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秘め恋  作者: 蒼崎 恵生
3/32

らしくない会話


 『二人だけの秘密にしてね』


 口調こそ普段通りサバサバしていたものの、アオイの言葉は甘い蜜のように気持ちの細部にまで絡みつくように感じられ、マサは妙な気分になった。


 それは喜びとも戸惑いとも違う、初めて覚える心地だった。子供の頃、似たような感情を持ったことがある。大人に隠れ同級生の仲間達と小さな悪事を働いた時だ。犯罪と言うほどおおげさなことではないが大人に見つかったら間違いなく叱られるギリギリのライン。取り返しのつかないことをしてしまったという背徳感と、自分の奥底から掘り出された未知の部分に遭遇した快さ。そうした秘密を共有した者同士は、その関係性が友情にしても恋愛にしても親子間であっても連帯感が増し絆も深まると、世間ではよく言う。


 アオイにそんな意図があるのかどうかは分からない。他のバイト達に知られたら印象の悪くなりそうな過去なので伏せておきたい、ただそれだけなのだろう。だからこそ、口止めされることでマサが特別感を覚えてしまったのも否めない。


 なんで俺には話してくれる気になったんだろ。


 アオイの打ち明け話を通じて、バイト先の店長としか見ていなかった女性の人間性を垣間見た気がする。もちろんそれがアオイの全てではないだろう。丁寧な仕事ぶりや好感度の高い接客、柔らかな人当たりも彼女の持ち物だ。しかし、だからこそ、親友を出し抜いた過去を告白するアオイを悪には思えず、むしろ、そうして堂々と汚点を話してしまえる潔さが彼女らしいと、マサはプラスの感情を覚えた。


 普通、そんなプライベートなことバイトに話すか? 店長らしいと言えばらしいけど。根が真面目なんだろなー。俺と違って。当たり前だけど、やっぱりこの人、俺とは違うタイプの人間なんだな。


 その思いは決して否定的なものではなく、むしろそこはかとない親近感をアオイに対して覚え始めた。ほんの数分前まで苦手意識しかなかった相手なのに、それが嘘のように今は彼女への興味関心が湧く。それは、何十年にも渡って水分が枯渇していた泉に突如水が湧き出してくるかのごとく激しい変化だった。


 凝り固まった苦手意識が穏やかに霧散していく。すると、アオイに対する様々な疑問と好奇心がマサを饒舌じょうぜつにさせた。これまでは苦痛でしかなかった二人きりの勤務時間が、今となってはとても好都合に思える。暇ゆえに接客の機会も少なく会話に集中できるからだ。


「内緒にしてほしいのはこっちも同じなんでお互い様ってことで。まあ、俺のことはどこかからバレてもおかしくないんで別に隠す気もなかったですけどね。でも、どうしてそんな話を俺に? 店内で悪評広められるーとか思わなかったんですか?」


「マサ、そんなことするの?」


 思いやるような、それでいていじけたようなアオイの視線にマサはドキリとした。店長のこんな表情を見たのは記憶の限り初めてである。まるで、彼氏に無理めなおねだりをして駄々をこねる少女のようなその口ぶり。気を許した相手にしか見せないであろう女性特有の甘い声音も、理屈抜きにマサの心をくすぐった。


「べ、別に言いふらしたりはしませんけど。でも、最近知り合ったばっかのバイトにする話でもないでしょ」


「そうかもしれないけど……。マサの話が嬉しかったの」


 優しくつぶやくように答えると、アオイは困ったように微笑む。


 俺の話が嬉しかったって、え? どのへんが?


 店長の言葉の意味が、すぐには理解できなかった。


「人の黒歴史が嬉しかったって。店長、サラッとひどいですね」


「ちっ、違う、そうじゃないよっ! ごめんね、言い方間違えたっ」


 テンション低くツッコミを入れるマサに、アオイはうろたえ顔を真っ赤にした。


「そういうプライベートな話をしてもらえたのがとても嬉しかったって言いたかったの!」


 最初からそう言えよっ。グダグダだな!


