満足と不満足
イクトによって強引に取り決められた海イベント。マサは車を運転し、バイト先のカフェの駐車場までアオイを迎えに行った。待ち合わせの時間や場所は勤務時間中に決めた。アオイのラインやメールアドレスなど知らなかったし、訊こうと思えばできたが、そこまで聞き出すほどの仲ではないのでためらった。アオイは履歴書を持っているのでマサの連絡先を知っているに違いないがそういった話をしてこなかったあたり、向こうもまだ完全に打ち解けたつもりではないのだと思う。
アオイの経営するカフェはマサの自宅アパートから近くアオイの自宅からもすぐの距離だと言うので、自然と待ち合わせ場所にいいという話になった。こういうことでもなければ、店長の自宅がどこにあるのかなんてマサは知らなかっただろう。
到着するとマサはいったん適当な枠に停車させて車から降り、待っているアオイの元まで小走りした。
「おはようございます。今日は仕事と関係ないことに付き合わせてホントすいません」
一応相手は店長だ。同行してもらえるのはありがたいが同じくらい申し訳なさも感じる。普段客にそうしているようにマサが軽く頭を下げると、アオイは爽やかに笑って首を横に振った。
「ううん。こちらこそ誘ってくれてありがとう。頼ってもらえてとても嬉しい。色々あると思うけど、なるべくフォローできるように頑張るね」
「助かります。心強いです。じゃあ、行きましょうか。荷物持ちますね」
アオイが返事をする前に、マサは彼女の手荷物をスマートに持ち上げ車の後部席に置いた。面倒事に付き合ってもらうのだからこれくらいは当然。無意識のうちに出た女性との交際歴による産物も、アオイにとっては少々戸惑うものがあった。
「あっ、ありがとう。でも、気遣わなくていいよ。そのくらい自分でやるから」
「別に気なんて遣ってません。普通ですよ」
「そ、そうなんだ、ありがとう」
「お礼を言いたいのはこっちですよ。店長のおかげで、今日だいぶマシな気分なんで」
いつも通り、感情の見えない平坦な口調に反しマサの表情は柔らかかった。それを見てアオイは、やっぱりこの子はモテるタイプだと確信した。一方でマサは、リードされ慣れていないアオイを見て初々しさを感じた。
この人やっぱり恋愛経験なさそー。年上なのに。いや、年上だから変に気ばっか遣うとか? 職業病?
それは、以前と違い優しい評価だった。アオイに対しリオを重ねていた頃だったら「いい人ぶって何が狙いだ」と曲解していただろう。
「どうぞ。中古ですけど中は綺麗にしてるんで。気になるとこあったら言ってくださいね」
マサが外から助手席の扉を開けアオイに視線を送ると、予想通りと言うべきか、アオイは真っ赤な顔で呆けていた。それはまるで初めて恋人の車に乗る少女のように初心な反応だった。その瞬間、マサの中に見知らぬ感情が芽生えた。本気の悪意からではなく、アオイに意地悪したいような、困らせたいような。
気になる女の子をからかって泣かせる男子児童の心理ってもしかしてこういうの? いやいや、それはないでしょ。そんな子供時代俺にはなかったし。もう十八だし。店長も大人だし。
思い直そうとしてみたものの、生まれたばかりの感情は理性をいとも簡単に超えてしまうのだった。一バイトとしての立場を瞬間的に忘れ、マサはアオイをからかった。
「店長、顔真っ赤ですよ。何か変な想像とかしちゃってます?」
「そっ、そんなのしてない! してないからね!?」
必死に言い返すアオイの姿が面白くて、マサは思わず吹き出した。
「あっ、信じてないでしょー!?」
「いえ。なんか店長が面白くって。つい」
「あー、馬鹿にしてるでしょ!」
「馬鹿になんてしてませんよ。ホント」
「もお!」
悔しさなのか気恥ずかしさなのかアオイの頬がみるみる紅潮していくことにある種の満足感を覚えたところで、マサは運転席に乗り込み車を発進させた。この日までに軽く近所を運転して車の操作には慣れておいたつもりだが、やはり長距離を走るのはこの日が初めてなので多少は緊張する。もちろん運転は楽しみなことでもあるのだが。
「暑くないですか?」
「大丈夫。ちょうどいいよ」
「寒くなったら言って下さいね」
「分かったよ。ありがとう」
自宅を出た時からエアコンをつけていたので、車内には冷えた空気が満ちている。初の長距離運転に対する高揚感や緊張感であれこれアオイに話しかけてみたものの、マサはどうにも落ち着かない気持ちを持てあました。というのも、よく考えたら女性と二人きりのドライブなど初めてで、それゆえの胸の高鳴りに今さらながら気付いてしまったからである。運転し始めてからずっと、甘い匂いが鼻をかすめている。アオイの放つ香りだとすぐに分かった。
女の人が車に乗るとこんなに甘い香りがするの!? 聞いてないって!
