7.作戦準備①
マリーはまっすぐに兄の元へ向かっていた。
基本的に、マリーは自ら兄の元を訪れることはしない。大抵は事前に会いたいという伝言を頼み、兄の都合がつくときにマリーの元へ出向いてもらうことが多い。
それは、マリーの幼少期からの決まりごとのようなものだった。
今はこんなに元気いっぱいなマリーだが、小さい頃はとても病弱だった。些細なことで熱を出し、ベッドから起き上がれない日も多かった。
そのせいで、健康になった今でも家族はみんなマリーに対して過保護だ。マリーが父や母、兄の元へ突然訪れると、こちらから出向いたのに、と怒られる。それに少し理不尽さを感じるものの、それが愛情の証でもあるとわかっているので、マリーは家族に用があるときは伝言を頼むようにしていた。
しかし、今日はそんなまどろっこしい手段は取れなかった。
なにせ、マルクスのためである。一分一秒も無駄にはできない。
「お兄さま!」
ノックをして部屋に入るなり、コンラートに駆け寄る。
コンラートは突然やって来た妹に目を見開いたあと、眉間に皺を寄せた。
「マリー……用があるときは私が出向くと……」
「そんなことはどうでもいいです」
「どうでもいい……」
コンラートは妹の言葉に少しショックを受けたようだった。
しかし、すぐに気を取り直した。
「……そんなに慌ててどうしたのかな、マリー」
兄の威厳を取り戻すように、余裕のある表情で問いかけたコンラートに、マリーは「お兄さまにお願いあって」と言い出す。
「『お願い』……?」
「はい。お願いと言っても、大したことではありません。カールと少しお話がしたくて」
「カールと?」
珍しい、と言いたげにコンラートが目を見開く。
それにマリーは真剣な顔をして頷いた。
カールこと、カールハインツ・クライは、コンラートの右腕とされている人物である。クライ侯爵家は代々、優秀な文官を輩出している名家で、コンラートと年の近いカールハインツは幼い頃よりコンラートの右腕となるべく育てられた。
そのため、コンラートとマリーはカールハインツと幼馴染みでもあるのだ。
カールハインツはコンラートよりも三つ年下でありながら、早くもその頭角を現し、次期宰相候補として名を轟かせている。
頭脳明晰で名家の生まれ。そのうえ、容姿端麗までつく三拍子揃った優良物件──それがカールハインツの評価である。
そんな彼にも、一つ大きな欠点があった。
「……あの、お二人とも……私、ずっとここにいるんですが」
「あら、いたの、カール」
「あなたが来られる前からいましたよ……」
気づかなかったわ、と言うマリーにカールハインツは力なく笑った。
そう、カールハインツの欠点とは──華がないことである。
端的に言えば、存在感が薄い。
「それで、姫さまは私になんのご用でしょうか?」
気を取り直したように訪ねたカールハインツに、マリーはそうだった、と真顔にになる。
「カール、わたしにフュルテゴットさまを紹介して」
「……はい?」
「マ、マリー……?」
マリーのお願いに、カールハインツもコンラートも目を丸くする。
そしてコンラートは慌てた様子でマリーに近づき、その両肩を掴んだ。
「早まるな、マリー! 私はマリーの好いた男ならある程度は応援しようと誓っているが、フュルテゴットだけはだめだ!」
「なんの話です……?」
きょとんとするマリーに、カールハインツは諭すように言う。
「コンラートさまは姫さまのことを心配されているのですよ。フュルテゴットは優秀な騎士ではありますが、女性関係ではその……あまり評判の良い騎士ではありませんから」
「ああ……そういうこと」
カールハインツの説明にマリーは納得したように頷き、安心させるようにコンラートに笑いかけた。
「ご安心なさって、お兄さま。わたし、フュルテゴットさまを好きになることはありませんから」
「本当に……?」
「ええ、絶対です。お約束いたします」
「しかし……」
「よくお考えになって、お兄さま? わたしが、このわたしがマルクスさま以外に現を抜かすことがあると思いますか? マルクスさまにならすべてを捧げてもいいと思っていますが、それ以外の方にそこまで尽くすことなど、あり得ません」
きっぱりと言い切ったマリーに、コンラートは安心したように「そうか……」と呟く。
そしてマリーの肩から手を離す。
「わたしのことを心配してくださってありがとうございます、お兄さま」
