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秘め恋  作者: 蒼崎 恵生
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言葉とは裏腹に



 約束の海水浴場は近隣住民にも人気があるらしく、どこを見ても人の姿でごった返していた。マサ達のように遠くからやってくる者も多く駐車場はほぼ埋まっていた。朝早く出てきた甲斐もあり何とか駐車場を確保できたものの砂浜からは遠のいたので、泳ぐ場所までけっこうな距離を歩かなければならない。マサとアオイはどちらかともなく車内から降りた。外に出た瞬間熱気に当てられ、クーラー慣れしたサラサラの肌は濡れたように汗ばむ。


「すごい人! 潮の匂いもする。海に来たーって感じだね。マサの友達はもう来てるかな?」


「うん。ちょっと前に着いたって」


 ラインを確認しマサはそう答えた。この人混みを予想していたのはイクトも同じだった。イクトと顔を合わせるのはやはり緊張するものの、アオイがついているおかげでマサは平静を保てていた。ビニールシートやアオイの持ち込んだ菓子類を手に、イクト達が確保した場所へ向かう。


 子供の喚き声。大人のはしゃぎ声。潮の香りが広がる熱い砂浜を、人並みを避けて歩く。マサはアオイをかばいつつ彼女の前を歩いた。


 この人目を離したら人波に流されてっちゃいそうだし。何となくだけど。


 首筋にとめどなく汗が流れるのを感じつつ二人はしばらく砂浜を歩いた。そのまま五分ほど行くと、とうもろこしやたこ焼きを売っている売店のそばにビニールシートを広げている最中のイクトを見つけた。周囲には、イクトと同じように居場所を確保する家族連れや若者の集団が多く見られる。マサが軽く手を振りあげた時、イクトもマサに気付き手を振り返した。


「今日はありがとな。来てくれて」


 好青年の口調でイクトは言い、マサとマサの隣に立つアオイを交互に見た。イクトはアオイを見ると驚いたかのように目をしばたかせた。それを見てマサは嫌な予感がした。その感覚を振り払うべくアオイのことを紹介する。


「この人は俺のバイト先の店長で、アオイ」


 店長だけど友達なんだ。マサがそう付け足そうとした時、その先の言葉をかっさらうように、アオイが口早に自己紹介を始めた。


「はじめまして。今日はお誘いいただきありがとうございます。マサと付き合ってます。今日はよろしくお願いしますね」


 営業スマイル百パーセントで何のためらいもなく、アオイは嘘を言ってのけた。友達にならついさっきなったばかりだがいつ彼女と付き合う話になったのかマサには謎だった。勢いよくアオイの腕を引っ張りイクトから距離を取ると、彼に聞こえないよう小声で彼女の耳元にツッコミを入れる。


「何言ってるの!? 結婚してるクセに!」


「へへっ。なかなかの演技力だと思わない?」


 イタズラが成功した子供のようにアオイはにへらと笑った。


「何を得意げにっ! 旦那にバレたらまずいでしょこれ」


「バレないよ」


 アオイは少し寂しげに目を伏せた後、それをかき消すようににんまり笑った。至近距離でそんな顔をされ、マサはうっかり突っ込む意欲をなくし、そのうえ見惚れた。


「旦那にバレなくてもイクトにはバレるよ。アオイ指輪してたし……。え?」


 彼女の左手薬指には、先ほどまでたしかにあった指輪がなかった。車を降りここへ歩いてくる途中で外したらしい。彼女はしたり顔で手のひらに閉じ込めたそれをマサの目にだけ入るようチラリと見せた。


「いつの間に!」


「こんなこともあるかなって」


「どうしてそこまでして……」


「マサのこと守りたかったから」


 まっすぐな、それでいて穏やかなアオイの瞳は、優しい海原のようにいでいる。マサは吸い込まれそうになった。


 そっか。さっき俺があんな話をしたから、心配してこの人は……。


 イクトが海に誘ってきたのは独り身の自分に恥をかかせるため。マサのそんな思いを受け入れ、アオイは彼女のフリをしてくれたと。そこまで頼むつもりはなかったし、人妻にそこまでさせるなんて抵抗があった。


 バイト先の店長兼友達としてここに居てくれたらそれで充分だったのに。余計なお世話。おせっかい。自分の立場が危うくなるとか、旦那にこのこと知られたらとか、考えなかったわけ? そう言おうとしたのに、まるで言葉が出てこなかった。正直嬉しかった。イクトの形なき攻撃から守ろうとしてくれたことが。


 とはいえ素直にありがとうと感謝するのも抵抗があり、マサは黙った。アオイを見つめる。そこには小顔で綺麗な目をした女がいる。普通こういうシーンで守られるべきなのは女のアオイだろう。男女平等をうたう現代に生きていても、こういう時はやはり男の自分が守る側にいたいと思ってしまう。ありがとうすらうまく言えないのは情けなさからだった。


 ありがとうって、そんなに難しい言葉だったっけ?


