隠し隠され
「アオイちゃん、最近明るくなったわね」
それは義母の言葉だった。
「仁の顔も柔らかくなってきたし……。二人が上手くいってるみたいで安心したよ」
「お義母さんが無事に退院して下さったからですよ。これからもずっと元気でいて下さいね」
言いながらアオイは思い出していた。
仁との関係が夫婦らしい温もりに欠けているような気がした新婚当時、アルコール依存症を治すため入院中だったこの姑に不安を打ち明けた時のことを。
『お義母さんも知ってるとは思いますが、仁が元々付き合っていた子は私の友達なんです。今でも彼女は普通に接してくれますが、仁の本音が分からないんです。私との結婚、後悔してるんじゃないかって……』
アオイがそう打ち明けると、義母はこう答えた。
『選ばれたのはアオイちゃんなんだから、自信持って。ね? 仁だって、そんないい加減な気持ちで結婚するわけないんだから』
仁をよく知るはずの義母にそう言われてもアオイの不安は晴れなかったが、話すことで多少気が紛れたりもした。本来ならこの手の相談なり不安なりは親友に聞いてもらうものなのだが、アオイはあえて夫の母親を頼った。強引な結婚に後ろめたさもあったし、それだけに、好きな人の肉親とは少しでもわだかまりのない関係になっておきたかった。それに、仁の生みの親に前向きな言葉をもらえれば、胸にこびりついた不安もどうにか消せるかもしれない。
カフェの仕事が休みなので、アオイは今日仁の実家を訪れ、義母と共に料理を作っていた。本当ならマサと休みを合わせて仁の浮気調査をするはずだったのだが、今日入るはずの学生アルバイターが熱を出してしまった。マサも浮気調査には肯定的だが店のことが心配だからとシフトの穴埋めを名乗り出てくれた。結果、予定していた浮気調査は先送りとなり、アオイは義母の元を訪れる流れとなってしまった。
築年数の古い借家の中に、煮物や蒸し物の淡白な香りが広がっている。かつて酒の空き缶やインスタントラーメンのゴミで乱れていた室内は今、最低限の生活雑貨で整然としている。義母が入院中、仁と共に片付けに来たからだ。義母が退院して数日が経ったので、再び乱雑な部屋になっていないかと懸念もあったが、いらぬ心配だった。
「仁と一緒に来られたらよかったんですけど……。今日も私一人ですみません」
「謝るのはこっちだよ。仁も、もうちょっとアオイちゃんに合わせてくれてもいいのにねぇ。いつも仕事仕事って。あの子、お見舞いには何度か来てくれたんだけどね」
仁と共にここへ来たのは結婚してから数回程度だった。今日も、本当なら仁と共に義母の様子を見に来たかったが、彼は仕事である。
「でも、二人が仲良くやってくれてるなら、私は安心だよ。いつでも死ねる」
この世に悔いはないという表情で義母は言う。アオイは怒った顔を作った。
「ダメですよ、お義母さん。まだまだこれからなんですからねー!」
「そうよね。ありがとう。アオイちゃんは可愛いねぇ。本当の娘みたいだよ」
微笑む義母に笑い返しながら、アオイは胸の痛みを覚えた。義母がようやく元気になり、仁の長年の気がかりが消えて、自分達夫婦はこれから未来に向かって歩いていく。今はそういう希望に溢れた時期のはずだった。けれどもう、仁との未来に明るい色は見出せずにいた。
今、私を支え、心を彩ってくれるのは……。
マサに会いたいと思った。既婚の身で彼とどうこうなろうだなんて身の程知らずな願いは持っていない。ただ、彼の顔が見たい。
なんでだろうね。マサのことを思うと気持ちが明るくなるんだよ。
それに、最近明るくなったのは、ある意味で仁との関係に諦めを覚えたからだ。こちらがどれだけ望もうと、仁との関係は前に進まない。それだけは分かる。彼の気持ちはこちらにはない。夫婦としてやっていく分には問題ない程度に彼は優しいので、それだけが救いかもしれない。
「美味しい! さすがアオイちゃんね。当分のおかずになるし、助かったわ。ありがとう」
