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秘め恋  作者: 蒼崎 恵生
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浮き上がり沈む


 この子は私に似てる。


 マサの面接をした日、アオイは真っ先にそんなことを思った。彼の瞳の底に何かを見、不思議な引力に吸い込まれそうな強い衝撃が胸を占め、その波動は瞬く間に全身へと行き渡った。これまでの人生で何人もの人と出会い、店長になってからは面接もそれなりにこなしてきた。しかしこんな気持ちになるのは初めてだった。


 なぜそんな風に感じたのかは分からない。マサとアオイ、二人に共通点などない。むしろ違うところばかりだ。年齢も五つ離れているし、ボーイッシュで恋愛下手だったアオイと違い、目の前に座る男子大学生はいかにも女性慣れしていそうな雰囲気の持ち主である。きっと今も彼女の一人や二人いるのだろうと思わせる色気もあった。


 無理やり二人の共通項を探すとすれば、ここで働く者同士になるということくらいか。そう、アオイは一目見た瞬間からマサを採用すると決めていたのだった。なぜ、初対面の年下男子にこうも親近感を覚えてしまうのか、アオイ自身にも分からないまま、その答えを求めるかのように彼を働かせることに決めた。


 なんなんだろこれ……。寂しいのに嬉しいような感情で胸が染められる。こんな気持ち、初めてだよ。


 もちろん、だからといってマサだけに優しくしたりなどしない。バイト達全員平等に接しているつもりだ。店長という立場を考えたらなおさら贔屓ひいきはいけない。そう心がけつつ、気付くとマサのことばかり目にかけてしまっていた。


 海水浴の誘いに乗ったのもそう。本来なら自分の立場を考えうまく断るべき案件なのに、マサへの特別な感情が先行してオーケーしてしまった。店長として彼の役に立ちたい、それは本当だ。他のバイトが困っていたら同じように親身になっただろう。反面、店長だから彼を助けたいという自分のセリフが言い訳にしかなっていない気もする。というのも、浮上しすぎと言うくらい明るくなっていく自分の気持ちに気付いたからだ。


 こんなにワクワクしたのはいつぶりだろう。


 マサとの海水浴に備え、アオイは水着を買いにショッピングモールを訪れていた。彼に宣言した通り、一人マイカーを走らせここにやって来た。


 へえ。今はこういうのが流行ってるんだ。


 女性ファッション全体に言えることだが、デザインは年々洗練されていき、流行りも目まぐるしく移り変わっていく。自分が十代後半の頃の流行とはまるで違う色とりどりの水着が並んだ売り場にやや気後れした。可愛いものから綺麗なもの。目にするどれもが美しい。もちろん趣味に合わないものもあったが、全体的にセンスが良くデザインには文句の付けようがない。サイズ的にはどれを着てもそれなりに決まるのだろう。しかし、どれも自分には合わないのではないかと思え切なくなる。独身時代には膨れ上がるほど湧き溢れていた冒険心が、結婚してからはシュンと抑制されていくのを感じる。今もそう。なぜか独身時代のような気楽さで新たなことに挑戦できなくなっている。


 こんな水着着ていったら、さすがにマサも引くよね……?


 年下男子の前で肌を見せるのが恥ずかしいと思ってしまう。こんな気持ちになってしまう自分に、アオイは既婚の事実を痛感する。二十歳を過ぎてから海水浴などほとんどしたことがない。だからだろうか。とはいえ、子供の頃は学校の授業でプールにも入っていたし、男子も大勢いるプールで平気な顔して泳いでいた。海水浴も全くの未経験というわけではない。何をためらうことがあるのか。


 出産は未経験だし、独身の時から体重も体型も変わっていない。二十歳を過ぎてから多少揺らぎを感じたものの、肌質そのものは十代の頃とさほど変わらない。しかし、マサやマサの親友カップルが一緒だとなれば話は別。どうしたって妙な自意識を抱いてしまう。


 多分、当日はメンバーの中で私が一番年上なんだろうし……。結婚してるのも私だけだよね。変に可愛すぎる水着着ていったら浮くかも。そんなの恥ずかしいし、かえってマサに迷惑かけるよね。


