夏風邪と粘液②
夢か真か、それこそあやふやな出来事から一夜明け、事態は思わぬ方向へと進展した。十二時過ぎ、そろそろ昼の休憩でもとろうか、と蛍に声をかけた真樹は、けたたましい警笛と共に、住宅地ではめったに聞けない、ゴムタイヤがぬかるみにはまったときのような音に驚き、店の外へと飛び出した。
「なんじゃこりゃ――」
目の前に広がる実に奇妙な光景に、真樹啓介はまざまざとその両の目を見張ることとなった。「真珠堂」の前を通る、片側一車線の細い道路の舗装が、まるでバースデーケーキのろうそくの成れの果てのようにドロドロに溶け、その中に軽トラックが一台、斜めになって沈み込んでいるのだ。
「真樹堂さん、いったいこりゃなんです」
二軒隣の酒屋の親父が、酒造会社のロゴを染め抜いたエプロンで手を拭いながら表へ出てきて、真樹へ事情を尋ねてきたが、
「さあ、何が何だか……」
「この暑さでアスファルトが溶けたんでしょうかねえ」
真樹の後ろで様子を伺っていた蛍は、タイヤが半分以上漬かっている路面を指さしながらつぶやく。酷暑にやられ、路面が溶け出すということは決してあり得ない話ではないが、舗装材の進化した今日、日本では滅多なことがないと起こりえないものである。
すると、何か他に理由があるのだろうか……? 真樹が腕を組んだまま、ドロドロになったアスファルトを眺めているうちに、ふと、軽トラが沈んでいる辺りが昨夜、奇怪な音と臭気に襲われたのと同じ位置であることに気づき、背筋が冷たくなるのを覚えた。
――何かが染み込んで、アスファルトを変質させたんだろうか?
だが、さすがにそれを調べるだけの気概を病み上がりの真樹は持ち合わせておらず、どこからかやってくるパトロールカーのサイレンと、運転手を助け出そうとかけつける近所の商店主たちの掛け声が、夏の裏通りにこだまするばかりであった。
「――そういえば、真珠堂の近くでアスファルトが溶ける騒ぎがあったらしいですね」
行きつけの個室居酒屋「ぎよ港」の、大手通りに面した部屋でビールを飲んでいた真樹は、坂東医師の言葉にむせかえり、しきりに肩を揺らした。あの奇怪な出来事から三日ほど経った、ある日の夕暮れ時のことである。
「真樹さん、大丈夫ですか」
「――なに、大丈夫大丈夫。……そうなんですよ、うちの真正面でそんなことがあったもんだから、ヤジウマだらけになりましてね。まあ、その何割かがついでに本を買っていってくれて助かりましたがね」
商魂たくましいなあ、と、坂東医師が真樹のグラスへビールを注ぎながら返す。しばらく、N県医学会の用事で傘岡を留守にしていた坂東医師は、今朝がた出勤してきた看護師からその話を聞いたのだという。
「なにせ、新幹線の高架下にある古本屋さんといったら、あなたのところしかありませんからね。すぐにピンときましたよ」
「ハハハ、なるほどね……」
愛想笑いを浮かべ、ビールへ口をつける真樹へ坂東医師は、
「それにしても、いったい何が原因なんでしょうね。素材が悪いせいか……劣悪な材料をつかまされたのか……」
と、運ばれてきた刺身の盛り合わせをつつきながらつぶやく。
――前の晩に見たこと、言ってしまおうかな。
黙ってグラスを持ったまま、真樹はしばらく坂東医師の顔を覗き込んで様子を伺っていたが、いまいち決心がつかず、その日はいつも通り、他愛もない話をして解散、ということになった。
赤い顔の坂東医師を傘岡駅の電停から市電へ乗せると、真樹はぶらりと、家に向かってアーケードの下を歩き出した。馴染みの中華料理店の角を曲がり、店の向かいにある冷麺の旨いラーメン屋のところまで来たところで、後ろから真樹さん、と自分を呼ぶ声がしたのに気付くと、真樹はほてった顔を振り向かせ、声の主へ目を合わせた。
