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番外編 第1話 悪夢

第0話、練習試合の日の朝のエピソードです。


『むすび! おれはおまえをおよめさんにしてやる』


『うん! わたしもたまきくんのおやめさんになりたい! ゆびきりげんまんだよ!』



 ―――――



 ……私、薄野結(すすきのむすび)はいっつも同じ夢を見る。


 忘れもせん……幼馴染と約束したあの日のことを。



 まだ高校生やけん、言うほど年季は入っとらんけれど……私にとってはもう遥か昔のこと。


 あ、別に記憶がなくなる不治の病で、お涙ちょうだい系とかじゃないけん安心して!


 私、元気やけん!



 ……詳細については、ぼんやりとしとる。


 公園で遊んどったのか、自宅でままごとをしとったのか……曖昧ミーマインメモリー。



 でも、あの言葉……あのやり取りだけは鮮明に覚えとんよ。


 だってそれは……。



 私が将来、灼ツ橋球葵のお嫁さんとして永久就職することが決まったあの日のことじゃもん。



 でも……肝心の雇い主ときたら、そんな約束など全く覚えとらんかったんです。


 ……自分から婚約宣言しとって……酷い、信じられん!



 それを知ったのがついこの前のことで、それは何気ない放課後の帰り道のこと……。



『なぁ、結って好きな人とかいるの?』



 ……。



 ……今さら何言っとるの、旦那様!


 プロポーズした相手にわざわざそんなこと聞いてくる?



 ……それでも私は彼を疑うことはせんかった。


 これは試練なのだ……球葵くんは、きっと私の愛を試しとる。


 ……そして、この答えを求めてとったのだと!



『もちろん、球葵くんオンリーだよ!』



 完璧だ……。


 100点満点中120点の解答、心の中では音速より速いガッツポーズが飛び出す。



 しかし、返事はとてもそっけなく、あしらうように……私の積年の思いは粉々に砕かれた。


 ……VTR、……ピッ。



『……重い。そんなんじゃどこにも嫁にとってもらえねぇぞ? お前、勉強はからっきしだし、運動音痴だし、体を売るくらいしか稼ぐ手段ないんだから。つまり必然的に誰かに養ってもらわないといけないんだから』



 ……ピッ。


 ………………すぅ……。



 お前が嫁にもらう、つったんじゃ! お前に養ってもらうんだよ!


 ……おまけにデリカシーの欠片もないし、BMIは平均値じゃもんね!


 重い重いってディスるならさ、お姫様抱っこでもして自分で量ってみなよ!



 ……こんな仕打ちを受けても、私は決して挫けん……愛しの球葵くんと結婚するまでは!



 突然ですが、ここからは私の自慢のフィアンセ……球葵くんのいいところ三選の発表!


 まず、普段はあんな感じで毒舌で捻くれとるけど……時々とっても優しくなるギャップが堪らない!


 それと、何かあれば私を頼ってくれるのもペットみたいでかわいい。


 頼みごとをする時のつぶらな瞳の吸引力は、高級掃除機級!


 そして、野球をしているときの球葵くん……破壊力抜群で、イキイキしていてカッコいい!



 実際、球葵くんはただカッコいいだけじゃなくて、マジで凄いピッチャーじゃけどね。


 本来、私なんか同じ空気を吸うことすら許されんくらいすごい人じゃし、私より魅力的な人なんてこの世界に星の数ほどおるよ。



 でも……私は球葵くんの隣にふさわしい、球葵くんの隣は私しかありえん。


 なぜなら、私は球葵くんの幼馴染じゃけん!


 いくら金を積んでも得られるものじゃないけんね。


 この世のどんな権威より格式高く、価値のある存在……世界でただ一人、球葵くんの幼馴染が私というわけだよ!


 幼馴染として側におれるなんて、私は前世でどんなとてつもない善行を積んだんじゃろう?



