恋人ごっこ
世の中の男の九割が釘付けになるであろう女性の胸が、目の前であらわになっていた。本当に久しぶりに見る艶かしい、女性特有の柔く美しい肌。初対面からもうユミは絡みつくような色気をまとっていた。そういうタイプと付き合ったことがあるので分かるのだが、きっとユミも異性経験が豊富なのだ。抱いたらきっと彼女の肉体の虜になる。去年の自分だったら後先考えずユミの誘いに乗っただろう。しかし、今のマサは自分でも驚くほど冷静で、ユミのあられもない姿を目の前にして欲情できなかった。ただの一ミリさえも。
「慰めてくれようとした? 気持ちだけもらっとくよ。ごめん」
マサは、迫ってくる彼女の肩を右手で軽く押しやった。アオイとは別の甘い香りがしたが好きな匂いではない。女の匂いならなんでもいいわけではないと気付き安堵する。それと同時に気持ちはじょじょに落ち着いていった。
「嘘なんだね。イクトと付き合ってるっての」
「付き合ってるけど。何でそんなこと言うの?」
胸にビキニを着直しながら、ユミはそれまでと変わらない調子でマサに向き合う。マサは注意深くユミを観察した。
「男ならともかく、付き合ってる相手いるのに他の男とヤりたがる女の子ってそんなにいないでしょ。イクトに彼女のフリでも頼まれた?」
「まあ普通の子はそうかもしれないけど私はちょっとズレてるからねー。女にだってそういう欲はあるし浮気する子はするよー。私とかね。結婚してるわけじゃないし自由じゃん。そもそも私達普通の彼氏彼女じゃないし」
「どういう意味?」
「ザックリ言うと同盟?」
「同盟? やっぱりイクトとは付き合ってるわけじゃないんだ」
「付き合ってるよー。ただ、マサ君やアオイちゃんとは違う心持ちのカップルってだけ」
ユミは鼻で笑い、答えを曖昧にする。その返答にマサは納得できなかった。どうにかして明確な答えが知りたい。もしユミとイクトがただの友達なら、イクトはまだリオのことを引きずっている可能性が高い。そうなれば、イクトとの関係を修復するのはもっと後になるかもしれない。それなら、今は互いに距離を置いて時間が過ぎるのを待つしかない。これ以上無理に関わっていたら今回みたいに傷つけ合う結果にしかならない。
アオイに過去を知られてしまった今、マサも自分のことで精一杯だった。イクトに償いたい気持ちはあるが、今後もイクトから同じような攻撃を何度も受けるのはきつい。アオイを好きになったことでこちらの心構えも変わったのだ。
手がかりはユミが持っている。とはいえ、これ以上彼女に尋ねてもはぐらかれそうだ。それにユミはイクトとの付き合いがきついとは言ったが、彼を嫌いにはなっていない。好きだからこそ現実逃避でマサを誘ったとも取れる。どう問いかけたらもっと情報を引き出せるのだろうか。
マサが思案しているところへ、ユミはそっけなく言った。
「それよりさー、イクトとアオイちゃん二人きりにしといて大丈夫? 私が出てくる時、二人かなりいい雰囲気だったけど」
「そうなの?」
嫌な予感が的中した。初めてアオイを紹介した時、イクトは明らかに驚いていた。ユミがいるのでまさかとは思ったが、今思えばあの時イクトの目はたしかに輝いていた。好みの異性を見つけた男の表情と言ってもいい。
もしかして、イクトの目的は……!
マサの中に、最も最悪な憶測が浮かんだ。
独り身の俺に恥をかかせるためじゃない。イクトがこの海イベントに俺を誘った目的は、俺の彼女つまり好きな人を奪うこと。そのためのリサーチの場を設けたにすぎない……!
ユミがダミーなら合点がいく。ユミがアオイとイクトを二人きりにさせてこちらへ来たのも、イクトの目標達成に必要なこと。
「同盟ってそういうことね……」
低い声でつぶやき、マサは来た道を駆け出した。イクトがアオイに変なことをしていないか、途端に心配になった。元親友として疑いたくはないが、あれだけ自分を恨んでいるイクトならアオイに何をしてもおかしくない。唯一安心できる点があるとしたら、アオイが旦那一筋なことか。
でも、やっぱり嫌だ。アオイが他の男と仲良くなるなんて!
