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3.



 本当に少年である。

 ローブは腰までしかない短めのもので、薄汚れてところどころ破けている。手首から肘まで晒し布を巻き、足元は編み上げの長靴だ。あれは武術用の底が薄くて軽い素材でできているものだ。ずいぶん汚れているから年季がいってそうだった。

 体格は小柄だがその年頃にしては要所にしっかり筋肉がついていて均整が取れている。髪はぼさぼさで肌も本来の色がわからないくらい汚れているので顔立ちまではっきりとわからない。

 ただ、眼光の鋭さには息を呑んだ。あの若さでこれほどの意志の強さを秘めた瞳を見たことがあっただろうか。


(何者かしら。あの野獣を吹き飛ばしたんだもの、どこかで訓練された人間かもしれない。……それにしてもユキナさんったら、まさか見物してたのかしら。もう、お気楽なんだから!)


 サクラがこの場に介入すべきか逡巡していると、少年のほうがちらっとこちらに視線を投げてきた。そして頭上に向かって話しかける。


「おい、鳥のおばさん。あれ、あんたの知り合い?」

「……おまえさん、口の利き方に気をつけな。今度言ったら殴るよ。あの子は放っといていいよ。それより早く片ぁつけちまいな」

「…………」


 少年は眇めた眼でしゃべる鳥を見ると、ひとつ溜息をついて当面の外敵へと視線を転じた。

 野獣は大量の胃液や唾液を吐きながらも四肢を踏ん張り立ち上がっていた。必死に威嚇しながら少年を睨みすえている。闘争心は充分残っていそうだった。

 少年が身構えるのを見て、サクラは慌てた。


「だめよ! 殺しちゃだめ!!」


 その声に一瞬、少年の気が殺がれたかに見えたが、彼の動きは止まらなかった。

 瞬時に間合いを詰めた少年に対して野獣は腕を振り下ろそうとしたが、その緩慢な動きは少年を捕らえることができず、難なく懐に入り込んだ彼の右手から繰り出される打撃をまともに受けてしまった。

 森に響き渡る叫び声を発しながら、野獣は地へと倒れ伏した。

 少年は軽く右手を振ると、意識を確かめようとゆっくり野獣に近づいた。

 その上空を嬉々として旋回しながらユキナが少年を賞賛する。


「やったな、少年! おまえさん、かなりの使い手だね。どこの流派、くぁっ」

「ばかっっ!! 殺してないでしょうね!?」


 スコ――ンとユキナに小石を投げつけたサクラは、野獣に近づいていた少年を押しのけると、その禍々しい様相や血生臭い異臭をものともせず、完全にのびているのを見てとり、首筋や胸元を触って心肺機能を確かめた。


「心臓が止まってる! でもまだ間に合うかも」


 痛いじゃないかっ、と喚き散らしているユキナなど無視して、サクラは突然自分の胸元の合わせをはだけ、思わず仰け反った少年をよそに胸の谷間の辺りに掌をぐっと押しつけて意識を集中した。低く呟く。


「我が求めし力を与えよ」


 見開かれたサクラの紫紺の瞳に金色の光が生まれる。

 風もないのに後頭部で結わえた黒髪がふわりと舞い上がった。

 異様な空気をまとったサクラはゆっくりと胸元から手を離し、今度は野獣の胸に押し当てた。

 すると辺りの大気が大きく波打ち野獣を取り巻いた。野獣の鼓動の再起とともに力尽きていた生気が蘇ってくるのがわかる。死の色をまとわりつかせていた野獣の様子が明らかに変わったのだ。今にも動きだしそうに毛艶がよくなる。

 そっと掌を離すと、それまで人形のように能面だったサクラの表情にやわらかさが戻った。

 ほんの一瞬の出来事だった。傍らで少年が無言でサクラを凝視していた。


「ふう」


 胸元を整え大きく息をつくと、サクラは野獣に話しかけた。


「さ、うちに帰んなさい。ここはあんたの居場所じゃないでしょ? 元いた場所に帰るのよ」


 野獣はわずかに瞳を動かしサクラに視線を当てた。

 サクラの声に呼応するように、重い身体をどうにか立ち上がらせると、思いっきり身体を揺らして体毛についた砂を払い落とした。舞い散った砂埃にサクラとユキナは思わず顔をしかめて咳き込んだ。