 球葵くんとの幼馴染生活は幸せじゃけど……幸せは死ぬまで続かんかったら意味がない。


 私たちを結び付ける関係が将来的に変わるとしても、私は球葵くんとずっと幸せでおり続けたい。


 そのために……私は、二人の将来設計を日々練り続けとる。


 一日十日分を日課にしとるんじゃけど、妄想がはかどりすぎてこれでも逆にセーブしとんよ。


 この前なんて気付いたら朝になっとったけんね。


 昨日の日記も凄まじかった……。


 だって24年後の七夕はやりたいことが多すぎるんじゃもん。


 盛大にお祝いするためにご馳走とケーキを作らんといけんし、球葵くんは仕事できっと疲れて帰ってくるじゃろーけー、お風呂の照明を暗色に取り換えて、青色の入浴剤と金粉で浴槽を七夕風にデコレーションするんよ!


 そ・れ・か・ら……夜の激しいご奉仕……やばい、鼻血が……。



 ……そんなわけで、私の球葵くんへの愛の片鱗だけでもわかってもらえたかなぁ?


 ふぅ~、球葵くんの話になると興奮しすぎちゃって止まんなくなるなぁ。



 ―――――



 ……今日は日曜日。世間一般的には休みの日かもしれんけど、私には関係ない。


 いつもより寝起きから調子がいい気がする。いい夢を見たような……。


 あとは……今日という日を心待ちにしとったからだと思う。


 なぜなら……今日は練習試合で球葵くんが投げる日じゃけん!


 ……今日も……いや、いつも以上に頑張ろ!



 球葵くん同様、私も野球部に所属しており、球葵くんの専属マネージャーだ。


 入学当初、専属はダメ云々で頑固な監督とはかなり揉めたけど、私の熱意……私たちの愛の力によって勝ち取ったポジションだ。


 私は不器用じゃし、球葵くんのお世話をするので精一杯じゃし……ぶっちゃけると、名前も知らんその他大勢のために割く暇なんてない。


 私の世界は球葵くんが全ての中心じゃけん、私の行動も球葵くんに合わせて行動することにしとる……まさに命を、私の全てを懸けてお世話をしとるっちゅーことよ。



 球葵くんはいつも4時30分に起床せんにゃいけんけど、球葵くんは朝に非常に弱い。


 でも、目覚まし時計に無理矢理起こされるのは嫌がるけん……私がおはよう代わりのピアノを弾くことにした。


 こんなこともあろうかと、幼いころからピアノを習っとって本当によかった。



 幼馴染特権の効果により家は隣、スピーカーに繋いで大音量のメロディを届ける。


 私の家にはひっきりなしに騒音が云々といったクレームが届いとるのは知っとるけど……無視無視、私は間違ってなんてないし。


 むしろ、未来の大投手夫婦の朝の幸せなひとときををおすそ分けしてあげとんじゃけん、感謝してよ。


 ゆくゆくは町内放送用のスピーカーを使ってやるんじゃけん、この程度で文句を言ってこられると困るのだ。



 ーーーーー



 ……曲調をこまめに変えるように工夫した選曲で30分くらい弾いた後、朝ご飯を作りに球葵くん家に出かける。



 球葵くんの家の鍵は基本開けっ放しなので、玄関から堂々と入って鍵をきちんと閉める。


 もちろん、合鍵は持ってるけどね!


 野球以外は球葵くんルーズだから……私がフォローしてあげんと!



 反面、野球のこととなると、球葵くんはめちゃめちゃストイックだ。


 独自のルーティーンを確立していて、そのリズムを乱されるんをとても嫌う。


 その徹底ぶりは……もう身震いするレベルだ。そこがギャップでもあるんじゃけどね。


 それに応えるために、私が日々球葵くんのお世話に命を懸けんといけん理由がようやくわかってもらえたかなぁ?


 全力には、私の全力で応えてあげんとフェアじゃないしね。



 特に私が力を注いどるのが、球葵くんの栄養管理……もっと簡単に言ったら、料理だ。


 球葵くんは中学生の頃から食事の管理を始めとって……私が球葵くん家に料理を作りに行くようになったのもそのくらいの時期からだったんよ。


 そっからは料理の勉強をして資格を取ったり……精いっぱい努力しとるつもり!


 最初はしかめっ面とげんなりした顔しか見せてくれんかった球葵くんじゃったけど……だんだんと笑顔を見せてくれるようになったし。


 今では、私の料理以外は受けつけない体になっとるに違いないわ!


