衝撃の夜
この作品は、Web拍手お礼SSとして2018.05.26〜06.11に掲載後、こちらに再収載した作品です。
春が過ぎたと思ったら、あっという間に夏が到来した。
その酷暑に大学入学以来、何年経っても音を上げている俺は、待ち焦がれた夏休み突入すると同時に白旗を掲げ、北にある実家へと逃げ帰った。
「ただいま」
「お帰りなさい、太郎」
「なぁ~ご」
「にゃあ~ん」
春休みにしっかり親睦を深めていたお陰で、暫く離れていても俺の顔を覚えていてくれたらしい。二匹は揃って、母さんと一緒に出迎えてくれた。
「お、ミミ、ハナ。お前達、ちょっと見ない間に、随分でかくなりやがって。もう普通の猫と、それほど大きさが違わないんじゃないか?」
「猫は生まれてから、最初の一年の成長が速いみたいね。今が一番、やんちゃ盛りじゃない?」
「そんなものか。お前ら油断してると、すぐデブ猫になるぞ?」
そんな事を言いながら上がり込み、廊下を歩き出すと、スーツケースと一緒に持ち帰ったビニール袋に向かって、ミミとハナが顔を寄せながら鳴き声を上げる。
「みゃあ~」
「なぁ~ん」
「お、やっぱり分かるのか? 今回の土産はこれだ。美味い干物だぞ?」
早速の食い付きっぷりに顔を緩めていると、母さんが意外そうに言ってきた。
「あら、わざわざ買って来たの?」
「ああ。駅前のデパートで、物産展をやっていたから。『舌の肥えた猫が、かっさらう美味しさ』だと、売り場のおっさんが宣伝してたんだ」
「……それを真に受けて、買うってどうなの? 太郎ったら、将来騙されそうで不安だわ」
「何だよ。ちゃんと試食もしてきたんだぞ?」
深々と溜め息を吐かれて、ちょっとばかりムカついた。すると猫達が、まるで母さんに同調するように鳴く。
「なぁ~」
「にゃうっ!」
「やっぱり、ミミとハナもそう思うわよね?」
「にゅ~」
「みゃあぁ~」
「……女同士で結託しやがって」
偶々タイミングが合っただけで、さっきのは「早く魚を食わせろ」ってアピールだったんだからな!?
その後、焼いて食わせた干物は、二匹にはなかなか好評だったので、良しとしよう。
「太郎、こっちにいる間、ちゃんと食えよ? 普段はろくなものを食っとらんだろうし」
夕食時。一人暮らしを始めてから、似たような台詞を聞くのは何度目だろうかと思いながら、俺は淡々と答えた。
「ちゃんとバランスを考えて食ってるよ。大学の周囲には、食堂や弁当屋やコンビニが充実してるし」
「そういう事を、真顔で力説してくるところがね……」
母さんが嘆息する所までいつも通りの流れだったが、その後、予想外過ぎる展開になった。
「ところで太郎。お前に、言っておかなければならない事がある」
「は? 急に改まって何だよ?」
「俺は来年三月で引退して医院を閉めて、あそこを敷地ごと売却する」
いつになく真剣な表情で、いきなりそんな事を父さんに言われた俺は、思わず箸を取り落としかけた。
「はあぁぁ!? 引退って、何で? 父さんはまだ五十六だし、まだまだ働けるだろうが!? まさか、どこか身体が悪いのか!?」
「これまであくせく働いて十分金も貯めたから、余生は好きなだけスローライフだ」
「はぁ?」
一瞬、本気で父さんの身体を心配したが、変わらず真顔のまま言われた内容が咄嗟に理解できず、俺は本気で固まった。すると母さんが、笑顔で補足説明してくる。
「安心して、太郎。あなたの世話にはならないわ。これまで二人でしっかり貯めていたし、保有しているアパートや駐車場の立地は良いかから、今後も安定した賃貸収入が見込めるし。生活費の心配は無いから」
「医院を売った金で、田舎に土地と家を買って移住するからな。ついでに、この家と敷地も売り払うつもりだ」
「待て待て待て! 医院やここを売り払うって、冗談だよな!? 何だか具体的に話が進んでいるみたいで、洒落にならないんだが!?」
俺は動揺しながら、(冗談だと言ってくれ!)と密かに願ったが、生憎と両親は本気も本気だった……。
「具体的な話よ? もう医院で働いている人達には告知して、退職金の計算や、希望者には再就職の斡旋も始めているし」
「いやぁ、俺が結婚したのもお前が生まれたのも、人よりちょっと遅かったからな。さすがにお前が在学中や就職活動中に、親が無職だと格好が付かないと思って、今まで我慢して働いていたがもう良いよな? お前、来春には卒業だし」