 こちらがマサを気にかけている一方で、彼には初対面の頃から嫌われているような気がしていた。表面上はバイトの一員として普通に接してくれたが、彼の視線や仕草の節々に幾度となくこちらへの嫌悪感がちらついていた。その理由がアオイには分からなかった。知らない間に彼を傷つけるようなことをしてしまったのなら謝りたいと思うものの決定的な質問をするのもはばかられて、結局様子を見ることしかできなかった。


 そんな時、ひょんなことから互いの恋愛遍歴を打ち明け合う流れになり、少しだけ距離が近くなった。それを機に心なしかマサの対応も柔らかくなったので、以前の彼が放っていた嫌悪感については忘れる努力をしようと決めた。


 店長としてマサの力になりたい。それは本当だが、それ以上の気持ちも正直あった。元々マサには惹きつけられる何かがあったが、彼の恋愛話を聞いてからはよりいっそう彼に対する個人的な関心が湧いた。仕事から離れた部分で仲良くなりたいと思った。いわゆる友達という関係。


 これまでの経験や周りの人間関係を見てきて思う。異性間の友情は成立しにくい。それは分かっているのだが、マサと話していたら、彼となら性別の壁を越えて親しくなれるような予感がした。アオイにとって、非難されるべき過去の恋愛経験をすんなり受け入れてくれたマサの存在は大きかった。


 バイト先の店長とはいえ、普通こんな女嫌がるよね。男の子ならなおさら引きそう。なのにマサは引かなかった。サラッとした反応が彼らしい。嬉しかったな……。


 そういう相手となら、互いの価値観を尊重しあい友情を深められるのではないかと思った。マサは大学生で、容姿もかっこよく、男性特有のギラギラした視線もなく、雰囲気からして女性にモテそうだ。彼はたまに女性グループの客から熱い視線を浴びている。アイドルや人気俳優を見かけた時のような眼差しを客達から受けていることを、本人は気付いていないのだろうか。がっついたり喜ぶ様子もなくひょうひょうと接客している。そこがまた、女性心を適度に刺激するのかもしれない。実際彼には、親友の彼女と寝てしまった過去がある。マサに魅力がなければそんなことは起きないだろうとアオイは思った。マサはどう考えているか知らないが、彼の憂鬱の材料となっている〝親友の元彼女〟はマサに特別な感情を抱いていたに違いない。


 因縁ある親友のカップルに海へ誘われ困っているマサを、今助けなくていつ助ける!?


 ひそかにマサとの友情を望んだアオイは、そんなこんなで勇んで水着を買いに来たが、あれこれ悩んでしまい肝心なところが決められない。こんなことなら、変に意地を張らずマサの言葉に甘えて水着選びに付き合ってもらえばよかったと後悔した。


 マサだったら、客観的に私に合いそうなの選んでくれそうだし……。


 陳列された水着にスルスル指先を滑らせつつ、こんな時にひとしを頼れない自分を虚しく感じた。仁とはお互い違う四年制大学に通っていたが同い年だったので同時期に卒業し、社会人になってすぐ結婚した。それから早一年。新婚と言えば新婚だが、お互い仕事が忙しくゆっくり語り合う時間もなく時は流れていった。


 前にシたの、いつだったっけ……。三ヶ月? ううん、もっと前かな。


 心だけでなく体まで寂しい。ふと顔を上げると、自分と同世代と思しき一組のカップルが目についた。腕を絡めてはしゃぎながら水着を見ている。


「これどう思うー?」


「お前胸デカイし、もっと隠れるやつにしろよ。他のヤツに見られたくない」


「もぉ、分かったよー。じゃあコレは?」


 彼女の方が、今まさにアオイのしたいことを目の前でやっている。


 う、羨ましい……。男の人に肌を見られる心配なんて、最近全然してもらってないよー。結婚してるし仕方ないのかな。


 そういえばここ数日、アオイは旦那の顔すら見ていなかった。互いに仕事の時間も生活ペースも違う。夕食も別々に摂ることが多い。そういったことはもう結婚する前から分かっていたので文句を言うつもりはない。共働きで金銭的に余裕があるので、家事もハウスキーパーに任せている。家の中は快適だ。何の不満も悩みもない。顔を合わせれば穏やかに会話できる。コミュニケーションが少ないとはいえ、夫婦仲は順調な方だろう。