 こうして私は、球葵くんの睡眠欲と食欲をこの手中に収めることとなった。



 残るは、球葵くんの性欲だけなんじゃけど……これが鉄壁!


 致命的に感じるのは、球葵くんは私を女として見とらん節があること。


 アプローチが足りんのか、それとも本当にそういうことに興味がないんか……球葵くんはどこで発散しとるんじゃろうか……?


 想像もしたくない想像が渦巻いて、どす黒い感情が溢れ出しそうになる……球葵くんをたぶらかす愚か者は生かしちゃおけん。


 まぁ、寝てる時以外はほとんど一緒におるし、そんな女と遊んどる時間なんてないじゃろうけど。


 球葵くんはきっと野球と私があれば生きていけると信じとるよ。



 ……リビングを覗くと、球葵くんはお日様を浴びてから水を一杯飲んだ後に行う朝のストレッチの最中だ。


 肌着一枚の姿を拝めるのはこの間だけじゃけん、私はいつもこの時間に来ることにしている。


 ちなみに、私は形に残るものにするより、瞼に焼きつけるタイプだ。



 滴る鼻血が垂れてくるのを必死に抑えつつ、球葵くん成分を補給した私は、いつもの調子で呼びかける。



「球葵くんおはよう」



 ……で、いつも通り球葵くんはストレッチをしながらの短い返事。



「お、うん」



 実際、私たちのいつもの距離感というものはこんなもの。


 というのも、球葵くんの目を見るだけで大体対話が可能じゃけんね……こんな風に。



『……昨日はよく眠れた?』


『うーん……うん』


『今朝は、お米さんとパンどっちがいい?』


『パン』


『はーい』



 ……どうよ。……なんたって、私たちは心が通じ合っとるけんね!


 朝のコミュニケーションは夫婦円満にとって大事らしいけど、私たちはそんなレベルにはおらん……夫婦以上の関係性ってことよ!



 花柄のエプロンを結んで、キッチンに入る。


 冷蔵庫を開けると……違和感。私が完璧に仕分けしとるはずの中身の配置が若干変わっとる。


 牛乳はこんな真ん中に横たわってなかったし……ふーん、なるほど。



「……ねぇ球葵くん」


「……ん?」


「夜、リンゴ食べたでしょ。昨日は3つあったのに2個になっとるよ?」


「……気のせいだろ」


「いいや、3つあったんよ。ごまかすためにわざわざそのスペースに牛乳を倒して配置しとるし……すぐわかるけん」


「……怖っ」


「怖くなんてないよ、毎日冷蔵庫見とったら普通に気付くし」


「普通は気づかないもんなんだよ、それ。こっそり食ってんだからさ」


「何でこっそり食べるん? 球葵くん、栄養に気ぃ遣っとるんじゃなかったん?」


「……別にちょっとくらいいいかなって。リンゴだし」



 ……球葵くんがつまみ食いをするなんて、これまでもちょいちょいあったけど……それを隠そうとするなんて今までなかったし……まさか。



「ご、ごめんなさい!」


「……ん、結?」



 ごめんなさいごめんなさい、完全に私のせいだ!


 私がちゃんとご飯を作っていないから、球葵くんはつまみ食いをするんじゃ。


しかも、私に気を遣って隠そうとして……ごめんなさいごめんなさい!



 私は自分の罪の重さを実感し、押し出されるように目から涙が溢れてくる。


 満足にご飯も作れないような専業主婦など誰が必要とする?