香水のような主張の強い匂いではない。ボディークリームやシャンプーの類だろうか。たしかに元カノ達も近付くといい匂いがしたが、あの時は高校生だったので車に二人きりという状況に置かれたことはない。それに、アオイに対して好感度が上がりつつあるものの女性として見ているつもりはなかった。それなのに、うっかりすると恋の対象にしてしまいたくなるような匂い。不覚にもドキッとしてしまう。
よく考えたら、近頃めっきり女性関係は枯渇している。リオとのゴタゴタがあって以降、そもそもそういう気分になれなかった。大学での新生活や人生初の一人暮らしで余裕がなかったことに加え、イクトからの攻撃や彼との仲直り。そうでなくてもそれまでに遊び尽くしたので、リオの件でのトラウマも重なり性欲なんて根こそぎ無くなってしまったのだと考えていた。自分がそこまでデリケートな神経を持っているとは思わなかったが、そんな欲求ないならない方がいいので、自分の変化をあっさり受け入れた。これで余計なトラブルを産まずにすむ。そう思うと安心すらした。
そう思ってたのに、何で今!? 相手は店長だよ!?
隣に座るアオイに気付かれないよう、体の反応を鎮めようとマサは気合い(?)を入れた。だが、そんな努力はないにも等しい。はっきり言うと無意味だった。
「目的地まで一時間以上かかりますけど、コンビニ寄りたくなったら言って下さいね」
あれこれ言葉を振ることで、こちらの異変をアオイに悟られないようにした。
「マサは本当に優しいんだね。そこまで気にしてくれるなんて。ありがとう。あ、お茶持ってきたんだけど飲む? あとお菓子とかも」
「え、いいんですか? ありがとうございます。喉渇いてたんですよ」
店長こそなんて優しいのだろうとマサは思った。ただのバイトと店長。成り行きで行くだけの海水浴。
なのにこんな状態になってるって知られたら、いくら店長でもドン引きだよな。頼むからもういい匂いさせないで!
男特有のピンチなど知るよしもないアオイは持ち前の面倒見のよさをフル活用し、持参したペットボトルのお茶やコーヒー、ドライブ中でも汚さず食べられるチョコ菓子などを自分のカバンから取り出そうとした。彼女の荷物は後部席にある。
「じゃあ、一度シートベルト外すね」
言うなりアオイは素早くシートベルトを外し、両膝を座席に載せる形で後部席に手を伸ばした。ちょうど信号待ちに差し掛かったので、
「やけに重いと思ったら飲み物だったんですね」
マサは正面の風景から視線を外し、一時的に隣のアオイを確認した。だが、確認などやめておけばよかったと後悔した。体勢的にも視界的にもまずいことになっている。後部席の荷物を漁っているアオイの胸が助手席のシートに押し潰される形になり、それは彼女の動きでゆらゆらと丸い重みを変形させた。マサは再び心の中で悶絶する。
店長、なんかエロいよ。ホントカンベンして。これじゃ俺ただの変態だし!
