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霧の八峰山  作者: ウチダ勝晃
第五章 荒れ狂う女神

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15/21

荒れ狂う女神①

一、

「真樹さん、クランケはどこです」

 一時半を回ったころに、愛車の年代物のスクーターで駆け付けた坂東医師を出迎えに玄関先へ控えていた真樹は、黙ってこの年上の友人を自分の寝室へと案内し、布団の中でうなっているつゆりをそっと目で示した。坂東医師はその様子を見て別段驚きもせず、慣れた調子でつゆりへ声をかけ、どうにか容体を聞き取ると、

「見た感じ、単なる神経性の疲労らしいです。ビタミン剤を処方しておきますから、寝ればちょっとは気が晴れるでしょう。――つゆりさん、もう大丈夫だ。注射が済んだらら楽になる、よくお休みなさい」

 と、あっという間に注射器の用意をし、彼女のまくった二の腕へそっと、ビタミンの注射を施すのだった。それからしばらく、つゆりはむずがゆそうに肩を上下させていたが、そのうちに息も落ち着き、すうすうと寝息を立てて眠りに落ちていったのだった。

「――よかったぁ、なんか変な病気だったらと気が気じゃなかったんですよ」

 消毒用にと自分が運んできたお湯入りの洗面器で手をぬぐう坂東医師へ、少年は眠い目をこすりながら安堵の表情を浮かべてみせる。

「まあ、ひどい興奮状態になると、こういう具合になるのは誰にだってあるものさ。それより真樹さん、電話であなた、妙なことをおっしゃってましたね。神社本庁がどうの、とか」

 道具を鞄へ戻し、隣の書斎でキャメルをふかしながら坂東医師が尋ねる。

「ええ、そうなんです。ひょっとすると、この子もそれに一枚かんで、わざわざこんな遅くに傘岡まで出てきたんじゃなかろうかと思うんですが……」

 けだるいながらも、一連の騒動ですっかり目のさえた真樹が、腕を組んだまま渋い目をする。ここまでの事態の急転ぶりを話すだけの余力は、眠気がとんだとはいえ、真樹には残っていなかったのである。

「真樹さん、お疲れのようなら僕が代わりに話しますよ。ほら、座布団と毛布があるから、そのあたりでどうぞ」

 少年がしきりに仮眠をすすめるので、真樹はちょっと渋ってから、一連の説明を少年に任せ、ほんの少し、とばかり、毛布をかぶって畳の上に横になった。すぐ隣の線路を貨物列車が過ぎて、闇夜の気配がほんの少しだけ搔き消された、二時に近い頃合いの光景である。


 朝になり、窓からもれる夏の日差しに目を開けた真樹は、いつの間にか自分が来客用の布団へ寝かされていることに気付き、起き上がって少年の姿を探したが、すぐさま、書斎の机の上に書置きがあるのに気づくと、その文面へ腫れぼったい目を走らせた。


  つゆりさんが起きたので、ちょっと入用な歯ブラシなんかを買うついでに朝飯を食べてきます。

(坂東先生は二時半ぐらいにお帰りになりました。いざとなれば医院を臨時休業にして八峰町へ向かいます、とのことです)


「案外、あいつのほうが気が回るもんだなぁ」

 幾度か顔を合わせている、将来的には少年と一緒になるという許嫁の少女の顔を思い出すと、真樹は少年の柄に似合わぬ細やかさを認めながら、階下の洗面所へと降りたのだった。

 簡単な朝食を済ませ、身支度の終わったころになって少年とつゆりが戻ってくると、真樹は二人を迎え入れ、作り置きの麦茶が詰まったガラスの水差しをちゃぶ台の上に置くと、表に「午前のみ臨時休業」という貼り紙を出し、話を聞く体制を整えた。

「つゆりさん、ちょっとは落ち着いたかい」

 自分も麦茶をなめながら尋ねると、コップをもったままつゆりは、ええ、おかげさまで……と、いつかの晩とはひどく様子の違う、しおらしい態度で二人に臨んでいる。

「――真樹さん、さっきちらっとつゆりさんが言ったんですがね。この子、旅客の済んだ後の、最終の貨物列車に忍び込んで傘岡まで来たらしいんですよ。だからあんなに落ち着かない感じだったんですねぇ」