 私の心は己の不甲斐なさで、今にも鼓動を止めてしまいそうなくらい追い詰められとる。



「……ひぐっ、ぐすっ……ごめんなさい、夜ご飯……足りんかったんよね……ひっぐ……」


「ちょ、泣き止めよ……そういうわけじゃないから……」


「……じゃないと、ひっぐ……こっそりつまみ食いなんてせんもん……ぐすっ……」


「わかった、わかったから。ごめんな、今度からしないから許してくれよ」


「違うの……球葵くんは悪くないの……ぐっす……私は自分が許せんのんよ……えぐっ……」


「結、後でよしよししてあげるから、泣き止め。お前の朝ご飯、楽しみにしてるからな」


「……うん、ぐすっ……わかった」



 ……球葵くんは優しい。


 よしよし……嬉しい。



「……お詫びに一品多く作るわ。リクエスト、ある?」


「お前は何も悪くないけどな。じゃあ……ベーコン入り卵焼き」


「……わかった」


「ん、よろしくな」



 自分の失敗は仕事で挽回するしかない。


 何より、球葵くんの足を引っ張るわけにはいかないのだ。



 ―――――



 食べ盛りの球葵くんのために、大皿がダイニングテーブルいっぱいに並ぶ。


 球葵くんにのしかかる野球界からの期待は、決して小さくないものだ。


 ……食事の時間くらいはそんなこと忘れて欲しい、そんなささやかな至福の時間を作り出す私自身の仕事に大きな誇りを感じている。



 卵焼きを焼き始めたタイミングで、ちょうど球葵くんもストレッチを終えたようで……食卓につく。



「お、うまそう」


「……ありがと。今卵焼き焼きょーるけん、先に食べてていいよ」


「わかった、……いただきます」



 ……私の料理を球葵くんが食べとる、とてもおいしそうに。


 この光景は、本当の夫婦になったみたいで……毎日見ていても勝手に頬がぽぉーっとする。



「うん、うまい。……どうした?」



 ……つい見惚れてしまった。



「あ……いや、……ご飯粒ついとるよ? 取ってあげよっか?」


「結、それよりベーコン入り卵焼き大丈夫か?」


「大丈夫……ってあぁ! やばっ、焦げる!」



 煙が上がっているフライパンを慌てて火元から遠ざけ、中身をお皿に乗せる。



「ふー……ぎりぎりだったぁ~」


「火は危ねぇんだからちゃんと見てないとダメだろ」


「ご、ごめんなさい……」



 ……どうしたんじゃろう、今日の私……ダメダメだ。


 気が抜けてるってことはないんじゃけど……。



「気をつけろよ……ってなんもついてねぇじゃん」


「……はいはい! 卵焼き一丁上がりね!」


「お、ありがとう」



 大好物で何とかごまかせた……。



「うまい! だけどさ……卵焼きの味、少し変えた?」


「うん、よくわかったね。醤油いつものスーパーになかったんよ」


「へー、こっちもこっちでおいしいな。あっさりしてて」


「そっか……。ちょっとヘルシーなのにしてみたんよ」


「へぇー、お前なりに結構考えてんのな。脳筋の割に」


「うん! ありがとう!」



 私のことを考えてくれるなんて……球葵くんは本当に優しい時は優しいなぁ……。


「そういえばさー、結は朝ごはん食べないの? こんなにあるのにさ」


「いや……私はダイエットしとるから……」


「ふーん、そっか」



 ……食べられるわけないよ。


 だって……球葵くんの食べてるところ見とるだけで、体中が満たされるんじゃもん。



 球葵くんを再び補給しとると、球葵くんはそわそわした様子でチャンネルに手を伸ばして、テレビを起動する。


 ……本当はずっと私を見て欲しいんじゃけど。


 球葵くんの視線を釘付けにしとる画面内では、何やら物騒な行方不明事件がどうたらと報道しとるようで。



「これ、最近ずっとやってんよなぁ」


「……そうだよねぇ。不思議だよ、本当に」



 どうして、横顔さえもこんなに魅力的に映るんじゃろう……。



「結さ、俺がある日突然いなくなったらどうする?」


「へっ? ……そんなん……そんなん……」



 ……私から球葵くんを取ったら何が残る?


