荒れ狂う女神③
事態は急を要する――。そう悟った真樹たちは、手当たり次第に荷造りを済ませると、すぐに傘岡駅の越鉄ホームへと駆け込んだ。
が、悪いことは重なるもので、濃霧で本線の運行に差し障りがある、と判断した越鉄によって、八峰町へ伸びる八岡線は貨客ともに終日運休、代行バスは天候回復を待って発車することになり、JRの改札と互い違いにつづく越鉄ホームの改札では、駅員を囲む乗客の怒りの声が天井を突くようにこだましていた。
「どうします真樹さん、このまま天候の回復を待っているわけにはいかないでしょう」
真珠堂へ引き返す道すがら、不機嫌そうに奥歯をみせ、ポケットへ手を突っ込んだまま歩く真樹へ、坂東医師が診療かばんを携えたまま尋ねる。あとから追いかけるつもりだった坂東医師は、アルコールとビタミン剤のアンプルから漂う香りを白衣にしみこませながら、どうしようもない怒りを抱えたままの若い友人の機嫌をさぐりさぐり歩いていた。
「――ええい、仕方ない。今度ばかりはあやつの出番だ。坂東先生、つゆりさん、ちょっと乱暴な道中になりそうだけれど、我慢できますか」
「どの程度かによりますが、この際贅沢は言っていられません。向こうへつくためなら手段は選びませんよ」
「貨物列車に隠れたんです、それよりひどくないならなんだって大丈夫です」
坂東医師とつゆりから言質を取ると、真樹はよし、とつぶやき、
「貸しガレージに突っ込んで、ろくに使っていないライトバンがあるんです。ちょっと整備をして、遅くとも夕方の六時前後には傘岡を出ましょう。先生、ひとまず旅支度だけをお願いします」
「わかりました。なんなら、野営用のテントも持っていきましょう。釣りの時の雨風をしのぐような簡単な奴ですが、きっと何かのお役に立つでしょう」
「ありがたい。それじゃ、支度が済んだら医院のほうへ伺います。じゃあ……」
坂東医師が自分の医院へ、つゆりと真樹が鍵を片手に貸しガレージへ急ぎ、いよいよ八峰町への大いなる旅路が幕を開けることとなった。
出来る範囲のメンテナンスやガソリンの注ぎ足しも終わり、どうにか約束通りに六時前、坂東医院の門前へ着くと、ちょうど坂東医師がテントを壁に立てかけ、「臨時休診」と書いた貼り紙を表のガラス戸に貼り付けているところだった。
「やぁ、お待たせしました。ひとまず、買い置きの食料やらなにやらをぶちこんで、ガソリンも満タンにしてあります」
「了解です。それじゃ、これを積み込んだらさっそく出発しましょう」
二人がかりで屋根にテントをくくりつけると、真樹はスターターをまわし、鈍いギアを順繰りに上げながら、八峰町へ伸びる県道に向かって、ハンドルを切るのだった。すっかり日も傾き、けだるげなセミの鳴き声がどこからか聞こえるような時刻である。
案の定、不通になった越鉄の代わりに、八峰町へ続く県道129号線は乗用車やタクシー、トラックですさまじい渋滞になっていた。いつの間にか霧がふもとへと下ってき、傘岡の郊外へ差し掛からないうちから、パトロールカーや県道事務所の車両が繰り出し、交通整理を行っている始末で、なかなか前に進まないのにしびれを切らした真樹は、
「いささか遠回りだけど、昔の八峰ドライブウェイのほうから行きましょう。ちょうど、鳴虎帆稲荷の後ろ側から八峰町に抜ける形になるけれど……」
助手席にいたつゆりにグローブボックスの中から地図を出してもらうと、真樹は古い記憶を頼りに、県道から逸れて、いくらか霧の薄まっている田舎道をかけあしに進んでいった。
「――にしても、こんなにひどくカーブが続く道とは思わなかったな」
入口へ差し掛かり、ほんの百数メートルばかり進んだあたりから、右へ左へ、息つく間もなく現れるカーブを前に、真樹は車体をきしませながら、制限速度ぎりぎりまでスピードを上げていく。もともと、江戸時代からある旧街道を大正の末期から日中戦争直前までの期間で山側に広げていった道ということもあり、今の基準からするとかなりの悪路ではあったが、この際贅沢は言えないと、真樹は歯を食いしばりながら、鳴虎帆稲荷目指してアクセルを踏み続けた。