 今、仁が忙しいのは、私との未来のために頑張ってくれているから。理解してるよ。寂しがったり、しちゃいけない。


 自分にそう言い聞かせてみるものの、やはり肌寂しさや心の空白は日に日に募っていく。裕福な家に生まれ育ったが、両親が多忙を極めていたため家族の団欒だんらんなどした記憶がない。そのためか、幼い頃からアオイの心には常に人恋しさがあった。結婚後すぐオープンさせたカフェも、親の資金援助があって成り立った。両親にはとても感謝している。生まれ育ち全てにおいて自分は恵まれているのだから、何一つ文句は言えない。言ってはいけない。


「はあ……」


 無意識のうちにため息をついてしまう。


 あれでもないこれでもない。何とかしてマサとの約束前に水着を選ばなければならない。売り場を右往左往していると、売り子の女性に引き止められ、迷っているようなら一緒に選ぶと告げられた。学生の頃だったらありがた迷惑に感じた店員の声かけも今は邪険にできなかった。今は人の力を借りたい心境だったし、自分も店長として働く手前、売り手の立場や気持ちが少しは分かるつもりだ。


 さすが販売のプロだとうなりたくなる。声をかけてきた女性のおかげでしっくりくる水着を買うことができた。同世代の店員だったので、それもよかったのかもしれない。


 これでマサの力になれる!


 売り場を出ると、手渡されたばかりのオシャレなショップ袋を片手に意気揚々とカフェに入った。ショッピングモール内に組み込まれている全国チェーンの有名店だが、ここのココアラテが大好物なのだ。久々に頭を使って買い物をしたので甘い物も食べたい。生クリームの載った紅茶のシフォンケーキもオーダーし、カウンターで注文の品を受け取ると適当な席に着く。平日なので店内は片手で数えらる程度の客しかいなかった。仕事柄、同業者の偵察みたいなことをやってしまう。


 やっぱりうちの店にもシフォンケーキは必須かなぁ。メインのスイーツがパンケーキだけでは女性客は物足りないよね?


 くつろぐためにあるはずの休日に、つい仕事のことを考えてしまう。そんな自分に苦笑した。


 結婚したら仁のことばかり考えるものだとばかり思ってたのになー……。仁との距離が空いてくように感じるの、私のせいなのかも。たまに仁と顔合わせても、いつの間にか仕事の話ばかりしちゃってたし。


 同い年なのに、仁は大人で優しい。アオイの話に嫌な顔ひとつしない。そういうところは交際前から変わらない彼の長所なのだが、最近になってそんな旦那の言動に違和感を覚えてしまう。そんな男でも、結婚すれば多少は不機嫌な顔を見せたり落ち込んだところも見せるはずだと、ある種の期待をしていたからだ。家族団欒に憧れるアオイにとって、夫婦喧嘩をすることすら理想の家族の形だった。友達カップルの話を聞いているとなおさらそう思う。いつまでも付き合いたての頃の優しさを保ったままでいる男性なんていやしない。どこかで本性が出てぶつかり合うこともある。だからこそ夫婦の絆はより深まっていく。


 私ばかり弱音吐いたり悩みを聞いてもらってる。仁はそういうの一つもないのかな。私のせいで無理してる? ……って、ダメダメ。考え過ぎ。


 ネガティブ思考を断ち切るようにスマートフォンを手にした。二件の着信が来ている。親友の真琴まことからだった。真琴は仁を好きだった親友とは別の女性で、高校時代から気が合い今でも仲良くしている。一応店内なので周囲に気を遣いつつ、なるべく小さな声で折り返しの電話をした。