 間近で見つめ合う二人に、イクトの声が飛んだ。


「おーい。人のこと放置で二人の空気作り上げるのやめてくれるー? これ膨らませるの手伝って」


 イクトの手には萎んだビニールボートや浮き輪、彼の足元にはそれらを使えるようにさせる空気入れが置いてある。いったん気を取り直してマサが手伝おうとすると、アオイもそれに続いた。しかしイクトがそれを止めた。


「用意は俺達に任せて! アオイちゃんはユミと着替えてきなよ。おーい、ユミ! ちょっと来て!」


 ユミと呼ばれたのはイクトの彼女と思われる女性だった。ユミはイクトの声が届く範囲にいた。近くの自販機まで飲み物を買いに行っていたらしい。


「ユミ。マサが来た。その子はマサの彼女のアオイちゃん」


「そうなんだー。マサ君とアオイちゃん、今日はよろしくー」


 缶ジュースを片手に戻ってきたユミは美人で近寄り難いイメージだったが、雰囲気とは裏腹にとても愛想がよかった。


「私はユミ。イクトとは同じ大学なの。マサ君ともタメだよ。今日は楽しもうね〜。あ、更衣室あっちだって。アオイちゃん、行こ」


「うん、ありがとう。マサ、行ってくるね」


 大人びたユミと並ぶとアオイの声や容姿の幼さが際立つと、マサは思った。


 あれがイクトの今の彼女か。リオちゃんとはずいぶんかけ離れたタイプだけど、ああいう子がタイプだったっけ? 女の好みってそんな簡単に変わるもん?


 イクトへの警戒心も手伝って、ついつい分析してしまう。リオを含め、イクトは今まで可愛い系と付き合うことが多かった。それで言うとユミは正反対のタイプだ。恋をしたら好みなど関係なくなるのだろうか。やはり恋をしたことのないマサには分からなかった。そんな自分が少しだけ切なく感じる。


 アオイとユミが着替えに行ってしまったので、マサはイクトと二人きりになった。何となく気まずい。黙々とビニールボートに空気を入れ平然を装っていると、


「やっぱお前、ああいう系が好きなんだな」


 イクトがニヤニヤしながら言った。そこにはもうリオへのこだわりを感じない。もしまだ未練があるならそんな顔はできないだろう。そう思うと、マサは少しだけ安心した。


「それはこっちのセリフ。ユミちゃん、今までの彼女とだいぶ違うし」


「クールで近寄りづらそうに見えるだろ? でも、ああ見えて優しいし料理上手だし気配りもできるしでいい女なんだよ。他の男に愛想振りまかないとこなんてもう最高!」


「そうなんだ」


「リオは誰彼かまわずニコニコしてただろー? 自分に気のある男相手にもさ。今だから言えるけど、それがけっこう不満だったんだよなー。俺、嫉妬深いから」


 マサには初耳だった。リオと交際中、誰とでも仲良くできる明るいリオが好きだとイクトは言っていたからだ。それこそノロケのように。彼の嫉妬深さならもう嫌ほど痛感しているので、そのことには今さら驚かないけれど。


「イクト、そんなこと思ってたんだ」


「まあな。モテる女と付き合うのは楽しいのと同じくらい苦しいもんだな」


 イクトは意味深な視線をマサに向けた。


「マサも今そうだろ? アオイちゃんモテそうだし、彼氏としては大変だよな」


「え、いや。別に、そんなことないけど」


 味気ない答えになる。それもそうだ。実際はアオイと付き合ってなどいないのだから。むしろ彼女は結婚している。それに、アオイがいてもいなくても、イクトの言うような独占欲や嫉妬心も感じたことは今まで一度もない。それが恋をしたことがある人間とそうでない人間の差だとマサは思った。そんなこと知るよしもないイクトはいやらしく目を細め、マサの言葉を強がりだと決めつけた。


「まあ分かるよ。認めたくない気持ちは。でも、アオイちゃんのことちゃんと繋ぎとめておかないとフラフラっと他の男の元に行っちゃうぜー? モテる女は選択肢も多いんだから」


