加速していく微熱
電話の主がリオだと分かった瞬間マサの肌は粟立った。高校時代の不快な思い出が脳裏に広がっていく。
今さら何の用事だ?
「どうしてこの番号……」
そう訊くのがやっとである。
『イクトに教えてもらったの』
「イクトに?」
かなり驚いた。リオは今でもイクトと連絡を取り合う仲なのか。
俺が言うのも何だけど、あんな別れ方しといてよく関わっていられるよな……。
喉元から飛び出しそうになる気持ちを何とかこらえ、リオの言葉を待った。
『マサ君と話したいことがあったんだ。イクトとも連絡取るのは久しぶりなの。別れてから全然だったから』
そうなんだ。だよね。なるほど。
別れてからも連絡を取り合っていたわけではなく、リオはマサと話すためにイクトを頼った。そういうことか。本当のところはどうか分からないが、今は深く突っ込まずにおこうとマサは思った。
で、何を話せばいいの?
リオから電話がきたことへの驚きは早くも気まずさに変わる。
イクトの件で孤独な高校時代を過ごした。そのことについては自分にも非があるし反省もしたが、アクションをしかけた当事者とも言えるリオは誰にも悪く言われることなく平穏な高校生活を送っていた。そのことに、当時は少なからず不平等を感じた。今さら彼女を責める気にはならないけれど。
出会い頭からアオイに苦手意識を抱いていたのも、リオの件が原因だ。そのことをネチネチ思い出してしまうのは小さい人間のようで嫌なものだが、あの後何のフォローもしてこなかったリオに対し、当時の不快感を思い出してしまうのも仕方なかった。
過去のことなんか忘れたフリで明るくしゃべれたらかっこいいんだろうけど。なんとなくそんな気分にもなれないというか。どうしたものかなー。
それともうひとつ、リオに対して友好的に接すれない理由がある。アオイがいるからだ。高校の頃だったら、孤独感も手伝って多少はリオの接近に喜んだかもしれない。こんな自分に話しかけてくれて嬉しい、と。しかし今はどうしてもそんな心持ちにはなれない。アオイとは付き合っているわけではないので、こうして異性の知人と電話するくらい浮気でも何でもないのだが。単純に、リオと会話するモチベーションが持てないのである。
リオちゃんのこと、正直もうどうでもいいかなー……。
気まずさを超えると、妙に落ち着いた心地に切り替わる。
「何の用?」
マサは無意識のうちに淡々とそう返していた。リオの用件が何なのかさっぱり分からないが、今はさっさとこの電話を切り上げてアオイと行う尾行作戦について頭を使いたい。
マサの素気無い様子に、リオは明らかに動揺した。
『用事っていうか……。マサ君が怒るのも当然だよね。高校の頃、私がしたこと考えたらさ』
リオはいじけたような口調になった。マサにもう少しは温かい対応をしてもらえると期待していたのだろうか。動じずマサは平坦な声で答える。
「別に怒ってないよ。今ちょっと忙しくて」
『そうなの? 大学は休みだよね?』
「バイトしてるから」
答えつつ、リオが自分の進路を知っていたことをマサは意外に思った。イクトにでも聞いたのだろうか。リオも大学に進んだのだろうか。いくつか疑問が湧くものの、世間話的に尋ねる気にもならなかった。高校時代、親友を裏切ってしまうほど可愛いと思っていたはずの相手なのに、今はリオに対して何の興味も湧いてこない。
『えー! マサ君がバイトー? 意外!』
「そうかな。けっこう楽しいよ」
確実に、リオとの電話をつまらないと感じている。にも関わらず、バイトの件を口にした瞬間、嘘のように気持ちが高揚した。バイトと言えば、どうしたってアオイの存在が脳内を占める。
『そうなんだー。何のバイト?』
「カフェだよ。個人経営の。皿洗いとか接客したり、軽食作ったり」
『へえ。なんか楽しそう』
「楽しいよ。一緒に働いてる人もお客さんもいい人ばっかだし」
『やっぱり人間関係って大きいんだねー。何てお店?』
リオは意外と話に食いついてくる。どんなささいなことでも店の話は楽しいので、マサは何の警戒もせず店の名前を教えた。
アオイに関する話題は、どんな特効薬より効くらしい。マサの気持ちを穏やかにしてくれる。全然乗り気になれなかったリオとの電話に、少しは社交辞令を交えてもいい気がしてきた。
