15.夜会まであと少し
衣装を決めたことによっていろいろと吹っ切れたのか、マルクスの恥じらいもなくなり、堂々としたダンスを披露していた。
恐らく慣れもあるのだろう。同じ動作を繰り返すことによって、体にその動きが染みこみ、恥ずかしいと思うよりも前に体が動くようになったのかもしれない。
また、恥じらいがなくなったせいか、マルクスはフュルテゴットの突然のアレンジにも対応できるようになり、二人の完成度はどんどんと高まっていった。
正直、マリーが考えていた以上の出来だ。二人はマリーのいないところでも練習をしているらしく、マリーの考えた構造にアレンジを加えているようだった。
どんなふうにアレンジをしたのかは、当日の楽しみがなくなるからと、フュルテゴットもマルクスも、マリーに教えてくれなかった。仲間はずれにされたようで、少しだけ悲しい。
夜会が近づくにつれて、マリーは塞ぎ込むようになった。
もちろん、普段はいつも通りのマリーを装っている。兄にマルクスたちのことを話し、マルクスたちとは歌やダンスのことについて話し合う。
しかし、一人になるとだめだった。
あと少しでマルクスたちに自分のついた嘘がバレてしまう──そう考えると、怖くて、怖くて、逃げ出したくなった。
今がすごく幸せで楽しいからこそ、余計に怖い。
親しみを込めて笑いかけてくれるあの笑顔が、軽蔑したものに変わる瞬間を見たくない。
覚悟は最初からできていたはずだった。しかし、実際にマルクスと接し、一緒に時間を過ごすようになって、その覚悟が揺らぎ始めた。
(……いいえ、違う。わたしは、最初から覚悟なんてできていなかった)
嘘を言った時点で、いつかバレてしまうものだとわかっていた〝つもり〟だった。
そう、それは〝つもり〟だっただけで、実際には、なにもわかっていなかった。
嘘をつくことがどういうことなのか。そしてその結果、どうなるかも。
マリーは、全然わかっていなかったのだ。
だからといって、このことを後悔しているか、と聞かれれば、はっきりノーと答えられる。
最初から本当の身分をマルクスに明かしていたら、きっとこんな楽しい時間は過ごせなかったし、今のように笑いかけてもらうこともできなかっただろう。
だから、後悔はしていないのだ。
もし、時間を戻すことができたとしても、マリーは何回でもマルクスに身分を偽る。その結果、マルクスに軽蔑されようとも、マリーは同じことを繰り返す。
(くよくよ悩んでいるのはわたしらしくない。最後まで、今の関係を精一杯楽しまなくちゃ。たとえ、マルクスさまに嫌われようとも、わたしは最後まで嘘を貫く)
──そして、嘘がバレたらちゃんと謝ろう。
ごめんなさいと言って、自分の気持ちをマルクスにきちんと伝える。
きっとマルクスにとっては迷惑な話だろう。だけど真剣に話せば、マルクスは最後まで真摯に聞いてくれる。彼はそういう人だ。
(そんなマルクスさまを──わたしは好きになったの)
一方的な片思い。叶うことなどない想い。
そんなもの百も承知だ。王女である以上、自分の気持ちなんてあってないようなもの。
マリーがこれから歩む人生は、国のため、国民の利益となるために捧げられる。王族である以上、それは仕方のない定めだ。
だから、自分が王族だと世間に知られる前に、普通の女の子のように好きな人と一緒に過ごしてみたかった。
きっとその思い出さえあれば、これからどんな辛いことがあっても耐えられる。その思い出を大切にしまって、マリーは王女として生きていく。
──そう、覚悟は決まっている。
「……最後の挨拶をしに行かなくちゃ」
ぽつりとマリーは呟き、立ち上がる。
そしてそっと自分の部屋を抜け出し、慣れた足取りでマルクスたちとの会合の場所──初めてマルクスと話をした場所へ向かう。
あっという間に時間は過ぎて、もう夜会の前日になってしまった。
明日にはすべて終わってしまう。
それをとても寂しく思うけれど、仕方のないことだ。だって、それがマリーが選んだ道だから。
目的地に到着すると、そこにはマルクスの姿しかなかった。
マルクスはマリーに気づくと、親しみの込めた笑みを浮かべて「マリーさん」と呼ぶ。
こんなふうに笑ってもらえるのも、今日が最後──そう思うと悲しくなったけれど、それは表情にはおくびにも出さず、マリーはいつも通り笑う。
「こんにちは、マルクスさま。仕上げは順調そうですね」
「マリーさんのお陰でね。やれることはやったし、あとは本番を迎えるだけだよ」
「そうですか……本番が楽しみです!」
陰ながら応援しています、と伝えると、マルクスは「ありがとう」と笑う。