 ……答えは空っぽ、球葵くんは私の全てだから。



「えっと……ちょっと想像できんけど……探す。見つかるまで球葵くんを探すよ」


「ふーん、そっか……。まぁ結らしいっちゃらしいかな」


「球葵くん……いなくならんよね……? 私の前からいなくならんよね……?」


「もしの話だからな。そんな怖い顔しなくていいから」



 え、私そんな怖い顔して……しまった、心配させちゃった……。



「あ、うん。わかっとるよ……」


「ご馳走様。おいしかった。ちょっち歯磨いてくるわ」



 球葵くんは席を後にすると、洗面台に向かった。


 一定のリズムで刻まれるシャコシャコ音とともに、私も後片付けを始める。


 ……その間も、胸に靄が立ち込めてきてどうにもすっきりしない。



『俺がある日突然いなくになったらどうする?』



 ……それは探すに決まっとるけど、逆は……。



『私がある日突然いなくなったら球葵くんは私を探してくれるだろうか?』



 ……これ以上は、考えたくもなかった。



 ―――――



 お昼用(もちろん球葵くんのも)のお弁当を包み終わった頃、球葵くんも家を出る準備が整ったようで。



「結~、そろそろ出よう」


「はーい。洗濯物回すけんちょっと待っとってね」



 エプロンを外し、洗濯槽に投げ込んで……スイッチを入れる。


 こんな雑務を球葵くんにやらせるわけにはいかない。


 私の存在意義がなくなってしまうし、球葵くんには私と野球のことしか考えさせたくないし。



 制服を整え、忘れ物がないかを確認して……電気を切る。


 球葵くんの真似をするように右足から靴を履き……合鍵を使って確実に扉をロックする。


 ……ドアの前では球葵くんが自転車を持って待ってくれている。私のカバンも。



「ほら、カバン」


「うん、ありがと」



 私の両手いっぱいの荷物を優しく受け取って、前の荷台に乗っけてくれる。


 球葵くんの後ろに乗って体を預ける。


 球葵くんの体温が、匂いが、硬い肉体が私の感覚を通じて強烈に入り込んでくる感じ……毎度あまりの濃密さに今にも達してしまいそうになる。



「行くぞ……ってそんなにしがみついてなくても落ちねぇよ」


「へっ? ……あっ、ごめん」


「別に謝らなくてもいいんだけどな。それより結、お前顔真っ赤だぞ? 熱でもあんの?」



 ……球葵くんが顔を近づけて……あまりに急で、私には刺激が強すぎる。



「はぅ! ……いや、そんなことないよ。ちょっとボーっとしとって」


「それ、大丈夫なのか?」


「大丈夫! それより早く出んと」



 ―――――



「速い……速いって……ちょ…球葵くん速い速い……速い~!」


「どうしたお前、そういう本の読み過ぎじゃない?」


「もう! それは球葵くんの方じゃろ、そういうのは女の子に言ったら嫌われるよ」


「……どういう本? 俺、まだどういう本か言ってないんだけど」



 ……嵌められた。



「それは……え、えっ、えっち……な本……」


「ふ~ん。お前も成長したんだな。お前はいつまでもピュアだと思ってたよ……」


「勝手に失望せんとって……」


「で、どんなジャンルが好きなんだ?」


「へっ? ……そ……そんなん言えるわけないじゃん!」



 高校球児とのナイター球場プレイものなんて……恥ずかしくて絶対言えない!



「その反応はやっぱり読んでんのな。結は正直でわかりやすくて……いい子だ」



 球葵くんはこういうことだけは頭が回る。


 勉強は私よりできんくせに……。


 そんなところもギャップでカッコいいんじゃけどね。


 私のことをいい子……いい子って!



「あ……ありがとう。……嬉しい」


「え……あぁ……うん」


「それよりさ、これって自転車が出していいスピードじゃないと思うんだけど……」


私たちが乗った自転車は、今にもタイヤから火を噴きそうなくらいの猛スピードで坂道を駆け下っとった。


「別にそんなじゃない? ……大丈夫だろ」


「自転車が大丈夫じゃない! この前新しいの買ったばっかりなんよ? もう何台壊しとると思っとん?」


「それはしょうがないだろ。タイヤがちびてなくなったり、謎に車体が捻じ曲がるんだからよ。自転車は消耗品だよ」


「自転車は消耗品じゃない! 今回は高いの買ったんやけん!」



 二人が乗る自転車は二週間ともたないので、その度に私が買いに行くんじゃけど……そのおかげですっかり店員さんに顔を覚えられてしまった。


 自転車店に入ったときのまたかよという呆れと憐みの視線を向けられるのがとてつもなく恥ずかしいし、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。


