静かなる夏①
階下で誰かが呼ぶような声に目を覚ますと、真樹啓介は頭の上にのせていた濡れタオルをはがし、急な傾斜の階段を転げるように降りて行った。
「――や、おこんちは」
「なんだぁ、君だったのか。こんな時間にここへ来るってことは、おおかたサボりかなんかだろう」
「ひでぇなあ、サボりなわけないでしょう。あともうちょっとで夏休みに入るから、今は半ドンなんですよ。そんなこと言うと、こいつ持って帰っちゃいますよ……」
玄関の戸を開けたところに、店の常連である少年が夏帽をはすに被り、手土産らしい、デパートの包装紙にくるんだ化粧箱を片手に現れたの見ると、真樹はまぁ、上がんな、と彼を茶の間のほうへ通し、買い置きの安いオレンジジュースをコップへ入れて出してやるのだった。
「――昨日、駅前の本屋で蛍さんと出くわしましてね。そいで、真樹さんが夏風邪で寝てるっていうから、こうしてお見舞いにはせさんじたわけですよ。お加減どないです」
コップに浮かべたストローでジュースをなめていた少年が尋ねると、真樹は首からさげたタオルで汗をぬぐいながら、
「きみがこうしてピーチクパーチクにぎやかなのを受け止められる程度には治ったよ。今が肝心、と思って、用心で寝てただけなんだ」
「あ、なるほど……」
納得がいったのか、少年は膝を打つとジュースの残りを飲み干してから、
「長居は体によくなさそうだ、僕はこれでお暇しますよ。またそのうち、本を買いに来ます、そいじゃ……」
元来た通り、玄関からそそくさと、学生鞄を振りながら真珠堂を後にするのだった。
「――まったく、台風みたいなやつだな」
包装紙のテープをそっとはがし、中身が少しお高いゼリーの詰め合わせだとわかると、真樹は中身だけを冷蔵庫につめ、空き箱を新聞紙や段ボールが束ねてある一角へ放り投げてから、スポーツドリンクのペットボトルを片手に二階へと戻った。
それからしばらく、真樹はすだれを下ろした寝室の窓へ背を向けながら、少年のせいでさえてしまった神経を鎮めようと、読みさしのエッセイ集を漫然とめくっていたが、ふと、今度は階下で郵便カブのパタパタというエンジン音がしたのに気付き、すだれの隙間からそっと様子をうかがった。
……ちょうど出てったとこか。
うっすらと漂う排ガスの香りを鼻で感じると、真樹は身を起こして郵便受けのほうへ行こうと考えたが、なんとなく、間の空いていないうちから動くのもためらわれて、毛布をかぶり、そのまま眠りの海へと漕ぎ出すことにするのだった。
西日が落ち、空腹を合図に長い昼寝から醒めた真樹は、夕食の支度をしに台所へ向かい、そこでふと、昼間の出来事を思い出し、外の郵便受けを覗いた。二、三日、新聞を取る以外はろくにチェックをしていなかったこともあり、中はチラシやダイレクトメールの類で満杯になっており、真樹はそれだけで風邪がぶり返しそうな錯覚に陥り、すっかり幻滅してしまった。
ひとまず、なにか大事な郵便がまぎれていたらまずいと、チラシの山を抱えて茶の間へ戻ると、真樹はちゃぶ台の上にそれらをぶちまけて、選別を始めた。
「――おや」
二、三枚、パチンコ屋や近所のスーパーの特売セールのチラシを寄ったところで、真樹は手を止め、カラー印刷のチラシの上でひどく異彩を放つ、クリーム色をした封筒へ手を伸ばした。妙なことに、封筒には「傘岡市 古書店『真珠堂』店主 真樹啓介様」とあるばかりで、郵便番号の欄はがら空きのまま、しかも、裏には「ご存じより」としか書かれていない。
「こんなもんを送ってくるなんて、どこのどいつだ……?」
一瞬、真樹は中身を空けずにそのまま破り捨ててしまおうかとも思ったが、いたずらにしてはいやに丁寧な筆遣いの字が気になり、ペン立てから抜いたハサミで封を切り、中から便箋を取り出した。そして、その書き出しの一行が目に入った途端、真樹はストップモーションでもかかった映像のように固まってしまったが、すぐに立ち上がり、便箋をちゃぶ台へたたきつけ、
「――あいつ、やりやがったな!」
と、わななくように叫んだ。その一行目には、次のようにしたためてあったのである。
鳴虎帆稲荷のナホより、真樹啓介様へ