「お気遣いいただいたみたいでどうも……。だけど自主的早期退職はともかく、何でいきなりスローライフなんて言い出したんだ?」
マジだ、この二人……。
そう悟って唖然とするのと同時に、解消していない疑問について重ねて問いかけると、父さんから予想の斜め上の答えが返ってきた。
「この家はそれなりに敷地があって、庭付きだが街中だ」
「それがどうした。父さんが『駅から歩いて五分以上かかる所になんか住みたくない』とゴネて、新婚時代に母さんと大喧嘩した事はお祖母さんから聞いてるぞ。その結果、ここに住む事になったんじゃないか」
「門の前の道路は狭めだが、幹線道路への抜け道になるから、朝夕に結構交通量がある」
「だから、何が言いたいんだ?」
「ミミとハナが、車に轢かれるかもしれないだろうが」
「……あ?」
これまで以上に大真面目に断言された俺は首を傾げ、好き勝手に遊んでいる二匹に、無意識に視線を向けた。すると母さんが、困ったように言い出す。
「あのね? 最近、ミミ達が好奇心旺盛で、困っているの。最初は庭の中だけで遊んでいたんだけど、時々外に逃げ出しちゃって。この前自転車に轢かれそうになって、慌てて避けた子供が倒れて、怪我をしちゃったのよ。その時、ちょっとした騒ぎになったの」
そこまで聞いた俺は、滅多にしない事だが、本気で両親を叱りつけた。
「他人様に迷惑かけんな! それにその子供にきちんと謝罪して、治療費も負担したんだろうな!?」
「勿論よ」
「そもそも猫を、外に出すなよ!」
「だけどミミ達が、『外に出たい』ってみゃぁ~みゃぁ~鳴いているから、お父さんが業者さんに頼んで、壁に猫用の出入り口を作っちゃって……」
そこで困り顔で母さんが父さんに視線を向けた為、俺は何とか怒りを抑えながら父さんに言い聞かせた。
「……父さん。さっさとその出入り口を塞げ」
「何て非人道的な事を言うんだ、お前は?」
「俺の台詞が非人道的なら、父さんの台詞は非常識極まりないだろうが!! すると何か? 猫が家の外をほっつき歩いても危険が無いように、田舎に引っ越すって言うのか?」
「そう言っている。何か文句でもあるのか? 俺が働いて得た金だ。俺の好きに使って何が悪い?」
「……へいへい、もう勝手にしろ」
堂々と胸を張って主張する父さんに、俺はこれ以上言う気が失せた。そしてふと見ると、母さんがダイニングキッチンからいなくなっている。リビングを確認したら、さっさと夕飯を食べ終え、猫達と遊んでいたらしい。
飼い主なら、猫の行動に責任持てよ!? この天然夫婦が!!
呆れ果てた人生計画を聞かされた後、俺は二階の自室に引き上げ、偶には夜風に当たりたいと二箇所の窓を網戸にして、ベッドに寝ころびながら溜め息を吐いた。
「全く……。俺の父親ながら、相変わらずぶっ飛んだ親父だな。猫の為に早期リタイアして移住って……。六十や七十過ぎても真面目に働いている人が聞いたら、タコ殴りされるぞ」
無意識に口にしていると、忌々しさが増幅してくる。
大体、ここも売り払うとなると、もう休みになってもここに戻ってはこれないという事で……。生まれてこの方、大学進学の為に引っ越しした他は、別な場所で過ごした事のない俺は、もうその事実だけで感傷的になってしまった。
駄目だ、やっぱりあの馬鹿親父に、きつく言ってやらないと。
そう決意して上半身を起こした俺の耳に、窓の外から猫の声が微かに聞こえてきた。
「……みゃあぁ~」
「え? 今の声、どこから聞こえてきた? 廊下の方じゃなくて、窓から聞こえてきたような……」
だが聞き間違いで無ければ、聞こえてきたのは西側の窓からだった。南側の窓にはベランダがあるが、西側の窓の外にそれは無い。外は既に暗くなっており、西日を避けるように植えられた木の枝しか見えず、俺は首を傾げた。
そのまま西側の窓に歩み寄ると、先程よりもはっきりと声が聞こえる。
「にゃっ、にゅあっ」
「やっぱりこっちから、だよなぁ……。窓の下にいるのか? それにしては、妙にはっきり聞こえる気がするんだが……」
ぶつぶつと独り言を口にしながら、俺は網戸を開けて下を覗き込もうとしたが、ここで予期せぬ異音と衝撃が襲った。
「にぎゃあぁぁ~っ!」
「う、うわぁああっ! なっ、何だ、って、ハナ!?」
