結われし縁
新年が始まって一週間。一月の朝はとても冷え込む。そろそろ大学の冬休みが終わる。
筋トレや規則正しい生活が身についたからといって自分に絶対的な自信がついたかというとそうでもないが、それでも、アオイと離れ自堕落な暮らしを送っていた頃よりははるかにマシだろう。
ある程度自分の考えや暮らしに自信が持てるようになったら、マサは再びイルレガーメを訪れるつもりだった。もちろん、アオイと話すために。
よく考えたら、いや、考えるまでもなく、まともな恋愛をしてこなかった。当然、こんなに長く続く片想いというのも初めてで、そのうえ相手は既婚者ときた。諦めるしかない恋だが、それならそれでしっかりけじめをつけて前に進みたい。想っているだけで許されるのならそうしたいが、できることならアオイの心をこちらに向かせたいという気持ちも正直ある。
綺麗事もなし。我慢もやめる。
したいようにすると決めた。たとえ地獄に落ちたとしても、この恋を秘めたままにはしておかない。もしもアオイが気持ちに応えてくれたのなら、どこまでも二人で寄り添い合って生きていきたい。
筋肉量があと一キロ増えたら。そんな気持ちで体重計にのりつつスマートフォン片手に久しぶりにツイッターを見てみた。フォローすらしていない知らないアカウントから返信がきていた。
誰!?
不安と驚きで書き込まれた内容をチェックする。ネットの片隅で単に気持ちをつぶやいていただけなのに、誰が反応してきたのだろう。そういう機能があると知っての発信だったが、反応をもらうなんて想定外だったので緊張した。
《あなたの笑顔で救われた人がいます。ありがとう。気持ち、伝えられるといいですね!》
まさかの励まし!!
ドッと全身の力が緩むのを感じた。前向きな応援の言葉だった。
って、え? 俺の笑顔に救われた…?
知り合いだろうか。返信をくれたアカウントをよくよく観察した。アカウント名は【抹茶ラテ】、アイコンに使われている画像は海の写真だった。
「これって……」
見覚えのある海だった。去年の夏、イクトとユミに誘われて行った海。アオイが指輪を失くすというハプニングもあった。何より、このアカウント名。抹茶ラテはアオイとの共通項。とても深いつながりを覚える単語そのものだった。アオイの影響でいつの間にか自分まで好きになっていた抹茶ラテ。
アオイなの?
体重計を飛び降り服を着替え、マサはアパートを飛び出した。さっきまで晴れ渡っていた空にポツポツと雪が降っていたが、傘すら忘れて直走る。
「店長…!」
数ヶ月ぶりに足を踏み入れたイルレガーメ。自分の代わりに入ったのであろう知らない従業員と、そして期待通りアオイの姿が目に飛び込んできた。店内は寒さをしのぐために訪れた客達で賑わっている。そこそこ忙しそうだった。
「マサ…!」
作業の手を止め、アオイはカウンター越しに出入口のマサを見つめた。驚き、そして、多少の気まずさを漂わせた目付きで。
それも一瞬、アオイはすぐさま接客の顔へ。平然と愛想笑いをしてマサを案内した。他人から見たらいたって平穏な客と従業員のやり取り。マサからしたら、動揺の材料として充分すぎた。あんなに親しかったのだから、すぐに気付いた。あからさまに距離を取られている。
それでも、ここで引くわけにはいかなかった。馬鹿みたいだと自分でも思うが、ツイッターに残されたアオイからのメッセージに奮い立たされここへ来た。楽しく過ごしたここでの日々は、もう二度と戻らない。だとしても、今後はまた別の関係を築いていけるのではないかと希望を持ってしまった。
アオイだって、本当はそれを……。
求めていたのは自分だけではなかった。スマートフォンの画面の中に見つけた言葉が確信をくれた。……だなんて、やはり自分に都合のいい解釈だったのだろうか。アオイはもう、こちらに特別な気持ちなど欠片も抱いていないように見える。それなのに、懸命に働く姿や久しぶりに見る笑顔が可愛いと思ってしまうのだから、かなわない。最後の賭けに出る。
「抹茶ラテ下さい」
「かしこまりました。他にご注文はございますか?」
大丈夫です。
答えようとして、マサは口をつぐんだ。
大丈夫じゃ、ない。
「あと、もうひとつ……。初恋の人をお願いします」
アオイの表情が固まった。
「初恋の人……?」
綺麗な唇が、マサに疑問をつぶやく。
程よく混んだ店内のざわつきがなぜか心地良く、マサのネガティブ感情をほぐしていく。