 その恥をかき捨て、今回は店員さんと綿密なディスカッションの下、壊れにくいもの見繕ってもらったんじゃけどな……。


 この調子じゃ、また自転車店のお世話になるのも時間の問題かな……。



「どうせすぐ買い替えるんだから安いのでいいって」


「いや、高いと壊れにくいかもしれんじゃん」


「いや、絶対二週間でぶっ壊す……!」


「無理やり壊そうとせんとって! そんなところにプライドいらないから!!」


「じゃ、ちょっと飛ばすぞ。この自転車に本当に高い価値があるか試してやる」



 球葵くんのハンドルを握る力が強まった刹那、スピードが上がった。


「ひぃ~~~~~~止めて! 一回止まって~~~! 速い! 速い! 死ぬぅ~~~!」



 ―――――



「……はへぇ……ひぃ……ひぃへぇ~……おはなばたけがみえた……おはなばたけが……」



 朝から絶叫マシーンに乗せられていまだに思考が定まらん。



「今回のは結構スピード出ていい感じだったな。壊れてないし、さすが高いだけあるわ。……楽しかった?」


「はふぅ……ふぅ……ぜんぜん……たのしくなんて……ないぃ……」



 いい自転車は壊れにくいだけじゃなく、性能も優れているからお高いのだ……球葵くんの言う通り、今度からまた安い自転車を買おう。



「ほら、もう駐輪場着いたぞ。早く降りろよ」


「はぁ……はぁ……ちょとまって……こわかったから……こしが……」



 なぜか全身が弛緩して力が入らん……球葵くんに縋って何とかバランスを保つ。



「……悪かったよ結。ごめんな……怖かったか?」


「ん……うん……」


「……ちょっと我慢しろよ」



 球葵くんは素早く自転車から降りると、手を私の背中と膝裏に回して……そのまま私を持ち上げた。



「え……ちょ……たまきくん?」



 やばい、何が起こっているのか全然理解できん……でも、心臓がどきんどきんしとる……。


 これがお姫様抱っこ……こうかはばつぐんだ!



「給湯室にベッドあったよな、確か……。そこでいいか?」


「へっ……うん」



 自分の体が…脳がさらにふにゃふにゃになっていくのがわかる。


 次第に周りの視界がぼやけて、瞬きが自然と増える。



「……泣くほど怖かったのかよ。ごめんな、やりすぎたわ」



 え、また私……泣く……? ……どうして?



「……はへっ? いや、これは……何なんじゃろ」


「……ん? まぁベッドまで運んでやるからおとなしくしとけ」



 ―――――



 給湯室までの道のりの中で、私もだいぶ今自分が置かれている状況を理解した。


 辺りには誰もいない、いるはずがないのに……見られてたらどうしようってことしか頭にはない。



 閉じていた眼を球葵くんが気付かない程度にうっすらと開けると、すぐ近くに想い人の斜め横顔。


 膝裏から直に球葵くんの感触を感じて……ダメだこれ、血が上ってきとる……。


 ……温かくていい感じにごつごつしとって……それを意識してしまうと、胸のあたりまでポカポカして安心する。



 同時に、少し自分が汗ばんでいるのもわかってめっちゃ恥ずかしい。


 球葵くん嫌じゃないかなぁ……重くないかなぁ……。



 しかし、そんな心配をしとる場合ではない。


 私は今という時間を堪能しなければならないのだから。


 私は今この世で一番幸せな状況にあるのだから!



 球葵くんの香りは知っとるはずなのに……濃厚すぎて脳の処理が追いつかない。


 頭がぼぉーっとしてきてこのまま昇天してしまいそうだ。


 というか、球葵くんの腕の中で死ねるなら本望だ。



 時の流れが心拍数と連動したように長く感じる。


 もはや、溢れ出す感情に抗う術など私は持ち合わせてなどいなかった。


 ふやけていた体が動きを取り戻し、無意識のうちに腕が球葵くんの首を一周するように巻きついた。


 本能のまま球葵くんの頬に唇を近づけ……。



「結? 起きたか……って近っ!」



 ……あれっ、球葵くんの顔が逃げていく。


 って、私は今……。



「へっ……何して……?」


「お前やっぱり熱あるんだろ。さっきよりも顔赤くなってるぞ」


「いや……そんなこと」



 ……私のおでこに手を当てる球葵くんの手は少しひんやりする。



「……やっぱ熱いじゃねぇか。無理しなくていいんだぞ。やっぱ保健室に連れてくか……空いてっかな?」


「無理なんてしてない……」


「お前はいつも頑張り過ぎちゃうところがあるから……なんつーか、心配なんだよ。……結、俺はいつも元気なお前が好きだからさ……今日はゆっくり休んでほしいっていうか……」