途切れることのない彼女の匂いとあいまって、枯渇したはずの性的な感覚を呼び覚ます。マサの頬は本人の意思とは関係なく赤くなっていった。もちろん男なら当然のことなのだろう。しかし認めたくなかった。なぜなら、その欲は高校生の頃には知らなかった別の感情まで引き連れてきたからだ。
こんな色気皆無な人を可愛いと思うなんて、やっぱりどうかしてる。
マサにとって、女性のことを心の底から可愛いと感じたのはこの瞬間が初めてだった。もちろん、今まで付き合った女だって全員可愛いかった。そもそもタイプでなければ手など出さない。それなのに、そういった体験済みの感情とはどうも違う。初めてさらされた自分の心に、マサは恐怖と不安を覚えた。
「よし、取れた。はい。どうぞ」
アオイは元どおり座席に戻りシートベルトをかけると、マサにペットボトルのお茶を手渡した。その時、ふと彼女の左手の薬指に指輪が見えた。
結婚指輪……。だよな。この人結婚してるんだった。
あれだけ激しかった身体的反応はサッと収まり、マサはやけに落ち着いた気持ちでアオイから飲み物を受け取った。運転中でも飲みやすいよう、あらかじめ蓋が緩めてある。受け取ったお茶をドリンクホルダーに差し込み、マサは苦笑した。
「ありがとうございます。さすが既婚者。気遣いが行き届いてますね」
「そんなことないよ、普通普通!」
「ですかね。でも、こんなことする女の人初めて」
「それが普通だよ。私が特殊っていうか。職業柄?」
「あー、なんか分かります。接客業してると自然と他人に気を回しますよね。俺も、友達んち行った時とか無意識に友達の食べ物まで取り分けたりしちゃってて。バイト中か! ってツッコミ受けまくってますよ」
「そうなんだ。分かるかも。でも、バイト関係なく元々そんな感じに見えるよマサって」
会話が弾む。始めは自分の気持ちから逃げるための話題作りだったのに、自然と楽しい時間になっていた。相手がバイト先の店長だからなのだと思った。
大人だから気を遣ってくれてるんだろうな。旦那いるからある程度男心も分かってるんだろうし。
アオイが既婚者なのだと強く意識することで、マサは自分の中に湧いた疑問を忘れようとした。
どうして指輪をしてるんだろう。仕事中はしてないのに。
分かっている。カフェでの仕事中に指輪をしていたら不衛生だし邪魔にもなる。最悪失くしてしまうかもしれない。しかし今日は違う。アオイにとってプライベートな一日。自由に結婚指輪をつけても許される時間だ。マサのために時間を割いてくれたとはいえ、彼女の持ち物は彼女の意思で身につけていいはずだ。少し考えたら分かることなのに、マサは分かりたくなかった。こうして話しているとアオイが人のものだなんて思えない。楽しくて、何より心地よくて。胸の中に明るいものが満ちていく。もしかしたら、これを一般的には恋と呼ぶのかもしれない。
いや、ありえないって。欲求不満なだけだろこれ。最近ヤッてなかったし。そこにたまたま店長がいただけ。俺ってそういうヤツだろ。一時の気の迷い、みたいな?
人を好きになるなんて無縁の人生だった。これからもそれでいい。だいたい、本気で恋なんかしたらイクトのようになってしまう。幸せな時はいいかもしれないが不幸になると人格まで破綻する。それを思い知っていたので、マサは自分の理性を総動員し、生まれて初めて心に広がった柔らかい感情を力一杯ひねりつぶした。
好きになったって報われないしね。
なんとか、じょじょに冷静さを取り戻したが、感情に蓋をするのは一種の副作用も起こる。全身が苦味に満ちるのだ。信号待ちのたびにアオイが手渡してくる一口サイズのチョコレートが、甘く口の中で溶ける。それで正体不明の苦味をごまかした。
「なんか不思議だよ。バイトの子と二人でこうしてるの」
「他の人とは遊びに行ったりしないんですか?」
「新しい子が入って来たら歓迎会も兼ねてご飯に行ったりもするけど」
「俺の時にもやってもらったやつですね」
「それくらいかな。バイトの子は皆学生だから遊ぶ予定があるし、パートの人にはご家族との予定があるしで、誘いづらいっていうのが一番かな」
「それもそうですよね。じゃあ俺ってなんかイレギュラーなことしちゃいましたね。普通バイト先の店長をこんなことに誘うなんて、よく考えたらありえないし」
マサは自嘲の笑みを浮かべる。アオイも似たような顔をした。
「立場上仕事中に頼ってもらえるのは当然のことで、だから、そこを離れたら私は皆にとって勤め先の店長でしかないわけで。だから本当に嬉しかったよ。プライベートでマサに頼ってもらえたこと。マサに彼女がいないことには驚きだったけどね」