「真樹さん、急いでいるのはわかりますけど、用心したほうがいいですよ。どうもこの道、ガードレールがかなりお粗末なようですから」
つゆりの後ろで、荷物に囲まれて補助席へ腰を下ろしていた坂東医師が、ヘッドランプの明かりでかろうじて見える、霧に囲まれた路肩の左をちらりと覗きながらつぶやく。まさか戦前からあるようなものではないだろうが、今のものよりも背丈の低い、大人の膝ぐらいしかないガードレールは、真樹の乱暴な運転を前にしてはちょっと危なっかしい代物であった。
「にしても、どんどん霧がひどくなってきましたね。やっぱり、出どころはお稲荷さんのほうからなんだろうか」
真樹のつぶやきに、つゆりもそんな気がします、と付け加える。
「わたしも同じことを考えていたんです。上のほうへ行くほど濃くなるなんて、ちょっとおかしいですいもの」
「つゆりさん、ラジオを入れてもらえますか。そろそろ、気象庁当たりがこの奇妙な霧について何か言ってもおかしくないはずなんですが……」
速度計の隣で蛍光塗料の塗られた時計が七時を示すのを見て、坂東医師はつゆりへ、ラジオのスイッチを入れるよう頼んだ。ちょうど、NHKの第一放送へあわせてあったラジオからは、雑音交じりに臨時の気象ニュースが流れてきたが、この異常気象はまったくもって原因不明という頼りないもので、真樹の神経を逆撫でするほかには、なんの役にもたたなかった。
「ひとまず、現地へ行かないことには何もわからない、ということらしいな。――二人とも、ちょっと飛ばしますよっ」
さらに一段ギアを上げると、真樹は対向車もないのをいいことに、反対側の車線を逆走し始めた。これならば谷底へ落ちる心配もない、ということなのだろうが、元がかなりガタの来ているライトバンということもあり、速度が上がるごとに、あちこちからギシギシという不安を増すような音がするのには、危険なことには慣れているはずの坂東医師も、つゆり共々小さく悲鳴を上げずにはいられないのだった。
半分近く錆びてしまった「八峰町まで二キロ」という看板を霧の中で見ると、真樹はバンを元の左車線へ戻し、いつか見た心もとない明るさの街灯がぼんやり光る、鳴虎帆稲荷前の砂利引きの駐車場でブレーキを踏み込んだ。右手でハンドルを回してガラスを下ろすと、真樹はしばらく、身を乗り出して耳をそばだてていたが、
「――どうやら、特に変わったことはないらしいですね。先生、つゆりさん、行きましょう」
念のためにと近所の玩具店で買った、ししおどし用のキャップ火薬のおもちゃの拳銃を片手に、真樹は薄暗がりの中を銃を携えた二人を従えて、ゆっくりと、社務所へ続く石段を上がっていった。夏の山間特有の、ひどく冷たい、それでいてまとわりつくような湿気を含んだ風が、何度も三人の体をくるむように吹いていく、実に不気味な晩であった。
錠の上がったままになっている玄関の引き戸を開け、明かりひとつついていない家の中を覗き込むと、真樹はふと、奥の部屋のほうからしきりに咳き込む、女の声がするのに気が付いた。
――この声、ナホに違いない。
覚えのある咳に、相手がナホだと確信を抱くと、真樹はつゆりに耳打ちをし、真樹啓介が戻ってきたと伝えてほしい、と頼んだ。
「弱ってるとこに、いきなり付き合いの薄いやつの声じゃあ気に障るだろうよ。悪いけど、君が先に行ってくれ」
「わかりました。――ナホ様、わたしです、つゆりです」
声をかけながら、奥の間へ続く暗い廊下を真樹が渡したペンライトの明かりを頼りに歩いていくと、つゆりは突き当りで中腰になり、ふすま越しにナホを呼んでいたが、しばらく彼女と紙一枚隔てて話をしていたかと思うと、少し怪訝そうな顔をしながら、玄関にいる真樹たちの元へと戻ってきたのだった。
「真樹さん、先生、ナホ様がお会いしたいとおっしゃってます。ただ……」
「ただ……?」
坂東医師がロイド眼鏡越しに目をしばつかせながら聞くと、
「それが、どうしても自分の姿を見せたくはない、とおっしゃるんです。申し訳ありませんが、ふすまの前で、座布団に座りながら、ということになりますが……」
「真樹さん、なんだか様子がおかしいですね」