「……アオイはそんな女じゃない」


 マサは反射的にそう言っていた。


 イクトの態度はいたって丸いが、言葉の節々にリオの件へのこだわりが見える。イクトにその気がないのだとしても、マサにはそう感じられて仕方なかった。イクトと再び仲良くできるのならどんな恨み言を言われても聞き流すつもりだった。それでイクトの気がすむならその方がいい。それ以外に償い方を知らないというのもある。しかし、アオイのことを引き合いに出されるのは想定外だった。アオイとは恋人のフリをしているだけに過ぎないのでイクトの忠告は無意味だ。それでも、彼女を軽い女扱いされたことがマサのしゃくさわった。


 たしかにアオイはモテそうだ。しかし軽い女ではない。彼女のプライベートなどそこまで詳しく知らないが、男との外出に結婚指輪をはめて足を運ぶほど彼女が旦那に惚れ込んでいるということだけは知っている。


「一途で思いやりがあってバイト達にも公平で。アオイはいいやつだ。そういうこと言うのやめてくれる?」


「な、おい。そこまで怒ることかよ……!?」


 イクトは面食らっている。それもそのはず。これまでのマサは、ここまであからさまに怒りを表すタイプではなかった。マサの変化に戸惑いつつ、イクトは謝った。


「悪かったよ。ごめん。アオイちゃんを悪く言うつもりはなかった」


「ああ、うん。こっちもなんかごめん。変なスイッチ入った。今の忘れて」


「変なスイッチ、か。本気なんだな、アオイちゃんに」


「さあね」


 イクトの言葉を右から左に流すよう、マサは意識した。まともに受け止めていたら大変なことになる。


 本気もなにもないでしょ。海要員になるため駆けつけてくれた既婚者相手にさ。


 アオイが善意で残していった嘘が、この時ひしひしとマサの心に絡みついていくようだった。付き合っているフリをすることで一時的に守られたマサのプライドは、かすかな不安に色を変えていく。その不安の中身を見ないよう、マサはさりげなく話題を変えたのだった。



 ユミの案内で更衣室にやってきたアオイは、うっとりと羨望のまなざしでユミを見ていた。雰囲気からして色っぽいユミは、親友の真琴まことと似通うものがある。艶のある髪は腰までの長さがあり、ユミが身につけている薄手の服が体のラインをくっきり映し出してとても色っぽい。水着に着替える前から分かっていたが、肌の露出面が増えてなおさら思う。ユミの豊満な体は主張が強かった。ここへ来る途中の砂浜で何人かの男性に声をかけられたのもユミの影響だった。


 ユミちゃん、美人でスタイルもいいなぁ。年下の子なのにかっこいい! モデルさんみたい!


 先日アオイがショップ店員に選んでもらったのはフレアタイプのトップスとスカートがついている水着で、気になる部分を隠しつつ可愛く見えるデザインに仕上がっている。サイズも体に合っていたし何より可愛い。しかし、体のラインを隠さないユミのビキニ姿を見てしまうと、アオイは自分の胸が貧相に思えガッカリしてしまうのだった。女として色々ダメな気がしてしまう。


「アオイちゃんの水着可愛いね〜。私もフレアトップスにしたかったけど結局これ」


「いいんじゃないかな。ユミちゃんモデルさんみたいですごくかっこいいよ。スタイル良くて羨ましいなぁ」


「んー。この胸のせいで体目当ての男ばっか寄ってくるから逆に損してるよー。変に隠すとかえって強調されるから今は開き直って見せる方向で行ってるけど」


「体目当てなんてひどいね! でも、その感覚分かるかも」


 アオイは自分の過去とユミの話に共通点を見つけた。


「私も、付き合った後イメージと違うって言われてすぐ振られてきたし」


「最悪じゃん! アオイちゃん可愛いし勝手な幻想抱かれるのも分かるけど、こっちからしたら『は?』だよね」


 ユミもユミでアオイに親近感を持ったらしく、着替えをすませて更衣室を出る頃、二人はすっかり打ち解けていた。砂浜に戻りつつ、二人は互いの今の彼氏の話で盛り上がる。


「でも、マサ君とはうまくいってるんでしょ?」


「うん。そうだね。マサは優しいし頼もしいよ」


 ユミと仲良くなった分、嘘への罪悪感が大きくなるのを感じつつアオイはそう答えた。本心だった。マサは初対面の頃からツンとした表情をしていてつかみどころがなかったし仲良くなった今でも意地悪なところがあるが、自然な笑顔で接客をしたり雑用をなんなくこなす器用さがある。それに、今日改めて分かったことだが彼は優しい。車に乗る前も乗ってからも、女性に対する振る舞い方が完璧だった。ひとしも優しくマメなタイプではあるが仁は生涯のパートナーだ。言い方は悪いが結婚相手に優しくするのは当たり前。そうではなく、恋愛の絡まない男性が優しいことにアオイは少なからず戸惑い、正直な話ドキドキしてしまった。そんな気持ちになるのは仁に片想いしていた頃以来である。