もうすぐ仕上がる煮物の味見をし、義母は笑った。それを見てアオイは安堵した。そして思った。こちらの胸の内を義母だけにだけは悟られてはいけない、と。自分が仁の妻である限りはーー。
「アオイ休みかー」
客足が途絶えた昼下がり、店内のテーブルを拭きつつ真琴が言った。マサはそれに目だけで反応した。店長にだって休みはある。とはいえ、アオイの姿がない店内はマサにとって物足りなかった。自ら進んでシフトの穴埋めを申し出たものの、正直言うとアオイがいるのといないのでは仕事のモチベーションもだいぶ違ってくる。
今頃アオイが義母の所へ行っていることを真琴は知っていたが、その件には触れなかった。マサと二人のシフトである。彼の気持ちを知っている身としては、黙って見守っていきたい。それに、近頃アオイとマサの関係は緩やかに親しさを増している感じがする。両者から話を聞いたわけではなく、あくまで見ているだけの感想に過ぎないが。
真琴は尋ねてみた。
「マサ君、いいことあった?」
「いえ。何も変わらないですよー」
マサは嘘をついた。本当は嬉しいことがあった。ひょんなことからアオイと連絡を取り合えるようになった。個人的な連絡先を交換しあったのはアオイの旦那の浮気調査のためだが、そのわりには一日に数回、たわいないやり取りがされた。はじめの頃は、互いに様子を見合っていたかのように、朝の挨拶や労働を労うポツポツとした言葉のやり取りに終始していたが、この頃はさらに進化して、ややプライベートな内容のラインが届いたりもした。あちらから送ってくるのならこちらからも踏み込んだことを訊いてもいいような気がして、マサもその流れに乗った。
少し前では考えられない変化だった。スマートフォンを見ると、たいていアオイからのラインが入っている。それがマサの幸福感に大きく影響していた。
休憩時間になったので、マサは真琴に一言告げてスタッフルームに入った。待ちわびたようにロッカーを開け自分のスマートフォンを取り出す。やはりというべきか、そんな予感はしていたが、アオイからラインが届いていた。送信時間はほんの数分前。
《今日はシフト入ってくれて本当にありがとう!》
《せっかくの休みだったのにごめんね》
《マサって、里芋好き?》
これまた唐突な質問だった。なぜ里芋? 無意識のうちに緩む頬。口元が笑みをかたどった。里芋に対して好き嫌いを意識したことはないが、食べれなくはない。むしろ、あのねっとりして柔らかい食感はわりと好きかもしれなかった。
好きだよ。
一言そう返そうとして、やめた。まるで告白みたいなセリフだ。気にしすぎかもしれないが、多少仲良くラインを送り合う仲になってもなお、そこまであからさまな好意の言葉をアオイに向かって放つことはできなかった。単純に、恐かった。送ってみたところでこちらの気持ちを悟られたりなどしないだろうが。万が一気持ちがばれてしまったら? そう考えると、やはり、恋愛色のする単語の使用には慎重になる。
《食べれるよ》
そう打ち直し、返信した。二、三分して、アオイから再びメッセージが届いた。
《よかったー!なら明日持ってくね!》
休みの日にわざわざ里芋の料理でも作っていたのだろうか。それとも、店に出す試作品ということか。
さすがにカフェメニューに里芋系料理の追加はないか。いや、分からないけど。
アオイのラインに和みつつ、休憩中の定番となっている抹茶ラテを飲んだ。バイト中にアオイと会えなくて寂しくはあるものの、こうしてラインできるだけで満足かもしれない。
ただ、いつまでもこうして平穏なやり取りをしているわけにはいかない。本来の目的であるアオイの旦那の浮気調査を、近々しなければならない。人の尾行など人生で一秒たりともしたことのない自分に、他人の素行など追跡できるのだろうか。マサは少し考え込んだ。
それはないと思うけど、もしアオイの旦那が浮気してたら……?