 心の中で容赦ないツッコミを入れながらもマサの表情はみるみる柔らかくなる。アオイはおろおろと言葉を継いだ。


「マサさ、面接に来てくれた時から何か悩んでそうな顔してたから。私の考えすぎならいいんだけど、最近のマサ見てたらやっぱり心配で」


 再びマサの胸は激しく高鳴った。ここでは極力仕事に専念していたつもりだ。それに、悩んでいても体調が悪くても平然と振る舞うのが得意な方だと思ってきた。それなのにアオイには見抜かれていた。しかも働く前から。


 たしかにその通りで、大学生になってからもイクトとの壊れた関係を憂いていた。高校を出たら一人暮らしを始める。そうやって生活圏が変われば少しずつ過去のことは忘れられると期待していたがそうもいかなかった。


 通う大学は違うし学校同士の距離も離れているのに、イクトとは同じ市内のアパートになってしまった。居住地もわりと近く、互いのアパート間は徒歩十分あるかないかといったところだ。浅い関係ながら親同士にも交流があるのでイクトが一人暮らしを始めるらしいということは春休み中に自分の親から聞いていたが、まさかこうも近所に住まれるとは思っていなかった。賃貸会社の都合やイクトの親の懐具合などなど様々な条件が重なった末の偶然なのだろうが、イクトの執念が引き起こした現象に感じられた。それなので、通学時や夜にふらっと立ち寄る近所のコンビニなどで偶然イクトと顔を合わせてしまう。


 二人のアパートがある地域はコンビニ激戦区である。それをうまく利用してなるべくイクトに会わないよう、マサは毎度毎度違うコンビニに足を運んでみるのに、幸か不幸か気の合う二人は行く先々でしょっちゅう顔を合わせてしまう。そのたびイクトはマサを睨みつけた。それだけならまだマシで、機嫌の悪そうな時には大きな声でわざわざ「げ。最悪」「消えろよクズ」などと言い、舌打ちまで付け加える日もあった。周囲に人がいてもおかまいなしでそういうことをする。イクトの目にはマサしか入っていないかのようだった。人の視線を感じると、マサはなおさら気まずい思いをした。


 リオに対しては納得いかない思いもあったが、イクトに関しては全く違った。どれだけ悪態をつかれても彼を嫌いになれなかったし、できれば和解して前のように仲良くしたいとすら思った。それが無理なことも頭では理解している。しかし、マサはイクトとの友情に未練があった。イクトは昔から何かとマサを助けてくれた恩人で、なのに恩着せがましくなくて、だからこそ人望も厚いのだと知っている。助けてもらったと言ってもそんなおおげさなことではない。宿題を忘れた時に手伝ってくれたり、教師に注意された時にさりげなくかばってもらったり、そういうささいなことの積み重ねだ。最も大きかったのは、仕事で不在がちな両親に寂しさを感じていた時、いつでも遊び相手になってくれたことである。そばに頼れる親戚もおらず自ら積極的に友人を誘うタイプでもなかった一人っ子のマサにとって、能動的なイクトの存在は大きかった。友人の多いイクトにあやかって大勢での遊びにも参加できた。


 おかげで孤独を感じることなく子供時代を過ごせた。イクトがいなければ、自分はもっと心の寂しい人間になっていたかもしれない。大げさかもしれないが本気でそう思っている。


 きっと、イクトからしたら大した行いではなかったのだろう。家が近いというだけで気まぐれにマサを誘っていただけなのかもしれない。彼は誰にでも平等に優しいし情が深い男だ。面倒見もいい。人の悪口や陰口も一切言わなかった。そこまで仲良くないクラスメイトにも明るく挨拶したり気さくに雑談をできるようなタイプだった。