「そうですかね。そんな相手最近ずっといませんよ。全然」
無意識のうちに「全然」を強調していた。
「大学で出会いとかないの?」
「ないですよ。同じサークルの女の子は皆彼氏いるか恋愛興味なくて趣味に走ってる子ばっかだし、学校では男とばっか行動してます」
「そうなんだ。それはそれで楽しそうだね」
「まあ、そうですね。友達の存在って大きいです。イクトとあんなことがあって思い知りました」
「イクト君って、この後海で会う親友の子だよね。マサ大丈夫? 仲直りしたとはいえ、イクト君と顔合わせるのやっぱり不安だよね」
親友を裏切った自分にここまで優しく理解を示してくれる人が、まだいるなんて。衝撃で、マサの胸は射抜かれた。
アオイが同行してくれるのでまだ気が楽だが、イクトの本心が見えないまま彼の真意をあれこれ憶測するのは憂鬱だった。突然友好的になったイクトへの疑念は仲直りするにあたり邪魔でしかないので無視してきたし、アオイにも話さないでおいた。だが、見ないようにすればするほど疑念は不安に変わり胸を揺り動かす。アオイから向けられるあたたかいまなざしは、マサが隠した心を全て受け止めてくれそうに思えた。
「ですね……。イクトのは、仲直りと言う名の復讐なんだと思ってます。こっちに彼女いないの分かってて誘ってくるんですから。独り身の俺に恥をかかせたかったんじゃないでしょうか。それだけのことをしたのは分かってるんで、しょうがないんですけど」
「マサ……」
「すいません、こんな話。誰にも言わないつもりだったんですけど……。つい口が滑って」
「いいよ。遠慮しないで。私には。どんどん話して」
「店長……。どんだけいい人なんですか」
「マサ!? 目が潤んでる…! よしよし」
まるで小さい子をあやすようにアオイに頭をなでられ、マサはこっぱずかしい気持ちになった。
「ちょっ、やめて下さいっ! 泣いてませんから」
「でも……」
「エアコンで目が乾燥しただけです」
「そう?」
アオイの手のひらからは彼女の甘い香りとぬくもりが感じられた。女の人に子供扱いをされて不愉快なのに、それを上回るアオイへの好感が耳まで赤く染めた。不意に触れられた部分が未知の熱を帯び、マサの心には様々な想いが溢れていく。
高校時代に傷ついたこと。イクトへのわだかまり。今回の海イベントの結末がどうなるのか。不安は尽きないが、アオイのおかげで落ち込みすぎずにすんでいるのも本当で。暗さと明るさ。あらゆる気持ちに胸が張り裂けそうになりつつ、心から感謝の気持ちを伝えた。
「今日、店長に頼んでよかったです。イクトに会うの、思ってたより怖くなくなりました」
「よかった。役に立てて嬉しいよ」
「店長の方はどうなんですか? 例の親友とは」
アオイもアオイで親友の片想い相手を奪った過去がある。似た経験をした身として、マサは純粋に気になった。
玲奈のことを言っているのだと、アオイにもすぐ分かった。
「すごい偶然なんだけど、私も今マサと同じ状況なんだよ」
「てことは、仲直り?」
「ううん。玲奈のおかげで元々絶交するまでにはならなかった。あ、玲奈って、その子の名前なんだけど。先日玲奈から電話があって、好きな人ができたから大丈夫って言われたの」
「ほぼほぼ同じですね、俺の状況と」
「でしょ? 玲奈から電話来た時、驚いた……」
似過ぎていてこわいくらいだと、マサは思った。世の中には、失恋しても立ち直りが早い人ばかりなのだろうか。だったら失恋ソングが流行るのはなぜだろう。まあ、失恋後の立ち直り方もその心情も、未経験のマサには知りようもないのだが。
「玲奈に、彼女のことは気にせず幸せになっていいって言われたんだ。でも、そうやって言われるとかえって不幸になりそうっていうか、自分のしたことを直視させられるっていうか。怖いんだよね……。今の幸せが壊れてしまうんじゃないかって」
「なんとなく分かります。俺もそうです。イクトにリオちゃんのこと気にするなって言われたけど、そしたら逆に気にせずにいられない、みたいな」
「そうだよね。そういうものだよね」
安堵の息をつき、アオイは自分のお茶を飲んだ。かと思えば、それはマサの口つけたお茶だった。助手席と運転席の間には二つのドリンクホルダーがある。なので間違えてしまったようだ。
「ごめんっ、マサのやつ飲んじゃった」
「いいですよ別に」
何も気にしていません。そんな素振りで答えたものの、マサは内心ドキドキした。
間接キスでときめくって、小学生かよ。
アオイがわざと間違えたのならいいのに。そう思ってしまう。