坂東医師が目を光らせると、真樹は腕を組んだまま、そんな気がするな、と、口元をゆがませながらつぶやく。せんに、坂東医師が見立てた通り、ナホ――と名乗る怪しげな異形のもの――の体に、生物学的な寿命が来ていて、このようなことを招いているのだとすれば、おそらく目も当てられないような、すさまじい形で、かろうじて意識を保っているのではなかろうか……。真樹はそう踏んでいたのである。
「ひとまず、ご婦人のお言葉を無碍にしちゃあいけねえな。先生、我々はふすま越しに面会、ということにしましょう」
それを聞くと、真樹たちはつゆりに座布団の支度を頼み、明かりのついた廊下を、悠々たる調子で歩き出すのだった。
「――ナホさん、お久しぶりですね。真樹啓介です」
座布団の上に正座をしながら、真樹がいつもの調子で話しかけると、ナホはいくらか咳き込んでから、
「こんばんは、真樹さん。そして、そちらのお方は……?」
と、見えないはずの坂東医師のことを尋ねてきたので、真樹は少し面喰った。
「さすがナホさん。どうやら我々のことはお見通し、というわけらしいですね。こちらは坂東祐太先生といって、僕の友人の、開業医の先生です。失礼ながらナホさん、あなたのお写真を拝見して、先生はあなたの肉体に、物理的な寿命のようなものが近づいてきている……そう見立てていらっしゃるのですよ」
そこへ、つゆりが二人分のお茶を運んでやってきたので、真樹はそれを受け取り、軽く吹き冷ましながら彼女の返答を待った。すると、二、三分の沈黙ののち、ナホは高笑いを上げて、
「さすが、真樹啓介さんのご友人ですね。人ならぬものを見てなんとも驚かず、その真理にたどり着いた……。優男な見た目に似合わず、なかなか豪胆なお方のようですね、坂東先生は」
ふすま越しに驚く坂東医師の表情を、手に取るように受け取りながら、真樹の推測が当たっていることを認めるのだった。
「――ちょうど、一年くらい前からですわね。顔の一部が、ふやけたお豆腐みたいになってきて、そのうちに、服の下にもちらほら、妙なただれが出だしたのは……。そして、ちょうど半年くらい前からですね、ひどく臭う膿が、元の姿になって、動くたびに漏れ出すようになったのは……」
「それがこの前、真樹さんの家の前の道路や、工業学校の駐車場や町の水道管を溶かした元凶だったわけなんですね」
坂東医師の問いに、ナホはええ、と返す。
「散歩に出たら、見慣れないロケットが落ちていましてね。大切なものらしいとわかりましたから、すぐに届けにあがったんです。ただ、その最中に包帯の合わせ目が取れかけたりして、ずいぶんと困りましたが……まさか、あの時立ち止まったお店が、真樹さんのお店とは思いませんでしたわ。不思議な偶然って、あるものなんですね」
力なく笑うナホに、真樹はまぁ、そんなもんでしょうよ、とつぶやき、
「――ひとまずナホさん、あなたに底意などがないことがわかったから、僕らとしては特にあなたをどうこうしようとするつもりはない。ただ、あと二つばかり、我々の質問に答えてもらいたいのです」
ふすま越しに、ゆるやかなピースサインを作ってみせる。
「一つ目は、どうして我々のことに気付き、つゆりさんに探りを入れさせたのか。二つ目は、いったいあなたは、どこからきて、何のためにこのお稲荷さんへ現れるのか――」
真樹が語気強く、ナホへ尋ねたときであった。いきなり、目もくらむようなまばゆい光が外から差し込んだかと思うと、耳を突くようなメガホン越しの男の声が、真樹たちを襲ったのである。
「――浦部宮司、君が本庁に隠れて、怪しげな者をかくまい、崇拝しているのはわかっておるんだ、隠れずに出てきたまえっ」
「――ま、真樹さん、いったいこれはどうなってるんでしょう」
坂東医師がおもちゃの拳銃を構えたまま、肩をひくつかせながら尋ねると、真樹の代わりに、ふすまの向こうからナホが声を上げた。
「――お二人とも、二つ目の質問はともかくとして、一つ目ならすぐにお答えできますよ。わたしとつゆりちゃんは、あいつらが現れやしないかと、予てから様子をうかがっていたのです。わたしがつゆりちゃんを守ろうとして焼き殺した大石の所属する、神社本庁の連中をね……」