 男の子ってこんなに優しかったっけ?


 仁以外の男性が優しいのだということを、この日までアオイは知らなかった。カフェの男性客はたいてい紳士的なものの下品な言葉でからかってくる者もたまにいるし、過去に思いを寄せてきた元カレ達も優しさを見せるのは付き合いたての頃だけで、アオイの性格を知ると悪びれなく雑な接し方になった。


 マサの優しさは、昔告白してきた男性達が初期に見せた態度に通ずるものがある。


 うぬぼれかもしれないけど、もしかしてマサに異性として見られてる? だったら、こっちが友情って思っててもマサとは友達になれないよね……。


 しかし、それはやはり考えすぎだったようで、マサはアオイとの間接キスに平然としていた。間接キスはドジから出たうっかり行動でもちろん他意はなかったが、それが取っ掛かりでアオイは彼に友達になりたいと言い出せたのである。海に向かう道中、車の中でマサは幾度となく寂しそうな目をしていた。あの瞳の色は、かつてアオイ自身が抱えていたものにひどく似ていた。家族のいない無機質な家の中、一人膝を抱えて両親の顔を見られる時を待っていた。


 マサは今でもイクト君とのことで悩んでる。だったら助けたい。私に何ができるのか分からないけど。


 その気持ちを再確認すると同時に、アオイはユミに言った。


「マサは今まで出会ったどの人とも違う。芯があってブレなくて。私のダメなところを見ても引かずにいてくれたんだ。だから私もマサのこと支えたい」


「本当に好きなんだね、マサ君のこと。どっちから告白したの?」


「それは内緒!」


 とっさにごまかす。そこまで設定を考えていなかった。付き合うことにしたはいいものの、細かい部分にまでは頭が回らない。


「ユミちゃんとイクト君はどっちから告白したの?」


「内緒!」


 二人は目を合わせると同時に吹き出した。


 しばらく何でもない話で和んだ後、ふいにユミが意味深な声音でこんなことをつぶやいた。


「でも、アオイちゃんってイクトの好みっぽーい。童顔で髪が短くて可愛い系」


「えー? それはないんじゃないかな」


「そうかなぁ」


「そうだよ。ユミちゃんの彼氏なんだから!」


「だよね。ごめん、変なこと言って」


 にこりと笑って話を終えたユミに一応笑い返したが、どうしてそんなことを言うのだろうとアオイは疑問が湧いた。仲が良さそうに見えたがユミとイクトはあまりうまくいっていないのだろうか。ユミのその一言は、アオイの中で妙なざらつきを残した。



 やたら大きいビニールボートの空気入れを終えたマサとイクトの元へ、アオイとユミが戻ってきた。二人ともそれぞれに似合う水着に変身している。男にとって女性の水着姿はただそれだけで目の保養になる。普段着とは別のまばゆい魅力があった。


「可愛いじゃん二人とも! ユミもアオイちゃんもいいね〜」


 イクトが鼻の下を伸ばして二人の水着姿を褒めている横で、マサはアオイに目が釘付けになった。視線の問題だけで言えば肌の露出が多いユミのビキニ姿の方が男としては喜ばしいのだろう。けれど、マサの目にはアオイの姿しか映らなかった。アオイの身につけている淡いピンク色をしたシフォンフレアのトップスは彼女の肌の白さを艶やかに見せ、ぼかしフラワープリントのフレアスカートから伸びる足は健やかな色気をまとっている。ピンクは魔性の色になりうるとマサは思った。女性をさらに美しく見せる効果がある。アオイに視線を奪われたのは他の男も同じで、海水浴に来た通りすがりの男達がしきりにアオイの方を見ては卑猥ひわいな目つきでにやけている。マサとイクトがそばにいるのでさすがにナンパはしてこないが、もしアオイとユミの二人きりだったら間違いなく声をかけられていただろう。


 見るなよ!