何かが網戸越しに俺にぶつかってきたと思った次の瞬間、盛大に音を立てて網戸が破れ、気が付くとその破壊者であるハナが、網戸の縁を前脚で掴んで外にぶら下がっていた。
「ぎゃあぁっ! なーっ!」
「ちょ、ちょっと待て、ハナ! 落ち着け! 今助けるから!」
まさか猫が飛び込んでくるとは思わず、すっかり狼狽した俺は、網戸の破れた所からハナを持ち上げれば済むものを、殆ど何も考えず、勢い良く網戸を開けた。
「にぎゃあぁぁ~っ!」
結果、閉めてあった窓の縁にハナは右前足を盛大にぶつけ、ぶつかった衝撃とハナの重みでフレームが歪んでいたのか、網戸諸共地面に落ちて行った。
「うわ! すまん、ハナ!! 大丈夫か!?」
慌てて窓から身を乗り出し、地面を見下ろしていると、母さんがドアを開けて部屋に入ってきた。
「太郎、さっきから何を騒いでいるの? 五月蠅いわよ?」
「母さん、ハナが地面に落ちた!」
「はぁ!? 落ちたって、どうして?」
「とにかく下!」
「え、ええ」
慌てて二人で玄関に行き、靴を履いて家の外壁を回り込む。すると俺の部屋の窓の下に、猫が二匹佇んでいた。
「ハナ! 大丈夫か!?」
「なぅ~ん」
さすが猫。あの高さから落ちても、ちゃんと着地したらしい。ちゃんと立っているハナを見て、母さんも酷い怪我をしていない事が分かり、安堵の表情になる。
「取り敢えず、大丈夫みたいね」
「腐っても、猫は猫って事だな」
「なんて言い草よ。反省しなさい」
軽口を叩いていると、母さんに睨まれた。その向こうで、何やら二匹が顔を寄せ、鳴き合っている。
「にゃっ、みゃぁ~う」
「なぁ~、ぐるぁ~」
「二人で、何を話しているのかしら」
「さあ……、明日の朝飯の話とか? とにかく、中に入ろう。ミミ! ハナ! 夜だからお前達もさっさと中に入れよ?」
すっかり安心してそう声をかけたが、何故かミミがすたすたと俺に歩み寄り、俺の左足の靴を前脚でペシペシ叩きながら声を上げた。
「にゃっ! にゃうっ! きしゃ~っ!」
「……何か、怒ってる?」
「怒られているわね。太郎が」
「何でだよ!?」
「太郎のせいで、ハナが落ちたと思っているんじゃない?」
何て理不尽な言い草だと、俺は本気で腹を立てた。
「冗談じゃない、濡れ衣だ! 網戸に突っ込んで来たのは、ハナなんだぞ!? 見事に網戸も壊れたし!」
「そもそもどうして、網戸にしていたのよ。エアコンを付けて窓を閉めておけば、ぶつかると痛いと分かっているハナは、突っ込んで来ないのに」
「向こうじゃエアコン無しだと夏は蒸し暑いから、偶には夜風に当たろうと思ったんだよ! こっちは涼しいし、今夜はエアコンを付ける程でもない……。ちょっと待て、母さん。ハナは以前、窓にぶち当たった事があるのか?」
あまりにもサラッと言われてうっかり聞き流しかけたが、明らかに前科一犯以上はあるって事だよな?
その俺の推測を、母さんが肯定した。
「ええ、ハナの最近のマイブームは木登りなの。その時に私達の寝室に、窓から飛び込もうとしてね。幸い向こう側にはベランダがあるから、まずそこの手すりに飛び移って窓に飛び込もうとしたから、頭をぶつけてベランダに落ちただけで済んだけど」
それを聞いた俺は、額を抑えながら呻いた。
「馬鹿だ……。やっぱり獣だ……」
「あら、それからは、窓が閉まっている時は飛び込まなくなったわよ?」
「当たり前だろ!」
「だから網戸だと大丈夫だと思って、つい飛び込んじゃったのよ」
「……もういい」
駄目だ。話にならん。
うんざりしながら家の中に戻り、奥に進むと、風呂上がりらしい父さんと遭遇した。
「上がったぞ。ちょっと騒がしかったが、何かあったのか?」
「ハナが、二階から落ちたのよ」
「夜はあまり、出歩かない方が良いんだがな。お茶を淹れてくれ」
「分かりました」
そんな平常運転の両親を見て、俺は心底うんざりし、父さんの背中に声をかけた。
「父さん、移住の話だけど」
「何だ? お前、まだグダグダ言う気か?」
「もう、父さんの好きなようにしろ。ミミとハナを、好きなだけ木登りさせて、走り回らせておけ」
色々諦め、色々達観した。
猫達が住む所はここじゃない。そういう事だ。
「当然だ。新居が決まったら教えるからな」
もうこの家は、猫を中心に回っている。
そう実感した、ある夏の夜の出来事だった。