 だからこそ嫌われるのがつらかった。そんなイイヤツに恨まれるのは色々な意味できつい。自分がこれ以上ないほど最悪の人間だと思い知らされる。


 まあ、最悪の人間なんだけどさ。欲求不満だからって普通親友の彼女とヤらないよな。俺だって自分で自分がおかしいと思うよ。イクトがキレるのは当たり前。


 こうなったのも仕方ない。自分のせいなのだから。自分なりに現実を受け止めていたものの、仲の良かった相手に嫌われ続けるのはつらいものだ。もっときつかったのは、大学の仲間達と遊んで帰ってきて帰宅が遅くなった日に、イクトがマサの自宅アパート前で待ち伏せし、待ち構えていたかのようにこんなセリフを放った時だった。


『大学、楽しそうだな。よく平気な顔して過ごしてられるよなって思うけど。あんなことしといて。神経疑うわ』


 マサは何も言い返せなかった。黙り込んで時間が過ぎるのをひたすら待つばかり。そんな自分が情けなかった。イクトがまだリオのことを引きずっているのを肌で感じた。


 悪かったよ。どうしたら許してくれる?


 自分のせいだと分かっていても、かつて仲良くしていた友人にここまで冷たくされるのはけっこう傷つく。


 イクトをこんな風にしたのは俺だ……。


 でも、まだその状況でいた方がマシだったのかもしれない。ある意味それが〝普通〟なのだから。


 去年の夏リオと寝てから、イクトとは半年以上に渡る絶縁状態が続いていた。出先で顔を合わせればことごとく辛辣しんらつなことを言われる。


 そんな関係に変化が起きたのは、アオイの店の面接を受ける前日のことだった。


 あの日は昼間から夜にかけて大学の友人宅でゼミの資料作りをしていて、帰りが深夜近くになってしまった。友人宅で少し眠ったものの頭はぼんやりしていたし、前日もあまり寝ていなかったので一刻も早くシャワーを浴び家で眠りたかった。その矢先、自宅アパート前にイクトが待ち構えていた。この前の待ち伏せの時、マサの実家に連絡してここの住所を聞いたと言う。マサはげんなりした。責められるのは慣れつつあったが、今日はイクトの攻撃をスルーできる自信がなかった。


 ホント今はカンベンして。何か言われたら逆ギレしちゃいそうだから。


 だが、それは杞憂きゆうに終わった。心なしかイクトの表情は明るい。そんな晴れ晴れした顔つきはリオの件があってから見ていない。やや安心していると、その理由がすぐに分かった。


「マサ。今までごめんな。終わったことを色々グチグチ言ったりして。ラインでもたくさん謝ってきてくれたのに、既読スルーの後にブロックしてた。アホだったよな俺。ホントごめん!!」


 マサは呆気に取られた。数日前まで仇に接するような言動のオンパレードだった幼なじみが、今はどういうわけか柔らかな物腰で頭を下げている。腰を深く折って反省するイクトの姿を見て、ようやく自分は許されたのだと思った。そこにいたのは、かつて仲良く交流していた親友そのものだった。


「いや、俺が悪かったんだし、イクトが色々言いたくなるの当たり前だから……。でも、どうして急に許してくれる気になったの?」


「できたんだよ。好、き、な、や、つ」


「ホント!? もしかして同じ大学の子?」


「ああ。さっき付き合うことになってさ。前の恋を忘れるには新しい恋って名言あるだろ。あれホントなんだな!」


「そっか。よかったな」


「てわけで、これからはお互いリオのことは忘れて、また前みたいに仲良くしてくれよな」


「もちろん! 俺もそうしたかったし!」


 イクトとの友情が復活したことを心から喜んだ。しかし、喜びの中にほんの少しだけ猜疑心が生まれてしまったのも否めなかった。


 あれだけ俺のこと嫌ってたのに、新しい彼女ができたからってリオちゃんのこと全て忘れて何事もなかったように振る舞えるもんか? 気にしすぎ……?