そして、もう一度「ありがとう」とマリーに告げた。
「えっと……なんのお礼でしょうか? わたしはマルクスさまにお礼を言われるようなことをした覚えはないのですけれど……」
今までのやりとりを思い出しながら、マリーは首を傾げる。
本番が楽しみだとマリーが告げて、マルクスはそれに「ありがとう」と答えた。
そのやりとりだけで十分だったはずだ。なのに、マルクスは二度もマリーにお礼を言ったのだ。その理由がわからなくて、マリーは戸惑った。
「今までのこと、全部の感謝を込めての〝ありがとう〟だよ。マリーさんのお陰で、おれは歌とダンスの楽しさを思い出せた。マリーさんがいなかったら、おれはずっとその楽しさを思い出せないままでいたと思う。おれに歌とダンスの楽しさを思い出させてくれて、本当にありがとう」
「マルクスさま……」
今まで見た中で、今のマルクスの笑顔が一番輝いて見えた。
そんなマルクスに見惚れると同時に、マリーの胸にじんわりと温かいものが広がった。
(……本当は少しだけ、不安だった。マルクスさまにとって、わたしの提案は迷惑なものでしかなかったのではないかって。でも……そうじゃなかった。わたしのしたことは、無駄じゃなかった……)
安堵と喜びで、マリーの胸はいっぱいになった。
そして、もう大丈夫、とも思った。
わたしはマルクスさまの今の言葉と笑顔だけで、これからずっと頑張れる──。
むしろ、お礼を言うべきなのは、マリーの方なのだ。
素敵な思い出と笑顔をくれて、ありがとう、と。この気持ちを言葉で伝えたいけれど、それでは別れの言葉みたいになってしまう。
だから、マリーはその言葉を飲み込むために、一度俯いた。
「マリーさん……? どうかした?」
「……いいえ、なんでもありません。マルクスさまの言葉が嬉しくて、胸がいっぱいになってしまって……」
マリーは顔をあげて、にっこりと笑ってみせた。
きっとこれが〝ただのマリー〟の最後の笑顔だ。だから、今マリーができる精一杯の笑顔を浮かべた。
「わたしも明日の夜会に参加しますから、マルクスさまたちの歌とダンス、すごく楽しみにしていますね!」
「……その期待に応えられるよう、精一杯頑張るよ」
「はい!」
マリーは元気に答え、「今日はこれで帰りますね」と告げる。
マルクスは「フュルテゴットももうすぐ来るから、会ってからでも……」と引き留めたが、マリーは用事があるのだと申し訳なく思いながら断った。
実際、このあとは兄のところへ行かなければならないのだ。
マリーは帰ろうと歩きかけ、その足を止める。
そんなマリーをマルクスは不思議そうに見つめる。
「マリーさん……?」
「……あの、マルクスさま……」
「なに?」
きょとんとした顔をするマルクスを見て、マリーは悩んだのち、小さな声で尋ねた。
「……夜会が終わっても……また、こうしてわたしとお話をしてくださいますか?」
「当たり前じゃない。おれで良ければ、いつでも話し相手になるよ」
そう言って笑ったマルクスに、マリーも「ありがとうございます」とお礼を言いながら、笑みを返した。
そして今度こそマルクスに別れを告げ、歩く。
マルクスの姿が完全に見えなくなったところで、マリーは立ち止まった。
「……バカみたい」
──あんな質問に、意味なんてないのに。
マルクスならそう答えてくれるとわかっていて、マリーは聞いたのだ。
なんてずるいのだろう。
ただ希望を持ちたくて、嘘がバレてもマルクスが今まで通りに接してくれるという淡い願望を持ちたくて、答えのわかっている質問をした。
それが叶わない願いだと知っているのに、聞かずにはいられなかった。
そんな自分が滑稽で、マリーは泣きながら、笑う。
「……マリー」
いつの間にか、マリーはコンラートの部屋の前に着いていた。
そしてマリーが来たことに気づいたコンラートが、優しい笑みを浮かべて出迎えてくれた。
「最後の挨拶に行ってきたんだね。マリーは偉いな」
「お兄さま……わたしは、偉くなんて、ないです……だって、マルクスさまならそう答えてくれるとわかっていて、質問をしたのですもの……わたしは〝偉い〟のではなくて、〝ずるい〟のです……」
「ずるくてもいいじゃないか。それも含めてマリーだろ? それに、どんなにずるいことをしても、マリーが私の大切な妹であることに変わりはない」
「お兄さま……」
優しい兄の言葉に、マリーが今まで張っていた虚勢が、すべて崩れ落ちた。
声を殺して泣き崩れたマリーの涙が止まるまで、コンラートは優しくマリーの背中をさすってくれたのだった。