アオイの悲しむ顔は見たくない。だけど……。彼女が自由の身になったところを想像してみたら、体が途端に軽くなった。開放感に限りなく近い高揚。そして、ハナから諦めていた〝希望〟。もしアオイの旦那が不義理を働いていたら、手に入らないはずの未来がこの身に訪れたりするのだろうか。
アホか。んなわけないって。
脳裏に溢れそうになる幸せな妄想を瞬間でかき消すため、マサは両手で髪を乱した。アオイの笑顔のために協力する。そう決めたはずだ。それなのに、彼女が傷つく結果を想像するなんて。
アオイの不幸を願うわけじゃないけど……。
もし旦那が浮気をしていたら、アオイの結婚生活は百八十度変わってしまうはずだ。そうなれば、今のように明るく可愛い彼女ではいられなくなるのかもしれない。だとしても、夫婦間に隙間ができたら、こちらにも入り込む余地が生まれるかもしれない。
だから、そんなの望んだらダメだって!
必死に悪い感情を抑え込む。自分に嫌気がさした。連絡を取り合い、異性を意識しない友人として付き合っていくだけでいい。そう思っていたはずだ。その気持ちを思い出そう。葛藤から逃れるように、アオイが作った里芋料理の予想を、頭の中で繰り返した。
義母の家を出て自宅に戻ったアオイは、仁の帰りを待つ間、義母宅から持って帰ってきたおかず入りのタッパーをいくつか空けて時間を潰した。今日食べる用に二人分の皿に盛り付け、残りは明日マサに食べてもらうように別の弁当箱に詰める。
多少彩りが良くなるよう、冷蔵庫の野菜を適当にカットしサラダも作った。こういうことをしていると仕事先にいるような錯覚を、一瞬だがしてしまう。
自分の気配しかない静かな屋内。もし今自分が独身だったら、孤独な自由など感じずもっとのびのびできていたのだろうか。
アオイは想像してみた。仁と結婚したのが自分ではなく玲奈だったら。彼は極力家を空けずに玲奈の待つ家に帰ったのではなかろうか。あの二人の関係は自分が引き裂いたのだ。再び繋がることはない。なのに、どうにも、目に見えないそれこそ運命の赤い糸とやらで繋がっているような気がしてしまう。
もしかしたら、今日も仁は私の起きているうちには帰ってこないかもしれない。
もはや日常となりつつある渇いた孤独。それを打ち消すように玄関先で物音がした。合鍵で鍵を開け、ゆっくりこちらへ向かってくる仁の足音。アオイは動揺した。夕焼けを消しかけている夜空が窓越しに見えた。まさかこんなに早く帰ってくるなんて。アオイの気など知らず、仁は穏やかな様子でダイニングに現れた。
「ただいま。今日は母さんのとこに行ってくれてありがとう。行けなくてごめんな」
「お義母さん、すごく元気だったよ。仁も近いうちに顔見に行ってあげて?」
「分かった。お、美味そうだな。煮物?」
仁はダイニングテーブルの椅子を引いた。
「うん。お義母さんと一緒に作ったの。スーパーで野菜が安かったからたくさん買ってきたんだって」
「そうなんだ。母さんの手料理なんていつぶりだろ……」
感慨深く、仁はつぶやく。
「母さんあんなんだったから、家事はほとんど俺がしてたしな」
「だいぶ回復したみたい。本当によかったよ」
「アオイのおかげだな。感謝してもしきれない」
「ううん。そんなの気にしないで。夫婦なんだから」
仁との結婚も、お義母さんの入院手続きも、私が好きでやったこと。
たしかにそう思っていた。強く強く。けれど今はその半分も気持ちがこもらず、それをごまかすように夫婦という単語を口にした。そうしなければ、自らが敷いたレールを見失ってしまいそうだった。
アオイの盛り付けたテーブルのおかずを次々口にし、仁は頬を緩めた。
「さすがアオイの手料理だな。うまい!」
「お義母さんも色々やってくれたよ」
「どうせ味見係だろ」
「野菜の皮むきもしてくれたよ」
アルコール依存症を回復させた今は、慢性的な手の震えで料理を作れなかった義母もピーラーを握れるまでになった。
「でも、味付け全般はアオイだろ。食べたら分かる」
「口に合ったならよかった」
「美味しいよ。さすがプロだな」
意外にも褒められ、アオイは内心動揺した。ごまかすために軽く微笑む。すると仁も同じように笑みを返してきた。
家事はいつもハウスキーパー任せで、新婚にも関わらず手料理などあまり振る舞ってこなかった。仁が浮気しているのだとしたら、そういった自分の振る舞いも原因なのだろうか。マサは気のせいだと言ってくれたが、アオイはどうしても、仁に対する疑念を晴らせなかった。
あの日、映画をドタキャンして本当はどこへ行ってたの?