 突然のイクトの変化に、正直気持ちがついていかなかった。喜ぶべきことだと思うのに、百パーセント喜びきれない。


 器ちっさいかな俺。イクトは元々ああいうおおらかなヤツだし、一度許したらもう全部水に流せるタイプなのかも。でもなぁ。悪口言われたの、つい最近だしな。いきなり忘れろって言われても……。俺が元凶なのにこんなこと思うの間違ってるかもしれないけど。


 そんなことが頭を巡り、面接を受ける心境ではなかった。それは本当だ。正直バイトすることをやめてしまおうかと考えたくらいだ。しかし、気を紛らわせるために何かをしたかったのも本当で今に至る。


 隠してきた当時の心境。アオイに見抜かれ動揺したが、認めてしまったらイクトへのわだかまりが取り返しのつかないくらい膨らんでしまいそうだった。それだけはいけない。


 また前みたいに、イクトと仲良くしたい。そう思ってきただろ。揺れるな!


 平気なフリで心にふたをし、マサは強がりを言った。


「別に普通でしたよー。むしろ元気しかないっていうか。あの時はたまたま寝不足だっただけで」


「そうなの? でも無理しなくていいよ。私の前では」


「なんですかそれー」


「店長ですからっ」


 おどけて、アオイはわざと胸を張る。


「バイトの子が元気でいてくれるように努めるのが私の役目だからさ」


「そのためなら自分の過去だって必要に応じて話す、そういうことですか?」


「イエス!」


 サムズアップをし、アオイは満面の笑みをマサに向けた。


 それは店長としての微笑みで、それ以上でも以下でもない。理解できる。それでも、今のマサにとっては充分すぎるほど癒される対応だった。大学に入って新たな友達が出来たとはいえ、高校生活の半年ばかりを孤立した状態で過ごした。そんな経験があると、人の優しさや気遣いがいかに貴重なものかを思い知る。だから、大学での友達やバイト先での出会いを出来る限り大事にしたいと思うし、仲良くなった相手を裏切るようなことは二度としないと決めている。


 人の笑顔も、優しさも、当たり前のものじゃない。俺はそう思う。店長ってリオちゃんに似てると思ってたけど全然違う。リオちゃんは自分の非を隠したけど、この人は自分の嫌な部分を認めてさらけ出すこともできる。そうしたのは俺のためだって言ったけど、ただ励ますだけなら適当に話を合わせておけばいいしその方が店長にとっては楽なはずなのに、店長自身のことを隠さず話してくれた。なかなかできることじゃないよな……。


 どちらかと言えばマサはリオ寄りの人間だ。マサだけでなく多くの人々がそうなのだろう。他者から非難されそうな過去を公表するなんてデメリットしかないように思える。その一方で、アオイのような人間もいるとマサは知った。


 時間にしたらほんの数分。短い会話だったが内容は濃厚で、アオイへの評価をみるみる上げていくのに充分な要素だった。それは、アルバイターとして店長を信頼する第一歩になると同時に、アオイに対する個人的な興味をも引き出した。


 この人は親友を傷つけてまで今の旦那を選んだ。どうしてそこまでしてその男がほしかったんだ? 学校にいたら普通にモテそうだし、結婚相手にも困らなさそうな人なのに。その気になって婚活パーティーとかに参加したら人気ナンバーワンの座をかっさらってしまいそうだ。旦那になった男にそうとうな魅力があったとか? 元は店長の親友が片思いしてたってくらいだし、スペック高そう。どんな男なんだろ。やっぱりイケメン?