「もしもし。電話出れなくてごめん。どうしたの?」


『アオイの店さ、ちょっと前に人手不足って言ってたじゃん? 今はどう?』


 真琴の口調はいつも通り脱力感満載だったものの、わずかに焦りを帯びていた。


「人手ね、大学生の子が何人か来てくれてるから、夏の間は大丈夫そうだよ」


『そっかー……。よかったね。じゃあ他当たるわ』


「どうしたの?」


『いやー、急過ぎてホント困ってるんだけど、今のバイト先今月いっぱいで閉店するって言われてさ。やばいよォ』


「本当に!? 裏通りの書店だよね。けっこうお客さん入ってたのにどうして……」


『出版業界も厳しいからねー。万引き被害もあるしさ』


 世知辛い世の中である。臨床心理士を目指している真琴は、大学の心理学部を修了後、大学院生をしながらバイトをし、大学時代から同じアパートで一人暮らしをしている。勉学に励むかたわら生活費の足しにするべく大型書店でバイトをしていたが、その生活リズムが崩れそうだという。仕送りはもらっているものの無理して大学院へ行かせてもらったので、親には極力お金のことで負担をかけたくない。以前真琴はそう言っていた。


 仁と付き合う前も結婚後も、真琴には何かと勇気づけられてきた。唯一無二の親友が困っている。アオイは真琴の夢を応援しているし、彼女を助けたいと思った。シフトは今のバイト達だけでも充分回せるが、一人増えてもさして問題なかった。カフェと書店は違うかもしれないが、接客の経験がある真琴ならカフェでの仕事にもすぐ慣れることができるはずだ。


「そういうことなら、うちに来る?」


『いいの? でも、かえってアオイが困らない?』


「平気だよ。むしろ助かる。一人で回さなきゃいけない時もあるからさ」


『ありがとー!! 今度お礼するからっ』


「いいよそんなの。困ってる時はお互い様」


 友人待遇とはいえ、一応面接したことにしなければ他の従業員に示しがつかないので、形式的な面接の約束をした。履歴書も持って来るよう伝えると、真琴は電話の向こうで熱心にメモを取り、話がひと段落ついたところで質問を挟んだ。


『仁君とはどう? 最近コミュニケーション取れてる?』


「うん。まあ、ラインでは」


『そっか。相変わらず忙しいんだね』


「うん、そうみたいだね。あはは……」


 アオイは曖昧に笑って返事を濁した。結婚後もすれ違い気味の生活を送るアオイ夫婦のことを真琴は心配していた。それでアオイが寂しい思いをしていることも察している。


「ありがとね、真琴。私なら大丈夫。最近仕事先で気の合いそうな子がいてさ。おかげで、仁のいない寂しさも少し和らいだんだ」


『そうなんだ、よかったね。そういうのホント大事だよね。タメの子?』


「ううん。五歳年下の男の子」


『ええっ! 年下なのはいいとして、男!?』


 真琴は珍しく驚きをあらわにした。心理学を学んでいるからか、元からそういう要素を備えていたのか、真琴は出会った頃から達観しており多少のことには動じない淡白な女性だった。そんな親友を驚かせてしまうなんて自分はもしかしてとんでもないことを言ってしまったのではないかと、アオイはようやく気付いたのだった。


「大丈夫。男とか女とか意識しあう関係じゃないから。絶対それはない」


『それ恋愛フラグ〜。男女関係になる人達が事前に言っちゃうセリフ上位に入るやつだよ。アオイが仁君に一途なのは分かってるんだけどね。大丈夫?』


 真琴の心配。それは、年下バイトと変な関係にならないかという疑問だった。アオイはそれを理解しつつも深く捉えず軽く受け流した。仁以外の男性に心動かされることなどない。確たる自信がある。


「ないよ、そういうのは。仁以外に目を向ける気はないし、第一、その子モテるし。たとえこっちが意識したとしても、向こうは私のことなんか全然眼中に入れないんじゃないかな。でもね、いい子なんだ。不思議と気が合うっていうか、前までは距離があったんだけど今は近くて。色々困ってるみたいだから頼られると嬉しいんだ。純粋にそれだけ」


