2.
逃げて来る人々は口々に「野獣が出た」「人が喰われた」と言っている。
“獣”と呼ばれる中で野獣は四つ足で歩行する生き物を指す。
姿は犬や猫を数倍大きくしたもので、爪や牙が鋭く凶暴な性質をもつ。肉食である彼らの標的になるのは森に住む小動物や草食動物だ。人間ではない。
なぜ人間ではないのか。
不思議なことだが、彼らは種族の判別ができるほど知能が高いらしい。人間とて同じ生物であるのに変わりないのだが、餌と見なす格下の存在ではなく、同じように狩猟で生きる生物として自分たちと同格であると認識しているらしいのだ。
これまで森の探索隊や守備隊が、野獣に接触したときの状況や彼らの生態を観察、研究した結果の結論だった。
しかし、まったく被害がなかったわけではない。
人間に対して仲間意識を持つわけでなく、まして尊重するだのという知性を備えているはずもないので、一触即発の場面に遭遇したり、突発的な事故に出くわすことは間々あった。
(でもそれは深い森での話よ。こんな人里近い場所に野獣が出るなんて滅多にないはず)
サクラは知らず知らずローブの上から剣の柄を握り締めた。
(それなのに、この国では野獣が人前に出すぎている。生活圏が違うからお互いがなわばりを荒らさない限り、そこから出てくることも他者を侵害することもないのに)
少なくともサクラが生まれ育った土地では“そう”だったのだ。
「おい! あんた!」
いきなり腕を掴まれてサクラは思わず身構えた。見ると旅装の男が額に脂汗を浮かべてこちらを凝視している。
「そっちへ行っちゃだめだ! 野獣が出たんだ。襲われるぞ!」
「野獣って、なぜこんなところに?」
「わからん。人通りの多いこの森は完全な人間の生活圏だってのに。近頃、森の様子がおかしくなってきてるのは確かだ。守備隊の連中の怠慢もあるだろうがな」
「怠慢って?」
男は鼻息も荒く忌々しげに答えた。
「自覚がないのさ。国からの援助金で運営されてる部隊だ。体面ばかり取り繕って肝心の森の見回りや通行人の安全に眼を配っちゃいない。いつも後手に回って被害がでかくなるばかりだ。今だってもうこの騒ぎだからな。すでに誰かが知らせに行ってるだろうに動く気配がないじゃないか。そんなの当てになんてできるわけがない。巻き添えにならんようにさっさと逃げるべきだぜ」
そう言って男はサクラを促した。
しかしサクラは男の手をやんわりどけて、「先に逃げてください。連れがいるんです」と言うと、軽く会釈してすぐさま駆け出した。
「あっ、おい! 待てよ!」
男は慌てて止めようとしたが、脱兎のごとく駆け出したサクラを追いかけることはしなかった。
(まったく。ほんとに心配するなら追いかけてきなさいよね。どさくさにまぎれて誘いをかけるんじゃないっての!)
サクラは呆れ半分、憤慨半分で男を罵った。
なんせ台詞とは裏腹にサクラを上から下まで眺め回していたし、腕も掴んだまま放そうとしなかったのだ。
(どっちが自覚ないんだか)
それにしても、とサクラは後ろを振り返り考えた。
(確かに村の守備隊が動いてそうにないわね。知らせが行ったら先に偵察に何人か出動させるものだけど。怪我人や森の被害状況の確認だってあるはずなのに一体何をやってるのかしら)
しかし今は守備隊のことなど考えている場合ではない。
だんだんとサクラの嗅覚に訴えてくるものがあった。
獣臭。そして、これは血臭だ。
「誰か襲われたのかしら!?」
サクラは合わせていたローブの留め金を胸元まで外し勢いよく跳ね上げると、あらわになった剣の柄をぐっと握り締めた。
走りながら剣を引き抜き身体の右側に沿わせる。
逃げ惑っていた通行人の中から小さな悲鳴があがった。
この国では一般人は帯剣を許されていないからである。国から許可された警備機関以外に所持しているのが見つかれば三年以上の禁固刑という、かなり重い懲罰が定められていた。だから一見して普通の若い娘が剣をちらつかせるなどありえないのだ。
サクラは周囲の反応など委細かまわず前方を睨みすえた。
関わりたくないなどと文句を言っている状況はとっくに過ぎ去っていた。
近づくにつれ血生臭い匂いとともに、地響きを感じさせる唸り声が聞こえてきた。
何かを威嚇しているような、興奮した様子を窺わせる。
(まさかユキナさん、無茶してないでしょうね)
力に任せて暴走しかねない連れに一抹の不安を覚えながら走る速度を速めたが、途端に急停止をかける。
前方に血だまりが見えたのだ。かなりの量である。
サクラは辺りに視線を走らせた。
道なき道の森だが、通行人が通る道筋は決まっているために土が踏み固められて自然と草木が生えにくくなっている。
それとは違う場所になると、思い思いに雑草も生え背の低い木々が密集する。
そういったところに眼をやると、人が二人倒れていた。
慎重に近づいて、その有り様に思わず絶句した。
一人はすでに絶命しており胴が脇から半分喰いちぎられていた。あのおびただしい血の量はこの人のものかもしれない。
もう一人は肩口に深い傷を負っていた。出血多量で気を失っているのかと思ったが、呼吸が深く眠っているように安定している。
ただし、これは術を施されて仮死状態になっているのだ。出血を止めて怪我の進行を抑えるためだろう。ユキナが行ったに違いない。
(でもあまり時間がないわ)
サクラは厳しい顔つきで立ち上がると、驚愕の表情のまま命を絶たれてしまった人に軽く眼を伏せ黙祷し、纏っていたローブを脱ぐとすっぽり覆うように被せた。
突如、獣の激しい咆哮が響いた。
すぐさま駆け出したサクラの前に、勢いよく地に叩きつけられた野獣の姿が飛び込んできた。
前方左側の茂みから野獣が吹き飛ばされてきたのだ。
「よっしゃあ―――っ!! もう一発見舞ってやれ! それで仕舞いだ!!」
なんとも場違いな威勢のよい掛け声が聞こえた。
続いて茂みから出てきたのは、梟もどきである。
「あの人ったら! 一体何やってんのよ!」
サクラはユキナに近づこうと野獣に注意を払いながら走り出すと、またもや茂みから今度は人影が出てきた。
先ほどのユキナの台詞からして彼女自身が野獣を吹き飛ばしたのではないとわかっていたが、並みの人間がたやすくできる行為でもない。
どんな屈強の人物だろうとサクラは感心と興味の眼で窺った。
ところが出てきた人物を見て我が眼を疑ってしまう。
「こ、子供!?」
それは、くすんだ緑色のローブを纏った小柄な少年だった。
野獣は這いつくばったまま、必死に身体を起こそうともがいている。
体臭がきつい。人を襲ったため血や内臓の臭いも混じって異臭と化しているのだ。
サクラはたまらず手の甲で口元を覆ったが、視線は野獣よりもその後に出てきた少年に釘づけになっていた。