夏風邪と粘液①
「真樹さァん、生きてるかい」
聞き覚えのある声に布団をはねのけ、額から氷のうを取っ払うと、 真樹啓介はそっと寝室のサッシを横へ滑らせ、真下に控えている裏口の戸へ目をやった。そろそろ世間が夏休みに入ろうという、七月中旬のとある午後のことである
傘を持たずに外出し、薄着のところを夕立にふられて夏風邪を引いた真樹は、ここ三日ばかり「真珠堂」のほうも閉め、養生に徹していた。その甲斐あってどうにか食欲も戻り、ここが肝心、とゆっくり昼寝をしていたところをいきなり呼びかけられたので、内心不機嫌ではあったが、
「――なんだ、君か」
その相手が常連の一人である高校生の少年で、なおかつ薬局のロゴが入ったレジ袋と一緒に、デパートの包装紙でくるんだ箱を抱えているのを見ると、真樹は機嫌を直し、ちょっと待ってな、と、そのまま一階の裏口へと向かった。
「――やあ、しばらく」
裏戸を開けて少年を招き入れると、真樹は六畳間の隅に畳んでおいたちゃぶ台の足を出し、麦茶と茶菓子をすすめた。涼しげな夏帽・夏服姿の少年は荷物を置くと、じゃ、一杯……といって、麦茶をのどを鳴らしてうまそうに飲み干した。
「昨日、駅前で蛍さんに会いましてね。事情を聞いて、お見舞いにはせ参じたってわけです」
一緒に食べてください、と、ゼリーの詰め合わせが入った箱を差し出すと、少年は慣れた他人の家とばかりに、薬局の袋に入った水で溶かすタイプのスポーツドリンクや乾パン、その他必要と思われる品々を、出しっぱなしになっている救急箱や冷蔵庫に仕舞うのだった。
「――にしても、ずいぶん早いな。学校フケてきたのかい」
掛け時計がまだ二時を指したばかりなのを見て、真樹が茶化しながら聞くと、
「期末試験が終わってから、午前いっぱいで授業はおしまいでしてね。来週、球技大会をやって、そっから先は終業式、楽しい夏休み……てなわけです」
「へえ、なるほど。学生は気楽でいいねえ」
「一国一城の主が言うと、皮肉にしか聞こえないけどなあ」
サラリーマンよりは気楽かもしれないけど、と言いながら、出された一口ようかんにかじりつくと、少年は麦茶を含んでから、そういや蛍さんがいないですね、と、入ってきた裏口の方を見てつぶやく。
「当たり前だろう、店も閉まってるんだから」
「なんだァ、つまんないの。てっきり密室で、楽しい楽しい看病からの……何某かがあると思ったんだけど」
「人を煽りに来たんならとっとと帰れ。こっちはまだ治りかけなんだから」
包装紙のセロハンテープを指でそっと剥がしていた真樹は、背中越しに少年への怒りをあらわにしてみせる。
「ハハハ、そんだけ言う気力があるんだ、こりゃ完治してるも同然だ。店開けたら連絡してくださいよ、いろいろと探してる本もあるから……じゃあ」
夏帽をかぶると、少年は学用鞄を肩にひっかけ、そのまま裏口から出て行った。
「可愛げのない奴だなあ……」
年相応の雰囲気が微塵も感じられない常連を追い出すと、真樹は少年が差し入れてくれたスポーツドリンクを水に溶き、乾パンの封を切るのだった。
二日ほど用心のために寝て過ごし、久しぶりに店を開けた真樹は、大勢の常連客に囲まれて忙しい一日を過ごした。半ばご祝儀のような具合で舞い込んだ売り上げを確かめ、近所の焼き鳥屋で蛍ともども快気祝いの盃を交わしたその晩、真樹は上機嫌のまま、寝床へもぐりこんだ。
少し前まで、頭の上を停滞していた梅雨雲と湿気はどこかへ消え、三日月の見える、開け放たれた窓から入り込む夏の夜風に、安物の風鈴がゆらゆらとそよいでいる。
――傘岡盆地も、夜だけは涼しいからなあ。
目をつむり、重ねたケットの中で足を動かしながら、真樹は少しずつ眠りの海に漕ぎ出し、穏やかな寝息と共に布団の中へおさまっていた。
そのまま、朝まで目が覚めないはずであった彼の眠りは、辺りがひどく静かになってから耳へ飛び込んできた、ベチョン、という妙な音に、すっかり妨げられてしまった。枕元の時計を見れば午前二時、近くの居酒屋もとうにのれんになっている時分である。
――鳥の鳴き声かな。
きっと、寝ぼけていて普通の鳥の声が奇妙に聞こえたのだろう。そう自分に言い聞かせ、再びケットをかぶったところでまた、ベチョン、ベチョン、と立て続けに二度音がしたのだから、さすがに真樹も平常心を保つのが精いっぱいだった。
「なんだ、いったい……」
布団から出て、上着を羽織ってからそっと裏口の戸を開けると、真樹啓介は辺りの様子を見回した。夜目が効き出した中には、見慣れた新幹線の高架と在来線の線路に架線柱、雑居ビルの並ぶ裏通りが見えるきりである。
「やっぱり、治りかけなのかなあ」
裏戸を締め、冷蔵庫に中に作りおいてあったスポーツドリンクを口に含むと、真樹はしばらく、豆球の灯る下で手にしたそれをぼんやりとなめていたが、三度目のベチョン、ベチョンが店の軒先から聞こえたのを見ると、コップをちゃぶ台へ乱暴に叩きつけてからサッシの錠を上げ、乱暴に開け放った。
その途端、真樹は足元から自分の鼻に、ひどくむわっとした、生臭い香りが飛び込んでくるのに気付いて鼻をつまんだ。風邪ですっかり弱っていた嗅覚が治っているのを、実に嫌な形で実感したわけである。
しばらくその場で鼻を抑えてうずくまっていると、歌舞伎のツケのような間合いでベチョン……ベチョン……と東の方で音がしたのち、奇怪な音はぱったり、と止んでしまった。いくらか鼻の痛みがやわらいだのを確かめると、真樹は顔を上げ、店の前の通りへと躍り出た。ちょうど、雲に隠れていた月が再び柔らかな輝きを見せだし、コンクリートの高架がその下に明るみになった。それを幸いに、真樹は辺りを見回し、足元にも目をやったが、そこにはいつも通りの、ざらざらとした舗装面があるばかりであった。
「なんだったんだ、ありゃあ……」
先刻自分の鼻を突いた、ひどい刺激を伴う何某かの残り香はどこにも見当たらない。ただ、ぬるい夜風が武蔵川からの水気を含んで、ゆるやかに吹き付けているばかりである。
「――寝よう」
このまま夜風を浴び続けていては、せっかく治りかけたものも元に戻ってしまう。戸締りを確かめると、真樹はうっすらと汗のにじんだシャツとステテコを脱ぎ捨て、着替えを済ませてから毛布をかぶり、しきりに寝返りを打つのだった。