霧影の古社④
傘岡の駅で少年と井村と別れると、真樹啓介はまず、折よく休診日であった坂東医院へ市電で向かい、慣れた調子で玄関先の呼び鈴を鳴らした。
「坂東先生、真樹です。ちょっと訳あって、早々戻ってきました……」
インターホン越しに事情を告げると、坂東医師は大急ぎで二階の書斎から玄関へと駆け下りて、いつもの調子で真樹を応接間へと通し、自家製だという冷たいアイスコーヒーを彼にすすめるのだった。
「ずいぶん早いお帰りでしたが、なにかトラブルでもおありだったんですか」
夏物の青い開襟シャツに、麻のズボンを履いてくつろいだ姿の坂東医師が、キャメルをふかしながら尋ねると、真樹啓介は手土産の饅頭や漬物の包みを間に挟み、自分や井村、少年たちに降りかかった。鳴虎帆稲荷での奇妙な出来事を、淡々とした調子で語ってみせた。
「――ざっと、こういうわけなんですがね。どう思われます、坂東先生」
氷が溶けて、いささか水っぽくなったアイスコーヒーをなめながら真樹が問うと、坂東医師は吸いさしを灰皿へ押し付けてから、並の医者なら、あなたを精神科へ通うように進言するでしょうね、と前おいてから、真新しいキャメルへと火をくべ、煙を巻きながら話し始めた。
「……社崎で一緒に、奇妙な冒険をした僕としては、あなたが嘘をついているとは思いません。むしろ、混じりけのないむごい真実に、僕はこの世の、それこそ科学とは何たるかを深く考えさせられますね」
坂東医師の言葉に、真樹はポンと膝を打ち、先生なら、そう来ると思いましたよ、と安心した調子でこの年上の友人の顔を覗き込むのだった。
「で、そのうえで先生はどう思われますか、鳴虎帆稲荷にいた、ナホという女性のこと……」
「ハッキリ言って、彼女はいつかの事件以上に面倒な存在かもしれませんね」
「やはり……」
間髪入れずにかえす坂東医師の言葉に、真樹は眉をひくつかせ、ぬるくなったアイスコーヒーへ再び口をつけた。
「妙齢の女性のなりこそしているけれど、その正体は、あのどろりとした粘液をまき散らす、奇妙な生き物である……。しかもそのことを、どうせ世間ではロクに取り合われないと、我々に明かすような自信家と来ている。僕はね、真樹さん、彼女のこのゆるぎない自信こそが、一番厄介だと思うんですよ」
「――なにせ、こっちはハナから向かい風の中にいるんだもんなあ。あいつの言葉通り、気が触れたと思われるのがオチでしょうから……」
ところが、合いの手の代わりにコーヒーをなめた坂東医師は、待てよ、とつぶやいてから吸いかけのキャメルを灰皿へ差し、こう続けた。
「そういえば真樹さん、彼女は確か、顔に包帯を巻いていたといいましたね。それこそ、擬態していない状態の、芋虫か何かのお化けみたいなときでも、ぼろきれみたいな包帯を巻いていたと……」
その言葉に、真樹は自分のカバンへ放り込んであった写真の束を取り出し、坂東医師へと渡した。しばらく、坂東医師はキャメル片手に、三十六枚の赤外線写真を穴の開くようににらんでいたが、そのうちに、
「真樹さん、もしかするとこのにらみ合い、案外早く僕らのほうにツキが回ってくるかもしれませんよ」
「なんですって」
坂東医師の言葉にソファから身を乗り出すと、真樹はロイド眼鏡越しにのぞく、彼の両の目をじろりとにらんだ。
「あくまでもこれは、この奇々怪々な相手に、一般的な科学理論が通用するとみた場合の答えなんですがね。この粘液はひょっとしたら、死の前触れにあたる症状なのではないでしょうか」
「死の前触れですって? そんな、まさか……!」
そうはいうものの、坂東医師の言い分がまるきり的外れ、とは真樹には思えなかった。宿の廊下で金縛りにあったとき、ナホが放った「好きでこうしているわけじゃない」という言葉の意味がずっと図れずにいたところへ、医師という立場からもたらされた実に単純明快な私見が、真樹の頭に堰き止められていた諸々をものの見事に洗い去ってしまったのである。
「先生の推理が正しいとすると、あの怪物……いや、ナホは自分の余命を悟って、余命いくばくもないから追いかけられることもあるまいと、あんな大それたことを言ってのけた……ということになりますね」
「どうやら真樹さんも、そう考えたほうがまとまりがいい、と思われるようですね。ただ、そうなると僕には、もう一つ分からないことが出てくるのですよ。――そんな、余力も少ないだろうナホが、どうしてこんな街中まで出て、各地で奇妙なことを起こしたのか……。そこがどうにも、読めないのですよ」
ため息に乗せて煙を吐く坂東医師に、真樹はそういえば……と、目を天井のほうへ向けた。自分へ害を与えるような人間に対しては敵意を隠すつもりは微塵もなかったが、ナホは決して、人里へ対する恨み節などは口にしていなかった。
――そうなると、傘岡まではるばる出てきた理由がわかんなくなっちまうな。いったい、どういうわけだろうか。
鳴虎帆稲荷を終の棲家に、余命を送ろうというのならば、もう少し大人しくしているはずだ――真樹はそう考えながら手元のグラスへ手を伸ばしたが、
「あっ、真樹さんそれは……!」
坂東医師の慌てる声に我に返った真樹は、自分の指先がグラスへ刺したストローではなく、まだつけたばかりのキャメルの穂先へ伸びていたのに気づき、驚きのあまり縮み上がってしまった。
スリッパを履いた真樹の両足が、ローテーブルの天板へ勢いよくぶつけられたのは、そのすぐ後のことだった。