 マサは着てきた服を脱ぐと、あらかじめ下に着て来ていた海パン一枚の姿になった。周囲の視線からアオイを隠すように、脱いだばかりの薄手の上着を彼女の肩に羽織らせる。触る気はなかったのに、不意にマサの指先がアオイの肌をかする。


「ごめん。かすった」


「ううん。それはいいけど、でも、これいいの? 着てたら砂で汚れるかもしれないよ」


 アオイは肩にかけられた上着が汚れる心配をしたが、マサにとってはそんなことどうでもよかった。少しでも彼女の肌を他の男の目から隠せるのなら。友達の分際でそんな思いを告げていいわけがないので、適当に理由を付け足す。


「汚してもいいよ。洗えばすむし、帰りは車に積んである服適当に着てくから。それUV効果ある布使ってるらしいし、日焼け予防にもなってちょうどいいんじゃない?」


「ありがとう! 嬉しい!」


 クロスさせた両手の指先で肩にかかる上着の裾をちょこんと掴む、アオイの仕草と満面の笑みがたまらない。マサはまたもや胸の高鳴りを感じた。純粋な気持ちの一方、視覚的にはまずいことになっている。細い腕のちょうど真上に胸の谷間がしっかり見えた。バイト中にはあまり意識していなかったが、思っていたよりアオイの胸は大きい。どこからどう見ても豊満な胸の持ち主であるユミに比べればアオイのそれは小さいのかもしれないが、そのサイズ感がちょうどよかったし可愛いと思えた。


「実は日焼けに弱いんだ、私……。高校の頃、背中の皮とかベリベリにめくれて」


「マジか! 海なんて来てる場合じゃないでしょそれ!」


 無理させてしまった申し訳なさと、アオイのボディラインに女を感じてしまった後ろめたさで、マサは過剰反応してしまった。しかし当のアオイは太陽光をさして気にしておらず、むしろ嬉しそうに目を輝かせていた。


「ふっふっふっ。大丈夫。これがあれば!」


 ビニールシートに置いた自分のカバンを探るなりまるで通信販売のテレビで商品を紹介する人間のような身振りで、アオイは茶色い錠剤を取り出した。サプリメントなのだろうか。持参したお茶でそれを二粒飲む。


「何その怪しげな物は」


「飲む日焼け止めだよ。あとはコレ!」


 アオイがマサの眼前に突き出したのは、マサもよく知る一般的な日焼け止めである。ドラッグストアやコスメショップでおなじみのよくあるクリーム状の物だ。


「アオイちゃん、用意いいねー。私も塗ろーっと。イクト、背中にコレ塗って?」


 マサとアオイのやり取りに気付いたユミは、自らも日焼け止めを取り出し肌に塗りはじめた。手の届かない背中はイクトに手伝ってもらっている。


「量、こんなもんでいいか?」


「もっと! それじゃ足りない。二時間後くらいにまた塗り直してね」


「分かった分かった」


 イクトとユミのやり取りはとても自然だった。イクトは彼女の背中に日焼け止めクリームを塗る。海デートに臨むカップルによくあるワンシーンであると同時に彼氏の特権でもある。今のマサにとって、イクトとユミの光景がとても羨ましいものに感じた。


 って、何が羨ましいんだよ。高校の時、俺だってやったことあるし。たいして面白い作業でもないし。面倒な上に手がベタベタして気持ち悪いだけだし。


 たわいない話をしながらユミの背中に日焼け止めを塗っているイクトを見つつその行為のデメリットを心の中で言い連ねてみても、言葉にならない羨望の感情は消えることなくマサを包んだ。行きの車中で感じた意味の分からない不安が再びマサの胸を染めていく。


 アオイもやっぱり背中は塗りにくいかな?


 アオイの方を確認した。アオイはマサに借りた上着をいったん脱いで、二の腕や鎖骨辺りに丹念な手つきで日焼け止めクリームを塗っている。アオイにそんな気はないのだろうが、その姿がとても艶かしくて色欲をあおる。マサは自分に舌打ちしたくなった。


 バカか。どんだけ欲求不満なんだよ。


 人知れず自分にツッコミを入れてみても、視線はアオイの姿を求めてしまう。彼女の指先が柔らかそうな肌を滑るたび、この手で触った時の感触を想像し、マサの体は熱を帯びた。砂浜を照らす灼熱の太陽ですらその熱は消せない。アオイを映すマサの目の奥に、体感したことのない感情が溢れてきた。性的なものに限りなく近いのにそれとは違う何か……。