旦那は別だ。どうあがいてもアオイから旦那の存在は切り離せない。それなら、旦那の次に彼女のそばにいるのは自分がいい。
ユミがマサにイクトとの同盟関係をほのめかしたのは、マサに同情してのことだった。いつまでも過去のことで友達に攻撃され続けるマサが不憫だったし、かつての自分を見ているようでいたたまれなかったのだ。ユミも似たようなことで同性の友達から逆恨みされたことがある。ユミは何もしていないのだが、その魅力ゆえ無自覚に友達の彼氏を誘惑していたらしい。それが原因で何人かの女友達を失い、噂を聞きつけた一部の女子達から軽い嫌がらせを受けた。
そういった事情から女の友達は極力作らないでおこうと思っていたが、大学でイクトと知り合うと彼を通して性別問わず多くの友達ができた。イクトに寄ってくるのは明るく優しい学生ばかりで、ユミの容姿をやっかむ女もいなかった。そうして再び同性の友達と過ごす楽しみを体験できた。イクトのおかげだとユミは思った。
はじめはイクトに恋愛感情などなかったが、大学で顔を合わるうちにだんだん好きになっていった。告白するかどうか迷っていたある日、イクトがかつての親友マサを恨んでいると打ち明けてきた。先輩宅で行われたサークルでの飲み会でのことだった。先輩達のノリに合わせていたら未成年だということも忘れてけっこうな量の酒を飲んでしまった。そのうち他のメンバーが眠ってしまい、起きているのはユミとイクトだけになる。酔っていたイクトは、ただ一人起きていたユミにポソリポツリと語った。
「同じことしてアイツを傷つけてやりたい。まあ、無理って分かってるけどな。マサとは大学も離れたし」
「無理じゃないでしょ。仲直りしたがってるフリしてその人の彼女に探り入れればいいじゃん。で、奪っちゃえば? いればの話だけど。力貸すよ」
「いい案だな。でもユミには関係ないだろ。一人で何とかする」
「ううん。恩返しさせてよ。今学校楽しいのイクトのおかげだし」
そこから二人は協力し合い、今に至る。最後までイクトの計画に付き合いマサをボロボロに傷つけるつもりだったが、ここへ来てユミの気持ちは激しく揺れ、結局イクトの計画をダメにした。
「イクト、ごめんね。やっぱり私には無理だった。人を傷つけると自分が傷つけられたこと思い出してきついんだよ……」
マサに体の関係を迫ったのは、半ばヤケになってのことだった。アオイに関心を持っているイクトに気付いてしまったから。そういう計画だったのは知っている。イクトはマサからアオイを奪うつもりだ。それだけならまだよかったのに、あれは本気で恋に落ちた言動だった。それが、ユミにとっては耐えられなかったのである。
海では彼女のフリをしイクトと共謀して恋人っぽく振る舞ったが、キスはおろかそれ以上のことは何もしていない。イクトもこちらの好意に全く気付いていない。あくまでユミの片想いだ。それだけでもつらいのに、イクトがアオイと仲良くなろうと積極的に動くところを見ていたら、アオイにも同じ思いをさせてやりたいと思ってしまった。自分がマサに抱かれればアオイは傷つく。しかしマサに拒否され目が覚めた。かつて自分に嫌がらせをしてきた女子達と同じことを、アオイにもしてしまうところだった。
よかった。マサ君が拒否ってくれて……。
道を踏み外さなかったことに、安堵と虚しさを覚える。ユミはしばらく岩場の陰で座り込んだままでいた。
ユミが出て行ってから三十分以上が経った。彼女に頼まれた品はとっくに届き、アオイとイクトは彼女を待ちつつも食事を終えようとしていた。
「遅くない? やっぱり見に行った方がいいよ」
アオイはさっきから何度目かになる言葉をイクトにかけた。そのたびイクトの答えも決まっていた。
「大丈夫だよ。今行ったら逆に入れ違いになりそうだしここで待とう」
そう言われてしまうとアオイは何も言えなくなった。早く三人で昼食をすませてマサを探しに行きたい。それが素直な気持ちだった。正直まだマサに対して思うところはある。けれど、このままギクシャクしてしまうのは避けたい。食事を摂ることで動揺も少しずつ落ち着いてきた。
私はマサの友達で、バイト先の店長なんだよ。こんなことでマサを避けるなんてダメだ。ちゃんと向き合わないと……!