「なんだあ、君かあ」
背後にいたのが先日、自分の元へ見舞いの品を持ってきてくれた少年だとわかると、真樹は首筋を掻きながら、どうかしたのかい、と、アロハシャツ姿の彼に話しかける。
「知り合いの家でごちそうになった帰り道なんですよ。で、ちょっと甘いものでも食べてから寝ようかな、と思って、そのお誘いへ行くとこだったわけです……」
「明日が休みだからって、高校生のうちから夜遊びは感心できんなあ。ま、君なら別段、問題はなさそうだが……どこに行く?」
無地の開襟シャツの襟元を掻きながら、真樹啓介は少年に行くアテを尋ねる。
「こういう蒸す晩は、『バッカス』のアイスコーヒーをなめながら市電の音を聞くに限ると思うけど、真樹さんはどう思う?」
「こいつ、深夜喫茶なんか二、三年早いぞ。まあ、異論はないけどな……」
少年の背中を悪戯っぽく突くと、真樹啓介は南傘岡線の往来が見える通りへ、すずらん灯の下を歩きだした。
件の「バッカス」は傘岡駅の西口、大手通から東南北へ伸びる線路の一つ、南傘岡線を眼下に見下ろすビルの三階にあった。間接照明のついた店内へ入り、市電通りがよく見える窓辺の席へ座ると、真樹啓介と少年は、アイスコーヒーをなめつつ、よく冷えたチーズケーキへフォークをたて、とりとめもない話に花を咲かせた。
「じゃ、もう明日からは楽しい夏休みってわけか」
アイスコーヒーをすすりながら真樹が聞くと、少年はそういうことです、と言いながら、ケーキの一かけらを口へ放り込む
「夏休みぐらい実家で丸々過ごしてもいいんですが、この街のほうが性に合ってましてね。お盆の墓参り以外はゆったり、映画でも見て過ごそうと思うんです」
「優雅なやつだなあ。オレは相変わらず、お盆以外は絶賛営業中だよ」
「いやァ、その方がありがたいや。暇つぶしに、差し入れでも持って遊びに行こうかと思ってたんだ。仲のいいカップルの間に水を差しに、ね……」
悪戯っぽく笑う少年に、こいつめ、と、真樹は本気の怒りをあらわにしてみせる。が、慣れた手合いで少年はそれをかわし、話をそらす。
「――まあまあ、そう怒らないで。ときに、あそこの路面溶解、もうケリついたんですか」
話題が自分の経験した奇怪な出来事と絡む、あの道路の溶解にうつったので、真樹は上げた拳を引っ込め、まあね、と大人しく返答した。
「充填剤で埋めて、仮工事でゴムシートをひいてあるよ。まあ、そのうちに工事をするんじゃないかな」
「なるほどね。しかし、今時アスファルトが暑さでおかしくなるなんて……妙だと思いませんか」
「まあ、妙とはいかずとも、珍しいとは思うがねえ……」
まさかあの晩のことをこの少年に話しても仕方がないだろうと、真樹はそのままアイスコーヒーへ手を伸ばしたが、その直後に、話は思いがけない方向へと動き出した。
「実はね真樹さん、僕、あのアスファルトの溶けた件に絡んで、妙なことを聞いたんですよ」
「――妙って、どんな具合に」
グラスを宙に持ったまま、真樹は少年の言葉に眉を引くつかせながら聞き返す。軌道敷の中に入りこんだ車がいたのか、けたたましいクラクションと、ねぼけたような市電の警笛がビルの谷間にこだまする。
「傘岡工業の生徒で、井村っていうロケット好きの子がいましてね。河川敷でモデルロケットの試験をしてるのを見て、いろいろ聞いてから仲良くなったんですけど、彼が夕方、一昨日の昼過ぎに変なことがあったって、わざわざ電話を寄越してきたんですよ――」
そんな前置きから始まった話をいくらか手短にすると、次のような具合になる。