 ぼんやりアオイを見つめていると、彼女はおずおずと上目遣いでマサを見た。


「マサ、お願いがあるんだけど……」


 アオイは言いにくそうに視線を左右させ、最後は助けを求めるようにユミを見つめた。ユミはイクトに日焼け止めを塗ってもらっている最中だ。さっきは背中だったのに、今はビニールシートにうつぶせの体勢で太ももの裏にまで塗ってもらっている。マサにとってはなかなかに扇情的で、アオイに同じことをしている自分を想像してしまうのに充分なシーンだった。とはいえ、実際そうするかどうかは別である。アオイの頼み事を読み取り、マサは真っ先に断り文句を口にした。


「もしかして、それ塗ってほしいとか? はっきり言って下手だよ俺」


「そんなことないよ。マサは器用だもん。だからお願い! 背中と太ももだけでいいからっ」


 「だけ」って! かなり際どい部分なんですけど!?


 思わず口に出してツッコミを入れてしまいそうになった。寸前で何とか言いとどまったが、アオイの申し出にマサの心臓はいよいよ激しく鼓動しはじめ、その動揺はそう簡単には収まりそうになかった。


「せっかく来たし、日焼けを気にせず楽しみたいんだ」


 日焼け止めの容器を両手でガッチリ掴んで祈るように懇願してくるアオイを前に、マサの意思はあっさり崩壊した。


「そんなこと言われたら断れないよ。誘ったのこっちだし……」


「ありがとう!! マサはいつでも頼りになるね。大好きだよ」


 弾けるような笑顔。明るい声。大好きという言葉。アオイの放つ様々な柔らかいものに当てられ、マサの心は完全に持っていかれてしまった。寸前のところで踏みとどまっていたのに無駄だったと言わんばかりに。


 そもそも、俺は本当に初対面の頃からこの人を心底嫌ってたわけ?


 苦手意識はあった。だけどそれは言い換えれば意識しすぎているのと同じこと。何の情報もない、出会ったばかりで真っ白なイメージしかないアオイにリオを重ねて、似ているから苦手だと思った。反面、とても好みのタイプで魅力的だとも感じた。しかし相手は結婚しているので、口説いたところで無駄打ちに終わる。強引にリオの影を重ねて毛嫌いすることで、アオイに一目惚れしてしまった自分を打ち消そうとしていたにすぎない。苦手だと思えば良い部分など見えなくなるし、何より深入りせずにすむ。しかし、そうはならなかった。深入りしないよう心に壁を作っても、アオイの魅力はいつしかマサの心に浸透していった。


 好きにならない努力なんて、するだけ無駄だったんだ。だって、この人は最初から魅力的過ぎなんだから……。


 笑った顔も、無邪気な話し声も、仕事中の真面目な顔も、全て記憶に刻まれている。まじまじ見ないようにしていたのに、無意識のうちにアオイに関する記憶が増えていった。


 認めたくないけど、認めるしかない。


 マサはアオイへの感情をようやく自覚し、受け止めた。だが、序盤に比べたら少し素直になった程度で、その認識はまだまだ浅く緩い。だからこそまだ気持ちに余裕があった。


 ま、好きって気付いたところで片想い確定だし、どうせすぐ忘れるでしょ。この先どうにかなるわけでもないし。


 いったん認めてしまったおかげで、妙に気持ちが落ち着く。大好きというアオイの言葉に対し、難なく笑って答えることができた。


「そういうこと、友達には言わないでしょ」


「友達にも言うよ。ホント助かる。ありがとね。やりづらいと思うけど、背中は水着の下にも塗ってくれるかな? 指挟んでくれていいから」


「了解」


 アオイに手渡された日焼け止めクリームを適量出し、


 大丈夫。前にやった通りにやればすぐ終わる。そう。余計なことは考えず平常心で。


 脈打つ指先がかすかに震えるのを感じつつ、彼女の背中にそっと指を滑らせた。


「…………!」


 思考力と共に、マサは言葉を失った。クリームのせいなのか、驚くほどなめらかな感触が指先に伝わる。想像以上に柔らかい手触りだった。吸い付くようにしっとりしている。アオイの肌に触れた瞬間、体に男特有の熱と高揚がこもりはじめ、マサはとっさに手を離した。アオイの背中に揺れた指先の熱を通して彼女にこちらの気持ちが見透かされてしまう気がした。










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