「おや、そいつはまた……あまり感心できないな、つゆりさん」

 真樹が少しばかり語気を強めると、つゆりは二、三度頭を垂れて、申し訳ありませんでした、と、泣き出しそうな声で詫びだしたので、さすがに言い過ぎたかもしれない、と、逆に真樹が頭を下げる羽目になってしまった。

「真樹さん、ちょっと大人げないぜ。ここまで慌てるんだもの、きっとつゆりさんには深い事情があったんですよ。いったい、なにがあったんですか」

 少年が助け舟を出すと、つゆりは涙を浮かべしゃくりながら、

「――真樹さん、ナホ様が、ナホ様がとうとう自制の効かない、危険な状態に陥ってしまったんです……」

「なんだって」

「つゆりさん、まさかとは思いますが、そいつにゃ神社本庁の人間が一枚かんでるんじゃありませんか」

 真樹と少年にいちどきに尋ねられて、つゆりはちょっとびくついたが、やがておもむろに頷くと、ここまでの経緯を二人へと話し始めた。

「――そもそも、あのナホ様というお方は、うちの神社に六年に一度現れる、実に不思議な存在のお方なんです。信じてもらえないかもしれませんが、古い写真を見ても、まるで姿かたちや年齢が変わらない……人間ではない何か、としか思えない存在なんです」

「そういう風に見せている、何代にもわたって役を演じている一家がいる、みたいなことじゃあないんですよね?」

 少年の質問につゆりは首を振って、

「祖父が昔撮影した、色の褪せたカラー写真を見た限りは、まったく同じ人にしか見えませんでした。いくら母娘だとしても、あんなにそっくりなのは不自然ですよ」

 自信たっぷりに断言する彼女に少年がたじろぐと、真樹は間に入って、正真正銘の同一人物だと思うな、と彼女の言葉を念押しする。

「――にわかには信じがたいが、あの晩、まるでビデオテープの巻き戻しのような目にあったから、僕はあなたの言うことは本当だと思いますよ。それで、そのナホ様、つゆりさんが前に会ったときは、ああして包帯は巻いてたのかい」

「いいえ、あんな風に巻いていたのは、この七月の頭にお会いした時からでした。大きくなったわね、と、わたしを撫でる顔に、ちょっと力がないような感じがして、気にはしていたんですが……」

 そこまで言うと、つゆりは真樹に、先だって見せられたあの赤外線写真のことを尋ねた。なんでも、ナホと写真に納まったことが二、三度あったのだが、ああして異形な形になっていたのは今回が初めてだった、というのである。

「――じゃあ、その特殊なフィルムで撮影したから、あんな姿になって写ったんでしょうか」

「わからん。ただ、あなたの話からすると、あの時のナホはいつもと同じ格好で歩いていた、ということなんだ。けれど、僕にはその時、彼女はこの写真の通りの、巨大な異形のものとして見えていた……これはいったい、どういうわけなんだろう」

 腕組みしてうなる真樹に、もしかして、と少年が割って入る。

「もしかすると、彼女は赤外線があたると正体がわかるんじゃないですか。まさかと思うけどつゆりさん、あの人は夜しか動かない、というようなことはありませんか」

「――そういえばそうです。ナホ様はいつも、夜中にならないとお姿をお見せになりません。肌が悪いから、と祖父は言っていましたが……」

 そこでふと、ここに至るまで一度も顔を見せていない鳴虎帆稲荷の浦部宮司のことを思い出した真樹は、いったい彼がどうしているのかをつゆりに問うた。すると、彼女の口からは、意外な答えが戻ってきたのである。

「祖父は、ナホ様がうちのお社へ現れたのと入れ替わりに、姿を消してしまったのです。駐在さんへ相談しようと思ったのですが、ナホ様が今はまだいけない、とおっしゃるので、誰にも言えなくて……」

「もしかして、神社本庁の職員が変死体で見つかったっていうのと、おじいさんの行方不明と何か関係があるんじゃありませんか」

「その通りなんです。実は、こういうことがあって……」

 そこまで気丈にふるまっていたつゆりだったが、まださして時間のたっていない、刺激の強い出来事ということもあってか、すっかり緩んだ目元から二筋の白いものを流して、泣きじゃくりながらあらましを語り始めた。


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