『そうなの? それなら大丈夫か。ところで今何してるの? 暇なら飲まない? 美味しい店見つけたんだー』


「今、水着買ってきたとこ。飲み、いいね。これからそっち行くよ」


『え、水着って海でも行くの? 今年も紫外線かなりやばそうだけど』


 アオイは色白で、長時間日焼けすると肌が赤くなってしまう体質だ。高校の頃同じグループに属していた真琴と女子数人で海に行ったが、日焼け止めを塗ったにも関わらずアオイの背中や腕の皮膚は太陽光のダメージを存分に受けベリベリにめくれてしまった。その跡は三年ほど残り、アオイが肌にコンプレックスを持つ原因になってしまった。以来海水浴やプールには行かないようにしていたし、真琴もそういう計画は立てないようにしていた。仁もそのことは理解しているはずなのになぜそんな妻を海になど行かせるのか。心配する真琴の心境を察し、アオイは明るく答える。


「多少ダメージ受けるだろうけど、徹底的に対策してくから大丈夫。あの頃と違って今は飲む日焼け止めもあるしさ」


『そうだけど……。もしかして、一緒に行くのってそのバイトの子だったり?』


「うん。その子のプライベートに関わるし詳しくは話せないけど、誘える相手がいなくて困ってるみたいだったから。それであの子が助かるなら一緒に行ってあげたくて」


 アオイの声音には姉然とした優しさと、ほんのり明るい未来への展望が浮かんでいるようだった。そんな親友の声を聞き、真琴は戸惑った。最近のアオイは旦那との会話が少ないことで悩んでいた。仁以外の人のことでそんなにも気持ちが浮き上がることが、はたして正しいのかどうか。しかし本人は友情だと断言している。実際そうなのかもしれない。それに、悩んで気落ちしていることに比べたら、元気そうに見える今のアオイの方がいい。少し引っかかりを覚えつつも、真琴はアオイを信じ深く掘り下げないようにした。


『どんな子なんだろ。私も仲良くできるといいなー』


「大丈夫だよ。その子誰に対しても平等な感じだから。働く時にまた紹介するね」


『ありがとね、仕事のこと。また後で色々話そ』

 

 それから二人は電話を切り、真琴の勧めるバーで待ち合わせ、夕方から飲む流れとなった。


 バーには二十代の若者もいたが中年以降の客が多く、裏通りの目立たない場所にひっそり位置しているにも関わらず客足が途切れなかった。それを見たアオイは、またもや自分の店と比べてしまった。一杯目のカクテルを飲み干すなり、うなだれる。


「ここにあってうちのカフェにないものは何だろう? あーもーっ、今より店を良くできないなんて店長失格だあーっ」


「おいおい、もう酔ったのー!? 早いよー店長っ」


 冗談交じりに、真琴はアオイをなだめた。


「ここはそういう年齢層対象にしてるから当たり前。アオイんとこの店はできたばかりとは思えないほど繁盛してる。新しい物好きな若者の心をつかんで離さない証拠でしょー。充分すごいって」


「ありがとね。でも、親に啖呵たんか切った手前、もっと頑張らなきゃって思うんだ……」


「そういうこと仁君にももっと相談してみたら? 夫婦なんだし、一緒に考えてもらえばアオイも安心じゃないかな」


「そうしたいのは山々だけど、やっぱできないよ。うちの親のせいで仁の人生決めつけちゃってるし……」


 客達の会話が静かに波打つ店内で、アオイと真琴の話し声もまた波のひとつとなって交わっていた。多くの人が会話や飲酒を楽しんでいるのに、大衆居酒屋とは違う品のある雰囲気。薄暗い、連れ合いの様子がほどよく見えるわりに隣の席の人々の顔がはっきり見えない工夫がされた店内照明は、その場にいる人々を開放的な気分にさせた。アオイと真琴もそのうちの一人だ。日々の悩みや不満も、飲んでいると不思議と薄まってくる。そして、日常に埋もれさせてきた過去の罪が心に舞い降りて、柔い針でチクリと胸を刺される感覚を覚える。