「そういえば、リオちゃんは大学行ったんだっけ?」
『うん。地元の国立。今は私も夏休み』
「リオちゃん頭良かったもんねー! さすが!」
『そんなことないよ。でも、ありがとう。あのさ、今日電話したのは、話したいことがあったからなんだよね』
社交辞令からの軽やかトーク。その波がプツリと途切れた。意味ありげな沈黙に、マサはやや身構えた。
「なになに!? 勧誘ならお断りだよー。壺とか買わないよー」
笑いを交えて冗談を言うことで緊張をごまかそうとしてみたが、マサのはぐらかしを遮断し、リオはきっぱりと言った。
『今日電話したのは、謝りたかったから。高校の時のこと』
「そんなことー? 全然気にしてないってー。イクトとも今は普通に話せるようになったし」
高校時代と同様、軽やかなノリで返した。もうこのまま、リオとの過去を水に流してしまってもいい心境になっている。アオイ効果はやはり絶大だ。
恋って、どんな痛みも忘れさせてくれるんだな。
内心アオイへの恋心をしみじみ噛みしめていると、リオは安堵の声で言った。
『そっか。イクトと話せるまでになったんだね。私のせいで二人がしゃべらなくなったの、ずっと気になってたから……。本当によかった』
「心配してくれてたんだね、ありがと。でも、本当にもう気にしなくていいから。元はと言えば俺が悪いし」
『マサ君……。ありがとう。恐かったけど、やっぱり電話してよかった』
それから一言二言交わしてリオとの電話を終えた。電話帳に追加したせいか、自動的にラインの友達欄にもリオの名前が追加されていた。それには構わず、すかさずアオイにラインした。
《さっき帰ったよ。アオイは無事に家に着けた?》
既読はつかない。しばらく送った画面のままスマートフォンをリビングに放置し、マサはシャワーを浴びに浴室に向かった。
マサからのラインで、アオイは牛乳を飲む手を止めた。胸の発達には牛乳がいいと聞いてから毎晩のように牛乳を飲んでいるが、効果のほどは分からない。成長期を過ぎてしまったささやかな胸が微妙に切ない。
《無事に着いて、水分補給中〜。今日は色々ありがとね》
ラインを返し、残りの牛乳を一気飲みした。弾む鼓動をごまかせない。これまで女性として適度に保たれていた美意識は、最近になって過剰になっていた。肌にいいこと、健康になれる食材、そういった美容情報に敏感になっている。牛乳を飲む習慣もその一環だ。
「少しは痩せたかな?」
全身鏡の前に立ち、左手の指先で右手の二の腕のぜい肉をつまんだ。前よりたるみがなくなっている。
「やった!」
マサは何も言わなかったが、海に行った日以来、アオイは自分の体型を気にするようになった。自分はマサの目にどう映っているのか、そればかりが気になってしまう。
今日、旦那のことで相談を持ちかけたのも、マサと仲良くなるための口実だった。単なる店長とバイトの関係を超え、友達より先の、深い関係になってみたかった。不倫する気はない。しかし、そこに片足を突っ込まずにはいられない衝動があるのも確か。
「マサ、私はやっぱりダメ人間みたい」
今夜も仁の帰りは遅くなりそうだった。ラインすら入ってこない。それらの要素が結婚当初は寂しくて仕方なかったのに、今では心の安寧すらもたらす。これはどういうことなのか。アオイは答えを出したくなかった。理由はすでに分かっていたのに。
「自由と自己中は紙一重だね」
つぶやきは、一人きりの空間に儚く消える。努力と罪悪感で成り立っていた日常に身を置きすぎて感覚が麻痺してきたのかもしれない。満たされない暮らしの維持は、やはり無理が出てくる。時には高揚感と甘美な味も必要だ。でないと壊れてしまう。
少なくとも、私は欲しい……。
報われていると感じたい。ここにいてもいいのだと思われたい。強く強く必要とされたい。誰かの心に影響を与えたい。その相手が手の届く距離に現れた。それだけのこと。
死後の世界があるとしたら、きっと私は地獄に落ちるねーーーー。
そう思っても、捨てられない明確な気持ちが胸の奥に芽生え、日毎に勢いよく育っていくのが分かった。