「ここの店長なんですけどね。誰にでも優しく接する人で、特に男性客に接している時は正直見ていて嫉妬することもありました」
「…………」
「でも、店長が笑うと俺も嬉しくて。本当に楽しそうに働いてるなーって。見てて励まされるんです。このお店は店長の夢だって聞いて、色々腑に落ちたんです。孤独を知っているから人の痛みに気付ける人なんだ。そばにいて居心地がいいんだ。って」
「そんな風に思ってくれてたんだ……」
アオイは困ったように笑いながら、目を潤ませてうつむいた。
「自立できるまで、マサには会いたくなかったのに……」
「俺もそう思ってたよ」
立派な男になるまで。ちゃんとした人間になるまで。アオイには会うべきではない。こんな自分では不釣り合いだ。そんな気持ちで満たされた日も数知れず。
「ちゃんと一人で立てるようになったか、それを確かめてからマサに会いたい」
「罪な人」
「え?」
「こんな言葉送ってきといて、それはひどい」
茶化したように言い、マサはツイッターの画面をアオイに見せた。それは、【抹茶ラテ】がマサに宛てたメッセージ。
《あなたの笑顔で救われた人がいます。ありがとう。気持ち、伝えられるといいですね!》
これは、俺の告白を待ってる。そういうことでしょ? なのに他人行儀な接客をするなんて、アオイはずるいよ。
「マサの言動は、分からないことばっかり……」
エプロンの裾を握りしめ、絞り出すようにアオイは言った。
「私はもう恋愛する資格ないんだよ。それなのにいつも励ましてくれた……。ダメだって思って何度もなかったことにしようと頑張ったのに……」
「本気の恋を消して生きていくなんて、無理なんだよ」
マサはアオイの手にそっと触れた。エプロンの裾をギュッと掴んで離さない手は、マサの手に諭されるようにじょじょに力を緩めていった。互いの指先が絡み、視線も交わった。
「でも、私といると、普通の恋愛には起こらない大変なことがいっぱい待ち構えてるよ。マサには未来があるのに……」
「言われると思った。でも、そんなの関係ないよ」
アオイの言葉は分かる。わざわざ既婚者を選ぶより、独身で年齢も近い相手を選んだ方がずっと楽なのかもしれない。
「仮にそうだとしても。アオイ以上の人がいるとは思えないから」
「マサ……」
「この先どんなとこがあっても、離す気ないから」
人としても、女の人としても、アオイが好き。
もし俺への好意が一時的な気の迷いだとして、アオイが俺に冷める時がきたら、振られてもかまわない。覚悟はできている。
「こんな風に思える自分を、誇りにすら思うよ」
「マサ……。ありがとう。気持ちを聞けて嬉しいよ」
マサの気持ちを本人の口から聞けて、アオイは安心した。ただ、喜んでばかりもいられない。マサに伝えなければならないことがあった。
「マサには言ってなかったけど、ちょっと前に私、離婚したの。そのせいで色んな人に迷惑をかけた。傷つけた。だから、少なくとも向こう一年間は誰とも付き合わず自分を見つめ直す期間にしたい」
「分かったよ。迷惑じゃなければ、待たせてもらってもいい?」
「マサがつらくないのなら。むやみに縛りたくない」
「うん」
二人は再会し、気持ちを確かめ合い、しかし、すぐに交際とはならなかった。アオイの気持ちの整理もある。しばらくは以前の友達関係を続けていく運びとなった。それはギリギリのところで心的距離を保つ交流期間となった。
それから五年――――。
イルレガーメは業績を上げ、今年の春、第二店舗を出店することになった。
「ここまで来られたのは、一緒に働いてくれた皆と、彼のおかげです」
第二店舗となる店内で、アオイは従業員一同の顔を見渡した。その中にはマサの姿もある。大学を卒業後イルレガーメに就職し、アオイの元で更なる経験を詰みながらバリスタの資格を取得、そうして今年、第二店舗の店長としてアオイを支えていく。
「皆さんご存知かとは思いますが、私は学生時代からこちらで働かせてもらっていまして……。新しく建てられたこちらの店舗を任せてもらえるまでになりました。まだまだ未熟者ですが、両店舗共に活気溢れるお店にしていきたいです!」
「マサ君、挨拶はそれだけじゃないでしょ」
従業員として長く働いていたパートの中年女性が顔をほころばせた。マサは照れ笑いを浮かべアオイを見やる。