「妹の心配をするのは、当たり前のことだよ」
兄妹はそう言って微笑み合う。
美しい兄妹愛にカールハインツは感動しかけ──ハッとする。
「──ちょっと待ってください! なんですか、この一件落着な雰囲気は!? 姫さまの発言、大分問題があると思うのは私だけなんですか!?」
思わず声を張り上げて突っ込んだカールハインツに、マリーは困ったように眉を寄せた。
「わたしの言ったことのなにが問題なの、カール?」
「自覚なしですか!? マルクスにはすべて捧げてもいいとか、マルクス以外には尽くさないとか、そういうところです!」
「でも、事実だもの……」
本当のことを言ってはだめなの、と首を傾げるマリーにカールハインツは頷く。
「本当のことであっても、口にして良いことと悪いことがあります!」
「でも、ここにはお兄さまとカールしかいないし……なにも問題ないでしょう?」
不思議そうに言ったマリーにカールハインツはなにか言おうとして、がっくりと肩を落とした。
言外にマリーは二人にならなにを言っても問題にならない、と言っているのだ。そしてそれは、マリーが二人を心から信頼していることの証だ。そう言われて、問題ありますなんて、カールハインツには言い切れなかった。
「……私たち以外の前では、くれぐれも発言にはお気をつけください」
「わかっているわ」
素直に頷いたマリーに、カールハインツはなぜか恨みがましい目を向ける。
カールハインツになぜそんな目を向けられるのかわからず、首を傾げた。
「ところで……どうしてマリーはフュルテゴットに会いたいの?」
二人の話が落ち着いたところで、コンラートが口を開く。
マリーはよくぞ聞いてくれました、と言わんばかりに顔を輝かせる。
「マルクスさまのためです!」
「……マルクスのため?」
「はい。ここだけの話なのですけれど……マルクスさまは例の夜会での催しをどうすればいいのか、ずっと悩んでおられたようです。どうやら、剣舞以外に自信があるものがないようで……」
「ああ……そうだね。マルクスは確かに、そのことで悩んでいたようだった」
「お気づきでしたの、お兄さま?」
「なんとなく、ね。本人がなにも言わないから、気づいていないふりをしていたんだ」
そう言って物憂げな顔をしたコンラートに、さすがだわ、とマリーは感心する。
コンラートはよく周りにいる人たちを観察している。ときには本人ですら気づかない異変に気づき、指摘することも少なくない。そのお陰で大きな問題にならずに済んだことも多い。
だからこそ、コンラートは慕われているのだ。マリーもそんな兄を尊敬している。
「フュルテゴットと会うことが、どうしてマルクスのためになるのですか?」
興味を引かれたように訊ねたカールハインツに、マリーに意味ありげに笑う。
「とあることを思いついて、それを実現させるためには、フュルテゴットさまの協力が必要なの。だからフュルテゴットさまにお会いしたいの」
「とあることというのは……?」
コンラートとカールハインツの視線を一気に受けながら、マリーは自分の考えを口にする。
その考えを聞いた二人は、なるほど、と頷く。
「確かに……それは、面白そうですね」
「ああ。父上も喜ばれるだろう」
二人の賛同を得て、マリーは得意げに胸を反らす。
「だから、フュルテゴットさまに会わせてくれる、カール?」
「そういうことなら、お任せください」
良かった、と喜ぶマリーに、カールハインツは「ただし」と言い出す。
それにびくりと肩を震わせたマリーに、カールハインツはにこりと笑う。
「そのときには、私も同行します。姫さま一人で彼に会わせるのは不安なので……」
カールハインツはちらりとコンラートに目配せをし、コンラートはそれに頷いた。
家族だけはなく、カールハインツも過保護らしい。もっとも、カールハインツはマリーやコンラートにとって家族同然の存在なので、その過保護も嫌ではない。
それに、マリーもフュルテゴットに一人で会うのは、正直なところ不安だったので、渡りに船だった。
「わかったわ。そのときはお願いね、カール」
「お任せください。コンラートさまの代わりに私が姫さまをお守りいたします」
力強く言ったカールハインツに、マリーは大袈裟な、と内心思った。
貧弱そうなカールハインツに守ってもらわねばならないほど、マリーはか弱くない。ただそこにいてくれるだけで、十分だ。
少なくとも、そのときのマリーはそう思っていた。