アホか。あるわけない。店長に限ってそんなの……。
マサが思考している時、アオイもまた何かを考え込んでいるようだった。弾んでいた会話は途切れ、車の走行音だけが二人の耳に触れ続ける。アオイは助手席側の窓を見たまま沈黙を破った。
「ねえ、マサ」
「はい?」
マサはアオイを一瞥した。顔をそむけたまま話しかけてくるなんて、基本的に人の顔を見て話す店長らしくないと思いながら。
「友達になってくれないかな? もし、マサが嫌じゃなければ」
改まった口調で何を告げるのかと思えば、アオイの発言はそこまで驚くほどのものでもなかった。女友達なら大学にもいるし、さして抵抗するほどのことでもない。それに、今はアオイに対して親しみが湧いている。
アオイといると、マサは色んな話をしてしまうのだ。元は、女性に対してこんなに自分の話をする方ではなかった。歴代彼女達の話を聞くことはあっても自分の話など積極的にした覚えがない。あったとしても相手の質問に答える程度だ。それに不満などなかった。聞き手に徹するのは楽だ。適当に相槌を打っていれば女の子は満足してくれる。ただ、自ら話し手になるのも悪くない。アオイとの会話で初めてそう知った。
「店長だからとか、そういう気は遣わず正直な気持ちで返事してほしい。けっこう本気だから」
「本気って、何ですかそれ」
からかうマサの口調に、内側から優しさが溢れ出る。
そっか。これは恋じゃなくて友情だ。他の女友達と店長は別格。それだけ。
未知なる想いに名前を付けて、マサは朗らかに答えた。
「いいですよ。なりましょう。友達」
「ありがとう!」
そこまで喜ぶかというほど満面の笑みを見せるアオイに、マサの胸は小さく確かに鼓動した。それが嬉しくて、なのに照れくさくて、マサは再びアオイをからかった。
「でも、友達になろうって言われてなるの初めてですよ。そういう場合ってたいてい誘った側に裏があるって言いますよね。やばい何かの勧誘とか」
「ひどいっ! 勧誘する気なんか一ミリもないよっ。本当に心から純粋にマサと友情を育みたかったの!」
「くさいですよ、そのセリフ。言ってて恥ずかしくないですか?」
「恥ずかしいよっ! でも言わなきゃ伝わらないしっ」
「あはは。すいません。いじめすぎましたね」
「もう! マサがそんな意地悪とは思わなかった! ううん。よく見たらそんな感じかも」
「ちょっと聞き捨てなりませんね。どういう意味ですかそれ」
じゃれあうような会話。気の置けない冗談。それぞれの抱える荷物が軽くなっていくのを、二人は感じていた。
この人といると楽しい。久しぶりに心から笑った気がする。
マサとアオイは、同じタイミングで同じことを思った。互いにそうと知らないままに。
「じゃあ、この瞬間から敬語もナシにしない?」
「その辺別にこだわりないですけど、一応店長は店長だしバイト中はタメ口ってまずくないですか?」
「そうだね。じゃあ、仕事中だけ敬語で他はタメ口にするってどう?」
「分かった」
「切り替え早いっ!」
「ああ、こういうの得意だし」
アオイは面食らったように頬を赤らめ、だけどその表情には次第に満足感が浮かんでいく。
「名前呼びも友達っぽくする? アオイさん」
「さん付けはくすぐったいから呼び捨てでいいよ」
「じゃあ、アオイで」
「やっぱなんか恥ずかしい…!」
「どっちだよー。呼んでほしいのかほしくないのか」
「呼んでほしい! ほしいけど、なんかね……。旦那さん以外の男の人に名前を呼ばれるのってすごく久しぶりだから、変に緊張するのかなぁ。こんなの変だよね」
アオイはエアコンで冷えた両手を頬に当て、自らの熱を冷まそうとしている。その仕草はマサの目に可愛く映った。
俺だって恥ずかしいよ、店長の名前呼ぶなんて。変なの……。元カノのことだって普通に名前で呼んでたはずなのに。照れる要素なんてどこにもないのに。
「旦那さんは旦那さんでしょ。俺のは別枠ってことで」
「そ、そうだよね。友達と旦那さんは別物だもんね。うん、分かった!」
その気合いの入れ方、地味に傷つくんですけど。
心の中で言い返し、マサは小さくため息をついた。どこに傷つくのか、あまり考えたくない。
久しぶりに気持ちが高鳴る。これは、まともに初めて長距離運転をする高揚と緊張ゆえなのだと、マサは思いたかった。
まるで心電図の線みたいに絶え間なく上下する心の線とは裏腹に、マサはいたって平然と運転しアオイと会話した。そのおかげで、二人の間には何事もなく穏やかな時間が流れた。アオイは終始楽しそうに笑っていた。そんな彼女を見て、マサは満足と不満足を覚えた。