はい。浦部つゆりは私ですが……もしかして、真樹啓介さんと、坂東祐太さんですか?」

 どうやらナホの手回しが利いているらしいとわかると、二人はほっと胸をなでおろし、自分たちがナホの手紙にあった二人組であるということを話し、了解を得たつゆりの案内で、家の掃除をしているらしいという浦部宮司のもとへと通されることになった。玄関先で初めて顔を合わせた浦部宮司は、サンタクロースのように伸びた白髭や頭髪のほかはいたって健康な、六十の峠を越し、そろそろ七十へ手の届こうという年齢の割には達者な立ち姿の老人で、二人がナホから聞いていた人物だとわかるなり、

「いや、お待ちしておりました。さ、さ、奥へどうぞ……」

 と、それこそ王国貴族でも現れたときのような下にも置かぬ丁寧さで、真樹たちを客間へと通したのだった。

「――ナホさまから手紙を見たときは驚きました。やんどころない事情から、日本を離れねばならなくなったとか言う話でしたが……」

 南部風鈴のぶらさがった縁側を背に、袴姿の浦部宮司は扇風機の風量をリモコンで調整しながら、出された緑茶をすする二人へ話を切り出した。

「ええ、そうなんです。ちょっとしたきっかけで知り合いになったんですが、それからまもなく、そうした事情でここへ顔を出せなくなったから、ひとつ代わりに、みなさんがお元気かどうかを見てほしい、と言われましてね。もっとも、彼女からはまだ、新しい住所や連絡先の類は知らされていないのですが……」

 面倒な患者をさばくときのような塩梅で坂東医師が話を合わせると、浦部宮司はなるほど、そうでしたか……と、どこか寂しげな顔をしてみせてからおもむろに、七年おきに現れるナホという女性について語り始めた。

「おそらく、単なる親子の空似か何かだと思うのですが、あのお方は私が物心ついたころから、七年おきにきっかり、ここへ姿をお見せになる不思議なお方でした。まあ、せんに学者の先生もいらっしゃったことだし、別段隠すほどの事でもないんですがな」

 急に浦部宮司の口調がひそやかになったので、真樹と坂東医師は身をかがませ、宮司の言葉へと耳をそばだてる格好となった。

「――この神社はもともと、明治の神道改革以前にはお稲荷様とは別に神様を祭っていたんだそうです。それがこの、鳴虎帆という奇妙な名前に残っているわけなんですが、どうも父や祖父の話では、そうしたお祭りをやめる形になったころから、あのお方の一族は六年おきにここへ姿をお見せするようになったそうなのですよ。なんとも不思議な話ではありますが……小さい時分から、親にもこのことはあまり詮索するなと教わったもので、結局、詳しいことは判らずじまいですよ」

「――なるほど、そういうことだったのですね。どことなく、浮世離れのした不思議なお人だとは思っていましたが……。ときにお尋ねしますが、名前の由来にある、鳴虎帆というのはいったいなんなのですか。どうも、調べてもよくわからないままだったもので……」

 相手の勘所を探りつつ、真樹がそっと質問を投げると、浦部宮司は意外なほどあっさりと、名前の由来を語ってくれたのだった。

 それによれば、鳴虎帆というのは戦国時代、大陸から渡ってきた道教の神官を通じてもたらされた、乱世にとっては却って世を鎮めるような意味合いを持つ、混沌をつかさどる神の名前が由来ということで、その神のある一つの形を模したという銅像が、あちこちの装飾が壊れ、くすみながらも戦前までは本殿からさらに奥へ登った山中の祠にあったらしいのだが、惜しいことに戦中、ときの神社庁による圧力と、金属回収の高まりによって供出されてしまい、どこかの戦線で使われた大砲か小銃の一部として鋳溶かされてしまったようだ、ということだった。

「軍属だった祖父が終戦間際に上海から復員をしてきた時点では、もう祠そのものも台風で壊れてしまっていましてね。それでもまだ、わたしの小さいころには祠の石垣の面影はあったんですが、今じゃあその痕跡すらありません。あのナホというお方が現れ、私や孫のつゆりと話しているときにだけ、鳴虎帆さまというその神様の信仰が息を吹き返していた、ともいえるかもしれませんなぁ」

 遠い昔を懐かしむ浦部宮司のしんみりとした表情につられて、前のめりになっていた真樹と坂東医師もどこか寂しげな顔になってしまったが、それを一掃するような浦部宮司の笑い声に、さすがの二人もひっくり返りそうになってしまった。

「――まあ、それはともかくとしてですじゃ。こうしてお客人の来たのは久々なので、いろいろとおもてなしの支度をしておったのですよ。つゆり、あまり急がなくていいから、しっかりと頼むぞ。さ、さ……」

 一時間ほどで引き上げるつもりだった真樹たちだったが、こうして歓迎ムードに染まっている浦部宮司の誘いを無碍にはできず、結局、車もキャンセルをして夕方ごろまで山の珍味に舌鼓を打ち、地酒の味に酔いしれるのだった。

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