 アオイの旦那について色々訊いてみたくなったが、さすがに踏み込み過ぎかと思いやめておいた。


 店長がどんな男と結婚してようが俺には関係ないよな。うん。うっかり変なことかなくてよかったー。


 話はいったん終わり。アオイは爽やかに言った。


「これからも何かあれば一人で悩まず相談してね。力になるから」


「ホントですか?」


「もちろん。遠慮なく言ってね」


 そんなのは社交辞令かもしれない。話の流れ上、店長として義務感で言ったのかもしれない。心から出た優しさだとしても、自分だけでなくバイト全員に似たようなことを言っていたりするのだろう。マサはそう思った。ただ、今のマサにとってアオイの言葉は最も求めていた言葉で、現状その言葉にすがりたいのは本当だった。


 イクトに誘われた海でのダブルデート。連れて行く女性がいない今、アオイが適任という気がした。アオイは既婚者なので彼女のフリをしてほしいなどとはさすがに頼めないが、バイト先の店長として来てもらえばいい。歳も近くて見た目も可愛い部類だし、今なら少しだけアオイの性格を知っている。アオイに付き合ってもらえばイクトやイクトの彼女にいい格好ができるし、カップルデートについていって一人間抜けに恥をかかずにすむ。


 でも、それは俺の都合だよな。店長には店があるし、たとえ仕事を休めたとしても何か予定があるかもしれないし……。そもそも旦那が許可するかどうか。既婚者の私生活なんてよく知らないけど、奥さんを大学生の海イベントに行かせる男なんてあまりいないだろ多分。暇だとしても、店長だってさすがに海は嫌がるかも。元カノ達もだいたいそうだったけど、女の人って日焼けしたがらないし。力になるってのはあくまでバイト中だけの話で、プライベートでまで頼ってくんなよって思われるかもしれない。さすがに海はないわー。頼り過ぎ。


 無意識のうちにあれこれ考えていた自分に気付き、マサはハッとした。こんなにも相手の立場や気持ちを考えて慎重になるのは初めてだった。自分が不思議である。これまで何人かの女と付き合い、女の扱いにそこそこ慣れ、サラサラ予定を組みルーティンワークのごとくデートをこなしてきた。その中で、相手の身になって深く思考したことはなかったように思う。あくまで一線を越えるまでのプロセス。上手に美味しい部分だけを掴み上げて楽しみ、そのためだけに丁寧に女と接していただけ。


 店長とは男女の仲になりえない。それに、バイト先の(これでも一応)偉い人だから気を遣うだけだよな。他に理由なんてない。こういう関係の女は初めてだから自分の言動も変わる。それだけだ。年下のバイトとして当たり前の気を遣ってるだけ!


 知らず知らず眉間に皺を寄せているのに気付きもせず、マサは腕組みした。アオイは気遣わしげに、そして明るくマサを見上げた。


「言ったそばから、もう難しい顔してるー。どうしたー?」


「あ、いや……。近々ちょっと面倒な予定があって」


「あー、それは難しい顔にもなるよね。分かるよ。憂鬱だよね」


「あの……」


「うん?」


「やっぱいいです」


「えー? 気になるー。何?」


 そうして微笑むアオイは、やはりいつもの明るい店長そのものだった。客に好かれてバイト達にも好かれて、気さくで、心から仕事を楽しんでいる人間独特の余裕がにじみ出ている。それなのに、マサの目にはまるで違う印象に見えた。


 こんなに可愛く笑う人だった……?


 自分の中に生まれた新しい印象を打ち消すように、マサは思い切って店長を誘うことにした。


「今度、一緒に海行ってくれませんか?」


「おおっ、突然だね。海?」


「例の親友とその彼女に誘われてるんですけど、あいにく今連れてけるような子がいなくて。店長結婚してるし、旦那さんの反対もあるだろうし、海って日焼けするし、嫌なら断ってもらって全然いいんで、どうですかね?」


 我ながらグダグダな誘い方だと、マサは思った。ホテルや自室に誘う時はもっとスムーズに女を誘導できていたはずだ。それに比べたら海なんてハードル低い目的地なのに、なぜこんなにもぎこちなくなるのだろう。