 そんな中で少年だけがサクラに対し鋭い視線を注いだままだった。

 野獣には先ほどまでの獰猛なギラギラした気配が綺麗さっぱりなくなっている。この様子は家畜と同じである。身体は数倍でかいだけの穏やかな草食動物のようだった。


「何が起こったんだ……」


 少年の呟きに気づかないサクラに対し、ユキナは素知らぬふりで野獣の背に止まると大げさな溜息をついた。そして足元の野獣に向かって言う。


「ほらおまえ、早く行きな。もうすぐ怖い人間どもがくるよ」

「ユキナさん?」

「そろそろ見えてくる頃だ。守備隊の連中がやっとこさ動き出したようだよ」


 ユキナが翼で指した方向を睨み、サクラは苦々しく呟いた。


「ふーん、今頃来るなんて」


 “守備隊”の言葉に少年は我に帰った。すばやくサクラに近づくとその肩を掴んで有無を言わさぬ迫力で訊ねた。


「あんた、何者だ? 術者か?」

「え、何?」


 あまりにも子供らしからぬ迫力に困惑しているサクラに、少年は小さく舌打ちをしてその手を放した。


「じゃ名前は? おれはハヤト」

「あ、サクラだけど……」

「あたしはユキナだ。今度はそうお呼び」


 割って入ったユキナをひと睨みし、少年はすぐさま踵を返すと走り去ってしまった。


「聞きたいことがある。今度会ったら話してもらうからな」


 ぼそりとそんな言葉を残して。





「……ユキナさん、何なの、あの子?」

「さあね。武闘術士としては中々の腕前だったがね。はてさて何を知りたがっているのやら。それよりサクラ、あんた注意が足らないよ。人前で“力”を使うなんてさ。いやがってるわりに自分勝手に使いすぎなんじゃないのかい? こいつだって帰るところがあるかどうかわかりゃしないってのに」

「だって……」


 ユキナに言われたことは至極当然であったので、サクラは何も言い返せなかった。


「ともかく、こいつは何とかしないとね。守備隊に見つかったらたちまち殺されちまうからね」


 そんなこと言って、さっきまであの少年をけしかけて倒そうとしてたのはどこの誰よと、よっぽど口に出したかったサクラだったが、今の事態を切り抜けるにはユキナの協力なしでは無理なのはわかっていた。懸命にも黙っておくしかなかった。


「じゃあ、おまえさん。ちっと小さくなってもらおうかね」


 ユキナはふわりと浅黄色の大きな羽を広げると野獣を包み込むように傾けた。

 ユキナの身体から徐々に小さな光が出現し始め、くちばしから発せられる透き通る声が辺りを緩やかに漂う。蒼い光の乱舞と優しい旋律は、せつなく心に染み入るようだった。


(……ほんとに信じらんないわ。この優しげな空間も綺麗な歌声もユキナさんが生み出しているなんて。“法術士はまるで音楽を奏でるように自然を操る”っていうけど、そんな芸当をこの人がやってるなんて詐欺じゃないかと思ってしまうわ)


 サクラが複雑に思っているうちに急速に光が引き始め音が止んだ。

 気づくと、サクラの足元には一匹の小犬が嬉しそうに尾を振っていた。


「あは、かわいい」


 抱き上げてやると、しがみついてサクラの顔を舐めにきた。

 その様子を見ながらユキナは首を傾げた。


「サクラ、あんたどこまでこいつの記憶消したんだい? 治癒と一緒に記憶操作したんだろう?」

「え? うーん、ちゃんと“ヒヨク”に伝えたつもりなんだけど。体力の回復と、ここで人を襲った記憶を消してほしいって。何か不都合でもあった?」


 顔をしかめているユキナを見て、サクラは小犬を抱えなおしながら訊ねた。


「小さくなり過ぎなんだよ。野獣ってのはいきなり巨大になるわけじゃないんだ。元々大きな動物なんだから。こいつの生活圏に帰すためにここでの記憶を取り除いたんなら、退行したとしても獣らしく野性味を残してたっていいはずだ。それがここまで小さくなるとは。あたしはこいつの記憶をたどって子供時分くらいに小さくできればいいと思ったんだけどね。これじゃあ人間社会に生きてる犬と同じだ。それとも“ヒヨク”は生物の細胞組織まで変化させることができるんだろうか……」

「ユキナさん……?」


 最後はほとんど独白になったユキナにサクラは首を傾げた。言っている意味がよくわからなかったが、腕の中の小犬を見ながら、先ほどまでの鋭い牙と爪とを持った獰猛な姿を重ね合わそうとして到底無理な話だと思った。


(どういうことだろう? この子はもともと野獣じゃなかったってこと? そんな突然変異なんてありえるのかしら)

「ほらほら、お出でなすった! サクラ、面倒だからあたしたちもずらかるよ!」


 ユキナの声に我に返ったサクラは顔を上げて耳を澄ました。

 ガシャガシャと兵隊特有の金具のついた長靴を踏み鳴らす音がすぐそこまで近づいてきている。

 いよいよシンメルの森・守備隊の登場である。

 サクラは小犬をしっかり抱え走り出した。


「ほんと、職務怠慢だわ」





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