本当は怖い気持ちもある。マサが遊び人だったなんて知りたくなかった。全く軽蔑しなかったと言えば嘘になる。けれど、今自分が知っているマサを元に判断したいとも思う。
だってマサは、私が玲奈にしたことを受け入れてくれた。あんな人めったにいない。それに、本人が自覚しているよりずっと優しい人だ……。
人に話したら責められそうな過去を、マサは普通に聞いてくれた。それは、彼がアオイにたいして興味がなかったからだとも受け取れるが、それでもその時アオイの気持ちは救われたように感じた。もちろんそれで全てが許されるとは思わないが、それでも、ありのままを受け入れられる心地よさに触れ、自分に自信が持てた。もし今マサが困っているなら、今度は自分が助けてあげたい。
アオイはイクトに言った。
「マサが戻ってきたら、ちゃんと話聞いてみるよ」
「無理してない? 大丈夫?」
「大丈夫だよ。マサの考えを、彼の口からちゃんと聞きたい」
もう、アオイに迷いはなかった。そんなアオイを見てイクトは困ったように笑い、まいったと言いたげに手のひらを自分の額に当てた。
「そっかー。なんか、マサがアオイちゃんに本気になるの分かる気がする。ううん。マサだけじゃなく他の男も放っておかないでしょ。アオイちゃんっていいよね」
「褒めすぎだよ。だって私は……」
だって私はマサの友達だから。そう言おうとして言葉を飲み込む。今はマサと恋人同士の演技中だった。関心したようにイクトからまじまじと見つめられ何となく居心地が悪い。アオイはイクトから視線を外した。
「ユミちゃん遅いね。やっぱり様子見てくる。せっかくのイカ焼きも冷めそうだし」
適当を言って席を立とうとすると、イクトに腕をつかまれその場に留まらざるをえなくなった。やけに熱いイクトの手のひらにギクリとする。彼女持ちの男に構われるこの状況に不自然さを感じた。
「イクト君も一緒に探す? だよね。彼氏だし」
「まあそうだけど、もうちょっと話そうよ。せっかく二人になったんだしさ。マサのことで聞きたいことあったら何でも教えるよ?」
「気持ちだけもらっとくよ」
愛想笑いで、アオイはイクトに掴まれた手をそっと外した。
「マサのことは本人から教えてもらいたいから。気にしてくれてありがとね」
「そっか」
「ユミちゃん、心配だね。しつこいナンパに捕まってなきゃいいけど」
今度こそ席を離れようとしたアオイの手を、イクトはまたもや掴んだ。まさか二度もそうされるとは思っておらず、アオイは警戒心を強く抱いた。掴まれた手をそのままに、じっとイクトを見つめる。
「何のつもり?」
「アオイちゃん、俺のこと嫌い?」
「好きとか嫌いとかないよ。マサの友達という印象だけで……。手、離してくれる? ユミちゃんに見られたくない」
「いいよ別に。見られても」
「なっ……!?」
イクトの思惑が分からず面食らう。イクトは言おうかどうかと迷う視線を見せ、もったいぶった間の後、こう打ち明けた。
「俺達ホントは付き合ってないよ。ユミとはただの友達」
「え? でも、今日はダブルデートだって聞いてたんだけど……。どうしてそんな嘘を?」
イクトに掴まれたままの腕に、わずかに力が入る。アオイは軽く身を引いたがびくともしなかった。
「マサを安心させたかったから。俺に新しい彼女できたって知れば、お互い気兼ねなく楽しめるかと思って。とか言いながら結局自分でぶち壊してるんだからカップルのフリも無意味になったわけだけど。だからもうホントのこと言っていいかなーって。降参」
「そうだったんだ……」
これでようやく合点がいった。イクトの好みはアオイだとつぶやいたユミのことが。アオイは複雑な心境になる。
イクト君はこう言ってるけど、ユミちゃんはイクト君のこと好きだよね。
ユミはどんな思いでイクトの芝居に付き合ったのだろうか。想像すると胸が苦しくなる。
「でも、こうしてアオイちゃんにホントのこと言ったってユミには黙っててほしいんだ。お願い。アイツは最後まで付き合ってくれるつもりだからさ」
「分かったよ……」
イクトの話は本当なのだろうか? マサへの複雑な友情は理解できなくもないが、何かが引っかかる。どう切り返したら彼から本音を引き出せるのだろう。閉口するアオイに、イクトは再び意味ありげな視線を注いだ。
「アオイちゃんさ、さっき日焼け止め塗り直したいって言ってなかった? 俺がやったげよっか。もうユミに遠慮することないし」
「それはそうかもしれないけど……」