 両親はいくつかの会社や不動産を持つ日本有数の資産家で、アオイは大学を卒業したら親の決めた相手と結婚し親の経営する会社を盛り立てるよう言いつけられながら育った。子供の頃は何の疑問もなく親の言葉を受け入れていたが、仁を好きになってからのアオイは政略結婚を命令してくる親に激しく反抗した。反抗したはいいものの、当時仁とはまだ恋仲ではなかった。付き合っているならまだしも完全なアオイの片想い。それでは親の意見を屈服する材料にできない。


 アオイが仁と出会ったのは、玲奈れなのおかげだった。アオイと玲奈は小学校から同級の親友で、高校や大学が違っても月に何度か遊ぶほど仲が良かった。大学三年の頃、玲奈に彼氏を紹介された。それが仁だった。玲奈は仁に、親友のアオイがいかに素晴らしい友達なのかを自慢したがった。デートの時、玲奈は必ず一度は仁の前でアオイの話をして聞かせた。すると自然に、仁のアオイに対する印象はよくなっていく。そうしているうちに、玲奈と仁はアオイのことを誘って三人で遊びたがるようになった。


 結婚相手が決められているものの、それを無視するかのようにアオイは恋愛に憧れを募らせてきた。幼少期に親との触れ合いが少なく寂しい思いをしたので人の好意に飢えていたのもある。そういった心理が良くも悪くも思春期頃には顕著けんちょになり、言い寄ってきた男子の告白を断れない性格を作り上げた。しかし、いざ交際となると器用に振る舞うことができず、すぐ別れてしまうはめになった。どうも女としての色気がないらしい。アオイの容姿に惹かれて告白してきた男子陣は皆、彼女の外見と内面のギャップにことごとく幻滅した。


『もっと女らしいと思ってた。なんか違うんだよ』


『他に気になる子できた。悪いな』


『ごめん。アオイのこと妹としか思えないや』


 それもそのはず。異性に免疫がなく、ただ断れないという理由で交際している相手に女らしさなど見せられるわけがないし、見せる術も知らない。恋愛感情があって付き合ったのなら別かもしれないがそんな経験アオイには皆無なので、男子に好かれる振る舞い方や望まれる言動など何一つ分からない。せっかく告白してきてくれたのだから、とにかく相手を退屈させないようトークを盛り上げ、話題を探し、普段の自分以上にサバサバした言動を取っていた。そしたらそれは彼らの望む彼女像ではなかったという。アオイの気遣いは空回りしたのである。


 外見で得をし、その倍以上の損をする。アオイの恋愛市場での立ち位置はそんな感じだった。容姿で異性にいい印象を与える分、付き合う相手の期待値を自動的に高めてしまう。結果、こんなはずじゃなかったとガッカリされる。


 私のこと好きって言ってくれたけどその程度だったの? 一生懸命告白してきてくれたのは何だったの!? こんなの理不尽だよっ。私はただ、楽しく付き合いたいと思っただけなのに。


 元々人のぬくもりに飢えていたせいか、さほど深い関係でない人との別れであっても、その寂しさは尋常ではなく毎度きついものがあった。深くなる孤独感に耐えられなくてすぐに別の男と付き合う。仁と知り合った頃にも彼氏と呼べる相手がいたので、最初は仁のことなど意識していなかった。そもそも仁は親友の彼氏だ。そんな目で見るつもりは毛頭ない。恋愛に疎くてもそれくらいの倫理観は持ち合わせている。


 それなのに、気がつけば仁を好きになっていた。玲奈と仁が親密な交際をしている一方、アオイはまたもや彼氏との別れを経験した。もはや何度目か分からないが、別れの回数を重ねるほど自己否定の感情が深まり傷口は化膿していく。


 私のことなんて、誰も本当の意味では愛してくれないのかな。政略結婚でしか男の人とつながれない一生孤独な女なのかな。


 もうどこかに消えてしまいたい。度重なる別れ。自分には女としての価値がないと言われたような気がした。だから政略結婚を迫るような親の元に生まれたのだとすら思えてくる。失意のどん底にいたまさにその時、