前の自分だったら、仁にそう尋ねてしまったかもしれない。けれど今は、そこまでの熱は湧いてこなかった。
あんなに好きだったのに。
家族としては好きなのだと思う。けれど、男女の関係かというと微妙だ。かつては仁に触れてほしくて仕方なかったのに、今は触れられないことに安心している。放っておかれることに安堵さえする。
「ごちそうさまでした。皿は洗うから、置いといていいよ」
「ありがとう。そうするね」
「じゃあ、先に風呂すませてくる」
「うん。いってらっしゃい」
今日は仁が優しい。そういう雰囲気が好きだったはずなのに。
仁が浴室に向かってしばらくすると、アオイは言われた通り食器をシンクに持っていって、寝室に入った。まだ仁がこちらに来ないことを確認し、彼が脱いだスーツの上着のポケットを調べた。何も出てこない。浮気の証拠になる物が何かしら出てくると思ったが、特にそういう物は見当たらなかった。ホッとしたような、ガッカリしたような、不思議な気分になった。財布の中を調べてみる手もあるが、そこまで情熱的にもなれずやめた。
仁と入れ違いでアオイは風呂に入った。風呂から出て寝室に入ると、仁はすでに寝息を立てていた。おやすみと小さく声をかけ、アオイもベッドに横になる。マサの顔が浮かんだ。今頃彼も眠っているだろうか。静かに夜が更けていった。
翌日、アオイは仕事先でマサと顔を合わせた。久々というわけではないのに「やっと会えた」と思った。
「昨日はシフト入ってくれてありがとう!」
「どうせ暇だったんで大丈夫ですよ」
「休憩室の冷蔵庫に例の物があるから、良かったら食べて? 口に合わなかったら置いといていいから」
「食べますよ。店長のなら大丈夫でしょ」
「プレッシャーだなぁ」
ようやくマサと普通の会話を交わせる仲になれた。彼がバイトに来たばかりの頃からは考えられない変化だ。アオイは嬉しくなる。それから二時間が経ち、それまでまばらだった客足はいったん途切れた。
「今日はあんま来なさそうですね、お客さん」
「そうだね。今のうちに休憩入ってくれる?」
「分かりました」
マサがスタッフルームに足を向けた時、店の出入口が開き一人の女性客が入ってきた。アオイは反射的にそちらへ行き、その客を席まで案内しようとした。なんとなくそちらを向いたマサは一瞬固まった。
「お一人様でしょうか?」
「はい」
「当店は全席禁煙となっておりますが、よろしいでしょうか?」
「タバコ吸わないので、大丈夫です」
「恐れ入ります。では、こちらへどうぞ」
アオイに案内されて席へ向かう女性客を見て、マサは目を疑った。
「リオちゃん?」
休憩を取ろうとしていたことも忘れ、その場に立ち尽くす。アオイは両者の顔を交互に見て驚きを示した。
「もしかして、マサの友達ですか?」
リオはにっこり笑って、答えた。
「はい。マサ君とは高校の同級生なんです。とてもいいお店だってマサ君に聞いて、来てみたんですよ。本当に、雰囲気いいですね」
「そうだったんですね、ありがとうございます」
アオイは精一杯、笑顔と平静さを保ったが、内心は穏やかではなかった。確かなことは分からないが、マサの様子を見てみても、目の前の女性とマサが単なる同級生とはとても思えなかった。