 ほえっ……今、私のこと……。



「……好き?」


「……お、おいそういうことじゃねぇから勘違いすんなよな! 俺はお前の苦しんでるところなんて見たくないし、看病だってだるいから元気でいろって意味で……。あぁ! 苦しいから締めつけてくんな!」



 私は球葵くんに思いっきり抱きついていた。


 私の腕はまた勝手に……この悪い腕め♪



「……球葵くんの馬鹿。この思わせぶり大王」


「もういいからあんまりしゃべんな……しんどいだろ?」


「……ありがと、……私も球葵くんが好き……大好き……」


「……へへっ、お前、筋金入りの重さだよ」


「だから重くないって……ばぁ…………」



 ―――――



 ……消毒液の香りが私をくすぐる。


 保健室はどうやら開いていたようで、私の体は柔らかい感触に包まれて……。



 頭は未だにぼぉーっとしたままで体を動かすのも辛い。


 そう考えると、本当に私は具合が悪かったのかもしれんという感じが全身を取り巻いてくる。


 病は気からと言うけど、今回ばかりは完全に病気の勝ちだろう。



 部屋の隅からゴソゴソガシャガシャといった音が聞こえてくる。



「とりあえず体温計……あった。ほら、咥えてろ」


「ん……」



 細い棒が口の中に侵入してくる……冷たくて硬い。


 しばらくすると、どこか懐かしい電子音を奏で、私の体内からいなくなる。



「39度……やっぱり無理してたのかよ。……しょうがねぇなぁ」



 私は病魔により完全に心が折れ、強がることも億劫に……。


 今思えば、いつものことをやっていただけなのだが、それほど私は弱っていた。



「ひっ! つめたぁ……!」



 今度は唐突に額が冷感に襲われる……冷えピタだ。


 だんだんと私の体温で温もってきて、私の一部みたいに溶け込んでくるような……。



「よし、こんなもんかな。何か欲しいものとかあるか?」


「……たまきくん」



 ……言ってみただけ、いつものように私を馬鹿にするんだ。



 すると、私の左手にそっと球葵くんの手が重なる。



「……しょうがねぇなぁ。看病するよ……試合前まで」


「ふぇぇ~……?」



 私は今、好きな人と手と手を通して結ばれている。



 ……球葵くんはずるいと思う、こんなのもっと好きになるしかないじゃん!