『大丈夫。今はつらいかもしれないけど、そいつとは縁がなかっただけ。アオイちゃんのことを理解してくれる人がきっといつか現れるから。無理に忘れなくていいから、今は思い切り泣きな』


 親身に励ましてくれた、仁の人としての優しさに心底惚れてしまったのだ。その時、仁の傍らには当然玲奈がいて、彼女も同じような言葉でアオイを励ました。優しくしてくれる友達がいて幸せだ。嬉しい。そう思うものの、アオイを元気づけたのは旧知の親友ではなくその恋人の存在だった。


 仁を好きになるのに時間はかからなかった。異性との交際経験ばかり重なったものの、アオイが本当に人を好きになったのはこの時が初めてだったのかもしれない。


 玲奈と仁はアオイの気持ちの変化に気付かず、失恋して落ち込んでいるであろうアオイを励まそうと色んな場所へ彼女を連れ出した。友人としての好意だと分かっていても断らなければならない。でないと仁への気持ちが大きくなっていってしまう。だけど、仁に会えるなら理由なんて何でもよく、アオイは結局二人の誘いを断れなかった。断らなかった。断りたくなかった。


 マサには「親友の片想い相手を奪った」と話したが、それは半分嘘。やはり本当のことは話せなかった。


 マサには嘘ついちゃったよ。ごめんね。マサは言いにくいことを話してくれたのにね。でも、やっぱり本当のことなんて言えないよ。だって私は仁の弱みに付け込んだ。最悪な方法で玲奈と仁を引き裂いた……。


 そんな自分より、マサの方がずっとまともな人間だとアオイは思った。もちろん、親友の彼女を寝取って褒められることなど普通はないのだが。それでも。


 私より断然人間らしいよ。マサは。


 仁とアオイの関係をよく知る真琴は、アオイの思考を読みつつ何も言わなかった。真琴は外見こそグラマラスで長い髪をしており顔立ちにも独特の色気があるが、内面はサバサバしており、友人からは男前だと評価されている。もちろんいい意味でだ。女性的な共感を示しつつ、適度に見守る男性的な性質も持ち合わせている。ゆえに、アオイの恋愛や結婚を曇りない目で応援してきた。アオイもそれが分かっているので真琴に感謝している。


 アオイと真琴。二人は心置きなく何でも話せる間柄であった。


 ほろ酔い加減。過去と今が頭の中で交差する。アオイはポツポツと話した。


「この店、いいね。料理もおいしい。真琴の歓迎会ここにしようか」


「嬉しいけど、未成年のバイトもいるんだしバーは悪いよ。それに、そういうの別にいいから」


「そっか。それもそうだよね」


 真琴の口から未成年のバイトと聞いて、アオイは無意識にマサの顔を思い浮かべた。マサの他にも未成年のアルバイターはいるのに。


 たしかに、十八の子をバーに連れていくのはまずいよね。


「あれ? さっきから何か鳴ってない?」


 真琴はアオイの座席辺りに視線をやった。音の正体はアオイのカバンにしまわれている彼女のスマートフォンだった。着信が来ている。発信者の名前を見て、アオイは凍りつくような心持ちになった。


「電話だ。着信履歴、玲奈から……」


 仁と結婚後、玲奈とは疎遠になっていた。仁との結婚式に参加した玲奈は、アオイにおめでとうと言い二人の結婚を祝福した。それは表面的だったり周囲の参列者の目を気にして取り繕ったていでもなく、心から発せられたものだったと思う。とはいえ、やはり罪悪感は拭えなかったのでアオイは玲奈に極力連絡をしなかったし、玲奈の方から連絡が来るとしても短文のラインが来る程度だった。そのたび返事はしたが話を引き延ばさないよう気をつけていたし、どちらかともなく様子を伺うように、互いに電話や直接会うことは避けてきた。友人なのかどうか分からない曖昧な線で関係を保っている。それでいいと思った。そこへ電話が来たとなると、嫌な緊張感とあらゆる不安でアオイの胸は埋め尽くされた。玲奈は、仁の件に連なるこちらへの恨みを思い出しこうして積極的にコンタクトを取ろうとしているのではないだろうか。そう勘繰ってしまう。


