2話【嘘】
夕焼け雲がツラツラツラッと横に長く広がりを見せた日は、何かいいことがあるんだ、と婆ちゃんは言っていた。
「要さん、いいことありそうっすね」
「あるかなぁ」
こんな日は婆ちゃんが見ているような気がして、婆ちゃんのお気に入りの席で人間ウォッチングをしてみる。
「母ちゃんがいるみたいっす」
「いつも日向ぼっこしてたよね」
時さんは婆ちゃんを母ちゃんと呼んでいた。
気分屋の入り口に置かれたベンチに腰掛けて、寄居商店街を行き交う人を眺めてはケタケタと笑っていたのを思い出す。
気怠そうな若者が歩いて来た。その歩き方に音をつけるならペタペタ、ペタペタ……
「要さん、お腹すいたぁー」
「カスミちゃんサボり?」
「試験日の早帰りだよ」
花屋のカスミちゃんはグリーンのスカーフをピラピラさせて口を尖らせた。
「セーラー服、似合うじゃん」
「でしょ」
腰に手を当ててポーズを決める仕草が可愛い。
「ママが喜んだでしょう?」
花屋の優子ちゃんはアタシの幼なじみの一人である。
「ママって誰?」
「えっ……」
(そう来たかい、思春期ちゃん)
「優子ちゃんだよ」
「ああ、どうかな」
カスミちゃんのパパ、一樹も幼なじみの一人である。先妻の真里ちゃんもそうだ。
寄居商店街には、当時、子供が沢山いた。幼なじみの数も一般的に言うような一人や二人ではない。
「要さん、パンケーキなら」
「カスミちゃん、食べる?」
「うん、時さんのパンケーキ」
キャッキャ、キャッキャ、する感じは可愛いのに、ママの話だけは小悪魔的なキラリと光る目つきをする。
「要さんもどうっすか?」
「アタシはいらない」
時さんは、相変わらず敬語で話をする。
それでも、二年も一緒にいると慣れて来た。
(そうっすね、今っすか)って、結局はデ、が小さなツ、になっているだけのことだ。
お嬢、と呼ばれることだけは嫌な気持ちになるから辞めてもらった。
「カスミちゃん、どうぞ」
「くぅー、いい匂い」
「食べ過ぎるとモテないぞ」
「男を気にしてパンケーキが食えるかって」
花の女子高校生よ、君はまだ花より団子かい……
優子ちゃんはクラス委員をやるような真面目な人だ。名前の通り優しい人でもある。
カスミちゃんが優子ちゃんを嫌う理由がさっぱりわからない。
「なんでそんなに時さんのが好き?」
「時さんのパンケーキは特別だから」
「特別?」
「うん、ママの味がするんだよね」
カスミちゃんはフォークを置いて食べるのをやめた。
沈黙の中、ガチャガチャガチャ、と時さんがお皿を洗う音だけが店内に響く。
「あの人がママを追い出したの」
「えっ? 優子ちゃんは……」
「ゴボッ、ゴボッ、喉がアレだな」
時さんはわざとらしい咳払いをした。何かを伝えようとアタシを見ているが、時さんの目つきは怖いだけで何も伝わらない。
「カスミちゃん、どうぞ」
「あ、これ、これって……」
時さんは苺を潰してホッとミルクと一緒に蜂蜜入りのカップに注いだ。
アタシは違和感を覚えた。時さんは何故、こんなにもカスミちゃんの心を和らげる方法を知っているのだろうか。
今朝も同じ感覚を持ったことを思い出す。
優子ちゃんと時さんの密会だ……
緑さんがランニングの途中で二人を見たが、怪しい雰囲気だった、とメールが来たのだ。
面白おかしく書いてあったから笑って終わりにしたが……
時さんと優子ちゃんの怪しい関係はあり得ない。でもきっと何か相談されていたに違いない。
アタシは時さんに任せて口を挟まず絵本を書いていた。