 ヘタクソか。


 無駄な緊張感が湧くわりに、その緊張感の理由も意味も見出せない。バイト先の店長だから妙にかしこまってしまうのだろうか。


 狙いの女を落とすわけでもないのだから別に断られてもかまわないと気楽に考えていたのに、誘った瞬間断られるのがこわいと感じている。断られたらアオイに対して気まずくなってバイトしづらくなりそうだと、根拠なくマイナス思考が働いた。バイトに来られなくなるのは嫌だ。こづかい目当てで始めたバイトだが、ありがたいことに親から充分な仕送りをもらっているので今バイトを辞めたって金に困ることはない。それなのになぜか辞めたくないと思ってしまう。盛り付け方がオシャレで美味しいこの店のメニューとまかないに魅力を感じているのは確かだが、そこまで食にこだわっていたわけでもない。とことん自分が謎だった。


 わずかな沈黙。断られる予感がし、マサはしきりに自分の口元を人差し指の折り目でさすった。気持ちが落ち着かなくなると無意識にやってしまうのだ。


 マサはアオイの顔を盗み見た。彼女の視線は迷うように泳ぎつつ、未知なるものへの好奇の光が見て取れる。それが意外で、そしてみるみる喜びが湧いてきて、マサはジッとアオイの答えを待った。


「それって、私が行ってもいいの?」


「もちろんです…! むしろ来てもらえると助かるっていうか」


「海ってことは、やっぱ海水浴だよね?」


「はい、多分そうなると思います」


 楽しげに尋ねてくるアオイを前に、マサの気持ちは浮上していく。


「いいんですか?」


「可愛いバイト君のためだから。人肌脱ぎましょう!」


「ありがとうございます! 助かります、ホントに!」


 これで、カップルの邪魔をする独り身男子のぼっちルートは回避できた。安堵すると同時に、マサはそこはかとない感謝の気持ちをアオイに抱いた。ありがとうと告げるマサを見て、アオイも嬉しそうに微笑んだ。


「じゃあ、今度の休みに水着買いに行かないとなー。持ってないんだよね、実は」


「そうなんですか? だったら見に行くの付き合いますけど」


「ううん、いいよ。一人で行けるから」


「でも、こっちの都合で来てもらうんだし、そのくらいは」


 先日マサは無事に免許を取り、納車もされた。中古車だし金を支払ったのは親だが、中古とは思えないほど綺麗な状態だったのでお得にいい買い物ができたと満足している。イクトも車を持ったというので、お互い自分の連れを車に乗せて海まで向かい、現地で待ち合わせる予定になっている。イクトのもくろみが透けて見えるダブルデートはやはり気が進まないが、車の運転をすることだけはひそかな楽しみだった。大学までは徒歩数分の距離なので車を出す方が逆に面倒で、普段は徒歩移動ばかりになっている。なかなか車に乗れる機会がないので、なおさら運転したくてウズウズしていた。


「気持ちは嬉しいけど、男の人に見られながら買うの恥ずかしいからさ。大丈夫だよ」


 頬を薄く染め、アオイは照れたように笑った。店長のそんな顔を見ていると、マサにまで照れくささが移った。それに、さっきは年下の子供扱いをしていたのに、今になって突然男性扱いしてくるなんて、その線引きがどこで成されているのか分からないがくすぐったい。決して嫌ではないけれど。


 そっか。見られながら水着買うのって恥ずかしいんだ。


「でも、結局海で見ますよ?」


「そうだけど、それとこれは別なのっ!」


「へえ、そうなんだ」


 アオイの困った顔が見たくて、マサはわざとからかうような口ぶりで言葉を投げる。敬語のみで会話していたこれまでと違い、たまにタメ口を挟めるくらいには心理的距離が近くなった。


 憂鬱だった海イベントが、少し楽しみだと思える。それは全てアオイのおかげだとマサは思った。











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