傘岡工業高校の生徒である井村司は、科学クラブの部員で、モデルロケットによる空撮などの実験を専門にしていたのだが、つい先ごろ、彼は部員たちと共にある実験を実行に移したのだった。ロックーンタイプのロケットによる空撮実験である。
ロックーンとは、ある高さまではヘリウムなどを詰めた風船で上昇させ、そこから先は自動点火で打ち上げを行い、さらにロケットを高い場所まで飛ばすというもので、観測用のロケットなどによく使われている方法である。
かねてからこの打ち上げ方式に興味を持っていた井村たち科学クラブ員は必要な許可を国土交通省にも出し、午前放課で帰りが早いのを幸いに着々と準備を済ませ、いよいよ打ち上げの時を迎えた。
「――で、準備万端、天気快晴、無風最高とばかりに空へ風船で上げて、上空でパッと火花が見えた……ってのが打ち上げハイライトなわけです」
「なるほど……」
チーズケーキの残りをかじってから、少年はアイスコーヒーのストローをそっと咥える。
「で、あとはそのうちにパラシュートが開いて、本体に書き添えてある『このロケットを拾った方はお手数ですが傘岡工業高校の科学クラブか、記載の電話番号までご連絡ののちお届け願います。薄謝進呈』という文字につられて、誰かが届けてくれるのを待つばかりとなったんですが、珍しく次の日になっても現れない。ロケット本体の性能からしても、そう遠くへは行っていないだろうから、翌日には連絡があるだろうという目算だったんですが……」
「まあ、ラジコンみたいにコントロールの効くようなもんじゃないからなあ」
やってきたボーイのラストオーダーをあしらうと、真樹は足を組みなおし、なおも話に耳を傾ける。
「さすがにこうも連絡がないのは気がかりだなあ、と、仲間内で話しながら、一昨日、久しぶりに部室へ顔をのぞかせたんだそうです。そうしたら……」
「そうしたら……?」
なんだい、もったいぶるなよ、と、真樹は茶化したが、少年の顔がやけに青くなっているのに気付いて、さすがに詫びを入れた。
「――真樹さん、どう思います。打ち上げて、どっかに行ってしまったはずのロケットが、ねばねばした、ひどく臭い液にくるまれて部室の机の上に置いてあった、ってのは……」
「ねばねばした、ひどく臭い液だって?」
脳裏に軽トラの突っ込んだアスファルトが浮かび、真樹は口へ手を当てる。もう、判断に迷っている暇などなかった。
「なあ君、こんなことを言ったら、馬鹿な大人だと思うかもしれないが……」
一気呵成に、身に降りかかった出来事をあるがままに話すと、真樹は少年の顔がさらに青くなるのを覚えたが、一度開いた口はなかなか閉じることが出来ず、とうとう仕舞いまで、すべてを話し切ってしまったのだった。
「――じゃ、その妙な匂いのしたあたりがドロリと溶けたって言うんですか」
「ああ、そういうことになる。まさか、そっちの井村君のところでも、何か溶けたようなものがあったりするんじゃなかろうね」
真樹の問いに、少年はいや、そんな話は聞いてないなあ、と、腕を組んだまま返す。
「いったい、何がどうなっているんだろう。――それこそ、ロケットの中のカメラに、何か写っているんじゃないのかい」
「それがですねえ、墜落の時に何かにぶつかったのか、衝撃でカメラがバカになっちゃったらしいんです。ただ、辛うじてデータは復元できそうだから、パソコンに強い部員に頼んで、復元をしてもらっているそうですが……」
「となると、その復元待ちというわけか……」
ストローを噛んだまま、真樹はぽつり、ぽつりと消えだす外のネオンサインを横目に睨む。しばらく手間はかかりそうだと踏むと、店じまいを始めた店主とボーイの動きに、真樹は卓上の伝票を取り、二人分の支払いを済ませて「バッカス」を出たのだった。