 あ~、もっと熱が上がってきた気がする……しんどい。


 でも、不思議と不快感は皆無だった……。



 ―――――



 ……どのくらい時間が経ったか、時計を見とらんからわかるはずもない。


 しかし、そこに幸せな時間が流れとったという事実は言うまでもなくて……思っているのは私だけかもしれんけど。



 別に何をしとったというわけでもないし、特別なことがあったわけではない。


 私はただずっと、球葵くんの温もりを感じながら白い天井を見とった。


 別に泣いているわけでもないのに、無数にある正方形がグニャグニャ歪んで混じりあう。


 セミの鳴き声がうるさいだけで、私たちの間には沈黙が流れているが……ぎこちなさを感じることはない。



 ……ふと気になったことがあったので、沈黙を破ってみた。



「……たまきくん」


「ん、何?」


「どうしてきょうはそんなにやさしくしてくれるん?」


「どうしてって……そりゃお前、え~と……病人に優しくするのは当たり前のことじゃん?」


「……ふ~ん。たまきくんびょうにんにはやさしいんだ……」


「俺そんな鬼畜じゃねぇからな? 俺を何だと思ってんだよ……」


「わたしにはいつもどくぜつ……しんらつ……ようしゃなし……」


「それは……結は、他とは違うっていうか……何でも話せるっていうか……いや、幼馴染だろ?」


「……そっか。じゃあわたし、ずっとびょうにんでいよっかなぁ……」


「……馬鹿言ってんじゃねぇよ、めんどくせぇ」


「でも、たまきくんはやさしくしてくれるんよね?」


「それは……」


「いっしょにいてくれて……てもつないでいてくれるんよね……? びょうにんさいこうじゃん、へへっ」


「はぁ~。お前、やっぱ熱出て頭沸いてんのな。その理屈で行くとお前が握っているこの手は他の病人と共有ってことになるけどいいのk……」


「それはダメ! そいつぜったいぶっころす…」


「あんまり興奮すんなって! ……だったら病人なんて嫌だろ? あと俺はそんないろんな人と手を繋ぐほど女ったらしじゃねぇんだよ」


「え……それって……わたしのことは……」


「あ……いや、そういうことじゃないから! お前は幼馴染だから手を繋ぐくらいはおかしくないというか……そう、お前は特別だから……ってどう言えばいいんだよ……」



 ……特別、私は球葵くんにとっての特別……。



「それに、俺の手は別に繋ぐためにあるんじゃないから。俺の手は野球をするため。ボールを投げるためにあるんだからな」



 ……球葵くんらしいや。



「えへへ……うれしい……」


「……じゃあ、そろそろ試合だから行ってくるわ。……ちょっとは寝とけよ。お前結局全然寝てねぇだろ」


「たまきくんと手をつないでると……おまたがキュンキュンして……」


「このド変態が……。……その調子ならすぐに復活しそうだな。いいピッチングしてすぐ迎えにくるから待ってろ」


にかっと笑みを浮かべる球葵くんに、元気を振り絞って目を細める。


「うん、……待っとる」


「監督にも言っとくよ。じゃ、また後でな」



 球葵くんは足早にガラガラとドアを開けて出ていった。


 一人になった保健室は再び静寂を取り戻すが……しかしさっきと違ってちょっと涼しい。



 ふと、素直な思いが脳を駆け巡る。


 ……球葵くんは私にとっての特別な人……でも、球葵くんは私だけの特別な人ではない……私だけの特別な人でいちゃいけない。


 球葵くんは私だけの最高のピッチャーじゃない、いずれ世界のみんなが最高のピッチャーって言うんじゃろう。


 これから野球界をはじめ、多くの人の特別となっていくんだ。


 私だけの特別なんておこがましいことは言えない。


 私は私のことを見てくれる球葵くんが大好きじゃけど……でも、それ以上に私は野球に向き合っている球葵くんが大好き。


 私は野球をしている球葵くんの側にいたい。


 だから私は、一番じゃなくていい。



 私は球葵くんの一番を支えて、守りたい。



 野球をしている時の……投げている時の球葵くんの微笑みは無邪気で、純粋で、磨き上げて透き通ったガラス玉のように輝いて見えるから。



 ―――――



『むすび! おれはおまえをおよめさんにしてやる』


『うん! わたしもたまきくんのおやめさんになりたい! ゆびきりげんまんだよ!』



 ……また同じ夢を見とった。


 遠い日のぼやけた夢……でも、確かにあったこと……。


 私はすっかり眠っとったみたいで、熱っぽさもだいぶ緩和したように思えた。



 ベッドから出てカーテンを開けると、日の光が差し込んでくる……眩しくて暑い。


 太陽の上り具合的にもうお昼くらいか……。



 今日の練習試合は昼過ぎまでには終わる予定だったから、球葵くんがもうすぐ迎えに来てもおかしくないだろう。


 監督には後で直接詫びを入れて帰らないといけないだろうから……だったら、球葵くんを待たずにグラウンドに行ったほうがいいかな?



 いや、待っとこう……愛しの球葵くんの言葉を信じて、待っとこう。


 制服はすっかり汗が染みこんでるし……女の子としての最低限の身だしなみを整えんと。



 私はまず、体操着に着替えることにした……球葵くんが迎えに来るまでに。






 ……しかし、球葵くんが迎えに来ることはなかった。


 球葵くんが投球中に突然消息を絶ったことを私は後で知った……原因不明であることも。

 異世界に行った球葵は結に一切言及しません。

 これは、自分なりに答えは持っているのですが……言わないでおきます。

 それは、ある意味……球葵の答え、つまり重大なネタバレにつながる可能性があるからです。

 それに、いろんな想像が膨らんで方が面白いと思いますし。


 実は、結のお話はこれで終わりではないです。

 本編の都合もあるので、いつ出せるかは未定ですが、楽しみにして頂けると幸いです。

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