「あ、はい。実はこの秋、第一店舗店長のアオイさんと入籍することが決まりました。皆さんにはぜひ、式に参加して頂きたいと思っています」
「おめでとう!」
「ここまで長かったね〜」
「そろそろかなと思ってた。良かったね、マサ君!」
従業員が口々に祝いの言葉を口にする。過去、玲奈の騒動で辞めていく従業員もあったが、その後から入ってきた者達は働き心地の良さから長年勤めている者も多く、アオイとマサの関係も知っていた。
周りから見たら長かったかもしれないが、アオイとマサにとってはあっという間にここまで来たという感覚だった。むしろ、隠していた頃の方が時間を長く感じていた。
二人の薬指には、お揃いの指輪が光っていたーー。
互いに秘めていた想いは時間の経過と主に溶け合い、濃度を深めた。そうして、これまでに体感したことのない幸福な時を二人の心に注がせ続けていく。
「好きだよ。アオイ」
「何? 改まって」
「なんか言いたくなった。すっごく」
閉店後の店内。昼間の忙しなさも掻き消え、夜間照明に切り替わった静かな室内にマサとアオイ、二人だけの囁きが響く。二人は目を合わせてくすぐったい気持ちになり、どちらかともなく微笑む。
「ありがとう、マサ。私といてくれて」
「こちらこそ。これからもよろしくね」
凡庸な言葉。ありふれた光景。二人にとっては渇望していた現実だった。
アオイは言う。
「ここまであっという間だったような、長かったような……。不思議な感じだよ」
「うん。だね。でも、俺にとって今があるのは奇跡に思えるよ」
マサは切なげに、愛おしむように、目を細めた。
アオイが離婚した直後からしばらく、二人は友人関係を続けた。ツイッターでお互いの本音のつぶやきを見合ってはいたが、どちらかともなくその話題には触れないようにしていた。その期間は一年ほど。正式に付き合うことになった後、ようやく互いの言動の答え合わせをしてその事実を知った。
その期間があったから、なおさら相手の必要性を感じさせ、なぜお互いが友達ではいられないのか、恋愛関係になりたいのかを考えさせられる貴重な機会となった。
十代の頃。女子とのつながり方を覚えたばかりのマサにとって、恋愛と性は混同しがちであるのに明確な差がある事柄だった。アオイに出会うことでそれらの価値観を崩され、行き場を失いそうになった。アオイとの恋愛も必ず成立すると言われたわけでもなかったので、どうにかそうなれるよう手探りでゴールを探っていたようなものだった。ただひとつ、相手が必要で大切にしたいという感情を支えにして。
アオイもアオイで、しっかりと自立した女性になるべくその期間を設けた。待たされることに疲れたマサが心変わりして離れていくことも覚悟していた。たとえそうなっても出会えたことに感謝し、新しく生き直そうと思った。マサと一緒に過ごした時間を心の支えにして……。
だから。
「今が当たり前じゃないと思えるね」
二人の声が重なった。
「アオイと出会えてよかった」
「マサと出会えてよかった」
「大切にするから」
「私も。生涯をかけて」
「結婚式のリハーサルみたいになってる」
マサが笑うと、アオイも笑った。お互いの微笑む姿をずっと見ていたい。この先も絶やすことなく、かえがえのないパートナーとして。
アオイの頭に今でも時々よぎるのは、元義母の笑顔。最後の言葉。共に過ごした優しい時間。歪だった仁との結婚生活の記憶。それらを内包した今の幸せ。愛おしく、切なく、泣き出したくなるほど大切にしたい目の前の彼。
この人とならきっと、不幸すら乗り越えて行ける。
二人はそう確信していた。先のことなど誰にも分からないし、未来の保証もないけれど。
アオイをずっと大切にする。
マサは思った。いつか自分が恋をするとしたらどんな風になるんだろうと想像したかつての自分。今、秒刻みで恋を感じている。それはとても──。
どれだけアオイのことが大切か。それはきっと、伝える努力をどれだけしても全て伝え切ることはできないんだろうな。
それが、この先マサが心に秘めていく恋の形。色合いを変えて、心の底に柔らかく降り積もる。それは明るい未来に交差した。
【完】
ここ数年、長期間次話を更新できないことも増え、完結も遅くなってしまい、本当に申し訳ございませんでした。
ここまでの長い年月、本作を読み進めて下さっていた方に感謝を込めて。
本当にありがとうございました。