 それらを全て見越し、真琴は言った。


「かけ直したら? 案外何でもない用事かもよ」


「うん。そうだね」


 このまま無視して後々何の連絡だったのだろうと苦しい想像をするよりは、今かけ直した方が楽。アオイは思い切って玲奈に通じる番号を発信した。一秒も経たないうちに玲奈は電話に出た。待ち構えていたような速さだった。アオイは思わず唾を飲んだ。心拍数がとたんに上がる。


『アオイ? 久しぶりー。元気にしてる?』


「うん。元気だよ」


 平静を装うつもりだったのに答える声がうわずってしまう。玲奈の声は底抜けに明るく、それがかえって嫌な予感をアオイにもたらした。今すぐ電話を切ってしまいたい衝動を、真琴の顔を見ることで落ち着かせる。アオイの心境を読んだ真琴の表情も気遣わしげに曇った。


「電話なんて珍しいね。どうしたの?」


『最近、全然会ってないでしょ? だから、元気にしてるかなーって』


「うん、元気だよ」


 頭痛が始まった。漠然とした何かがはっきりとした不安要素に形を変えアオイの腹に重く居座る。玲奈の声が嬉々としたままなのも嫌な感覚を増長させる。


『そっか。ならいいんだけど』


「わざわざそれだけのために……?」


 その程度の質問ならラインでいいじゃないかと言いたくなった。電話越しに身構え緊張してしまう今から逃げたい。


『ううん。実はアオイに報告したいことがあって』


 もったいぶった間を置き、玲奈は告げた。


『好きな人ができたの』


「え……?」


『アオイ、仁のことで私に遠慮してたでしょ? 気付いてたよ。だからもう本当に気にしなくていいよって言いたくて。色々あったけど、私は今とても幸せだから、アオイも気にせず仁と仲良くしてよ。ね?』


「そうなんだね。分かったよ……。わざわざ電話くれてありがとう。今までごめんね」


 アオイの胸は安堵と疑念の音で埋め尽くされていた。


 本当に好きな人ができたの? 仁のこと、忘れられたの? なぜわざわざ電話で報告なの?


 色んな思いが頭に浮かんでは消え、また浮かぶ。相手が玲奈でなかったら、友人として前向きな言葉を伝えたくなるシチュエーションだった。そこで後ろめたくなってしまう自分がただただ苦しい。


 こういう気持ちをずっと抱えていかなきゃならないこと、仁を奪った時から覚悟してたはずなのにな。思っていたよりきついね。


 電話を切った後も呆然として無口なままのアオイの顔を覗き込み、真琴は声をかけた。


「玲奈ちゃん、何て?」


「好きな人できたから、仁のことはもうこだわらなくていいって……」


「そうなの? よかったね! これでもうアオイは自分の幸せだけ考えていけるよ、うん。時間は流れるんだね」


「そう思うべきだよね……」


 憂いたアオイの頭をポンポンと軽く叩き、真琴は新しい酒を注文した。少ししてアオイと真琴の前にファジーネーブルが置かれる。気だるげな話し口調で明るく乾杯する真琴とファジーネーブルを、アオイは交互に見つめた。


 いいんだよね。もう、罪の意識に囚われなくても……。


「そうだよ。アオイは色んなことを乗り越えて仁君と結婚したんだよ。幸せになれないわけないじゃん。そんな顔してたら、海水浴で可愛いバイト君に心配されるよー」


 声にならないアオイの気持ちを鋭く察知した励ましだった。


「さすが臨床心理士の卵だね、真琴は」


「険しい道のりだけどねー、私も頑張るからさ、アオイも頑張ろー」


「あ、酔ってるねだいぶ」


「バイト先が潰れるしねー、飲まにゃやってられん!」


 現実と憂い、未来への希望がないまぜになる夜。二人は朝まで飲み明かしたのだった。アオイの胸中に落ちてきた玲奈の恋愛報告は、朝焼けが薄くしていくかのように感じられた。











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