十一年前、一樹と真里ちゃんが離婚するときのことを思い出してみる。
花屋の一樹はおっとりとしている人だ。真里ちゃんは、それがたまらなくイラつくと言っていた。
子供のために我慢して生きていたら私の人生が終わっちゃう、と言い残してこの町を出て行った。
問題は、一人ではなく二人で……
その日は同窓会でみんな子供連れで参加していた。
もちろん、カスミちゃんもいた。
よりによって、みんなの前で離婚届を渡された一樹は衝撃すぎて固まる。
キャリーバックを片手に参加していた真里ちゃんは、そのまま町を出て行くつもりだったのだろう。
「ママ、どこいくの?」
「……」
「カスミもママといく」
「駄目よ」
「どうしてだめなの」
「荷物がいっぱいだから」
カスミちゃんはテーブルに戻って、唐揚げやらポテトやらを食べ続けていた。
そして……
アタシは思い出した。あの日、優しいクラス委員の優子ちゃんが激おこぷんぷん丸になったのだ。
(バシッ)
「痛いっ」
「ひとでなし」
あの優子ちゃんが真里ちゃんに平手打ちをした。
「何すんのよ」
(バシッ)
「痛いっ」
「今のは、カスミちゃんの分」
無力で食べ物に逃げるしかないカスミちゃんの分だと言った。
ママから荷物と一緒にされた悲しみと、捨てられるという恐怖が入り混じった感情。
あの子の分、と怒鳴りながら、泣きながら、叫びながら真里ちゃんを何発もバシッバシッと叩いていた。
逃げるように真里ちゃんは外で待っていた車に乗り込んで自分のためだけの未来へと旅立った。
この状況を優子ちゃんが追い出した、とは言わないだろう。
カスミちゃんは、どんな誤解をしているのか……
優子ちゃんなしで一人で来たこともない一樹がやって来た。
「パパ……」
「カスミ、話をしないか」
「あの人に言われたの」
「そんな呼び方するな」
一樹は優子ちゃんが買い物に行っている間に置き手紙をして来たんだよ、と言った。
「時さんがメールくれたんだ」
「なんて?」
「姫が泣いたら城は崩れる……」
「ふっ、時さんらしい」
問題は、カスミちゃんがお婆ちゃんの家で暮らすと言い出したことのようだ。
一樹は、高校生になったカスミには事実を話すべきだと思うから、とあの日のことを全て話した。
カスミちゃんは、カウンターを見つめていた。何も言わず、いや、言い返せず黙って下を向いていた。
ポトッポトッ、と雫が落ちて鼻水をズズズゥー、と啜る音がした。
「カスミちゃん、ハアハア……」
「優子、話をしたから」
「どうして、言わないでって……」
優子ちゃんは床にしゃがみ込んでしまった。
長い時間をかけて隠し通したことだったのに。
婆ちゃんや時さんにパンケーキの作り方を教えて影から見守っていたのに……
そんな思いを知ってか知らずか、思春期ちゃんが歩み寄る。
「パンケーキ、明日の朝作って」
「えっ、あ、うん作る、いっぱい作るから」
「食べ過ぎるとモテないってさ」
長い時間をかけて積み重ねた思いは重なり合って、二人を繋ぐ。
一樹は目にいっぱい涙を溜めて言った。
「そうだ、モテないぞ」
カスミちゃんと優子ちゃんは口を揃えて言い返す。
「男を気にしてパンケーキが食えるかって」
【 嘘 】
嘘をついてしまった
悲しませたくなくて
嘘をついてしまった
涙を見たくないから
誰かを傷つけるなら
嘘に価値はないけど
誰かを守るためなら
付いていい嘘がある
そこに罪があるなら
全ての罪を受けよう
婆ちゃん、ツラツラツラッ、と夕焼け雲はアタシにいいもの見せてくれたよ……
(パンケーキ、ママの味がするんだよね)