拒否反応が先立つ。マサに頼む時は平気だったのに、イクトには触れられたくないと思ってしまう。自意識過剰だろうか。断ったら失礼になるのか。イクトはマサの親友だった人だ。波風を立てずにこの場を回避したい。うまく断る方法を思案していると、聞き慣れた声が二人の間に割り込み、同時にアオイの腕からイクトの手が離れた。
「人の彼女に触らないでくれる?」
「マサ……!」
この時を待っていたのかもしれない。アオイはすがるようにマサを見つめた。走って戻ってきたのかマサの息は乱れていて、その表情にはどこか必死さが伺える。そして、今アオイの腕を掴むのはマサの手だった。イクトの手から救い出してくれたマサの手はとても頼もしくて力強いものに思えた。
「意外と早かったなー。おかえり〜」
何でもない調子で陽気に振る舞うイクトに、マサは念を押した。
「俺に恨みがあるのはよく分かった。これからどんなことされても受け止めるよ。でも、二度とアオイに触らないで」
マサの瞳に深刻な怒りが映っている。それを見てアオイは全身が激しく脈打つのを感じた。マサの発言は一バイトとして店長を大切に思う言動ではなく、明らかに異性を想う心意気だった。
「マサ、私は大丈夫だから」
「アオイが良くても俺は嫌だ」
マサにまっすぐな視線を向けられ、アオイは身動きできなくなった。呼吸まで止まってしまいそう。もう反対意見なんて出てこなかった。
「イクト、ここから俺達は別行動させてもらう。ユミちゃんのこと早く迎えに行きなよ。じゃあね」
マサはアオイの手を引き店を出ると、ビニールシートに置いておいた自分達の荷物を抱えてどんどん遠くへ移動した。イクト達と共有していたビニールシートからだいぶ離れた砂浜へ着いた頃、アオイはようやくマサを引き止めることができた。
「マサ、そこ空いてるよ。一度座ろ。それともさっきとは別の場所でご飯食べる? マサ何も食べてないでしょ?」
息つく間もなく言葉を連ねてしまうのは、胸の高鳴りにやましさとときめきが混ざっていたから。アオイは、今自分を突き動かす大きな感情を見ないようにした。
マサはアオイの言葉で我に返り、抱えていたアオイの荷物を彼女に返した。
「ごめん。今後の予定勝手に決めて」
「ううん。これでよかったと思う」
せっかく仲良くなれそうだったユミともう会えないのは残念だが、それ以上にアオイはマサと楽しい時間が過ごせれば何でもいいと思った。
「さ。引き続き楽しも! マサはまずご飯だよね。何食べたい? 焼きそばとかもおいしそうだよね〜」
明るく仕切り直すアオイに、マサは気まずげに尋ねた。
「さっきのこと、気にしてないの?」
「何だっけ?」
アオイはわざととぼけた。
「俺の過去のこと。店長も、チャラいバイト雇ったの嫌かなって。なんならクビにしてもいいよ」
平然とした口調とは違い、マサの表情は悲しげに曇っている。バイトをクビになってもいいだなんて本心のわけがない。アオイはそう判断した。
「何言うかと思ったら、意外とネガティブな子だなーマサは」
おちゃらけたように、アオイはマサの頬を両手で挟んで彼の顔をじっと見つめた。頬から伝わるアオイの体温に、マサの頬は瞬時に紅潮した。
「子供扱いやめてよっ。こっちは真面目に話してるのに!」
「こっちだって真面目だよー。そんなことでクビにしてたら労働基準法とかに引っかかるんですー。それに過去は過去って考え方なんでー。理解してくれましたー?」
わざと敬語を使って茶目っ気を見せるアオイにマサの心は大きく揺さぶらる。やはりこの人が好きだと強く思った。気を遣ってくれているのだと分かる。それでも、アオイの様子を見てマサはようやく心から笑うことができた。
「何それ。店長って店長ぽくないけどやっぱり店長なんだね。頼もしい」
「今さら知ったのー? なーんて。頼もしいのはマサの方だよ」
アオイはマサの頬からそっと手を離し、優しく彼を見つめた。
「イクト君の元から連れ出してくれてありがとう」
「当たり前でしょ。俺達一応カップルって設定なんだから。まあ、こんな男と付き合ってるフリなんてアオイは嫌だろうけど」
アオイの本音が聞きたくて、マサはつい話を掘り起こしてしまった。流してもらえたのだからそのままにしておけばいいのに、なぜか自分にとって不利な状況に己を追いやってしまう。過去を知ったアオイがどう感じたのか、やはり気になるのだ。
アオイは困ったように小さな笑い声を立て、その場にストンと腰を下ろした。その時水着のフレアスカートから彼女の白い太ももがのぞく。見ないようにし、マサは彼女の隣に腰を下ろしあぐらをかいた。
「怒らないで聞いてね。本当のこと言うと驚いたし、やっぱりショックだった」
「だよね」
マサは頭を鈍器で殴られたような心地になった。アオイは女性だ。遊び人の男にいい気持ちはしないだろう。分かっていても心が痛む。
「でもさ、それは私がマサのことを好きだからだよね。だから逆に知れてよかったんだよ。どうでもいい人のことなら何とも思わないし。それだけマサと仲良くなれてる証拠なんだって、明るく考えることにした」
「強いね、アオイって。そんな風に言ってくれる女子初めて」
「強くはないよ。私も、マサも、人は皆きっと弱さを持ってる。だから、秘密にしたい過去がない人なんてこの世にはいないんじゃないかな」
それはそうかもしれない。たった十八年の人生にもそれなりに隠したい出来事がしまってあるのだから、大人になるにつれそれは増えたり膨らんだりするのだろう。アオイの言葉で、マサは深い安心感を覚えた。
「叩いて埃が出ない人なんていないってことか」
「うん」
「ありがと。言いにくいこと話してくれて」
「私こそ聞いてくれてありがとう。今ね、マサとますます仲良くなれた気がする。嬉しいな」
友達としての笑顔だ。分かっていても、隣に座るアオイがこちらへ向ける微笑みに特別な意味があったらいいのにと、マサは願った。
俺も、アオイと仲良くなれて嬉しい。
喜びと同時に切なさが増すものの、この時はまだそこまでこの恋を悲観的には感じなかった。それは、アオイから男の気配を感じなかったからだ。既婚者なので、こうしている間に旦那からのラインなり電話なりがきても不思議ではないのだがアオイにはそれがなかった。彼女が結婚しているという事実を頭だけで理解している状態で、正直実感が伴わない。それがある意味救いだった。
それからマサの食事をすませ、二人はシュノーケリングや遊泳を楽しんだ。あっという間に時間は過ぎて、夕焼けが砂浜を照らす頃、二人は帰り仕度を始めた。
「なんか早かったね、時間が過ぎるの。もっと遊んでたかったなぁ」
「海は無理でも、また今度アオイが行きたいとこに行こうよ。いつでも付き合うし」
「私も遊びたいけど、でも……」
アオイは苦笑いでためらいを見せた。今日はダブルデートという名目があったし二人きりではなかったので付き合ったが、結婚しているのに男友達と二人きりで堂々と遊びに行くなんてだらしがないのではないか。そう言いたげなのが、マサにも分かった。
「冗談だよ。言ってみただけ。俺ら秘密の友達だもんね」
「ごめんね。私から友達になりたいって言ったのに……」
「いいよ別に。ま、またこういう機会があったらってことで」
平気なふりで言葉を交わしたが、マサの内心は穏やかではなかった。こうしてアオイといられる時間はもうすぐ終わってしまう。どうにかして一緒の時間を延長したいが、家に帰りたがる人妻を引き止める方法なんて知らなかった。
荷物を整理しながら砂浜を後にしようとしていると、アオイは切羽詰まった様子でマサを見つめた。
「ごめんマサ。先に帰っててくれる?」
残りわずかな時間だが帰りのドライブは楽しもう。そう思っていたマサはショックを受けた。何とかしてアオイと一緒に帰りたい。
「どうしたの。帰りどうするつもり?」
「電車とかタクシー使って帰るよ。今日はありがとね」
「この辺駅ないらしいよ。イベントシーズンだし、タクシーも捕まるかどうか……」
駅なら徒歩十分の位置にあるし、スマホで調べればタクシー会社だってすぐに見つかるだろう。何とかアオイに考え直してほしくて嘘をついたのだが、マサの思うようにはならなかった。アオイは頑なにマサを先に帰らせたがった。
「でも……」
「?」
「指輪失くしたの」
「それって、来る時はめてた結婚指輪?」
アオイはうなずき、悲しげにうつむく。
「見つけるまでは帰れない。だからマサは先に帰ってて? お願い」
アオイの声音は深刻だった。そこには旦那を大切に思う気持ちが込められている。アオイへの想いに浮かれがちだったマサに現実を突きつける瞬間だった。
アオイにとって、旦那とお揃いの指輪はそれほど大切なものだったんだ……。
一日中楽しくて、彼氏のフリなどもして、彼女のフリまでしてもらって、すっかり忘れていた。アオイには心に決めた男がいるということを。カップルのフリをするため一時的に指輪を外したのは友情ゆえ。マサへの愛情では決してない。
分かってたよ。そんなこと……!
マサの胸中は優しい色から醜い藍色へ目まぐるしく変化していくのだった。