打ち明け話
自分のせいで漂った気まずい空気に耐えられず、マサはアオイに謝ることにした。
「最低っすよね、こんな話。すいません。変なこと話して」
「全然! それはかまわないけど……。大変だったんだね」
否定とも肯定とも取れる視線で、アオイはマサを見つめる。
「ははは。恨まれるの当然なんで別にいいんすけどねー」
気持ちとは裏腹に、マサは明るい声を発してしまう。いたたまれない。軽い口調にあえて軽薄さをにじませてみても、罪悪感や気まずさは拭えなかった。息をするのもやっとである。
この感覚は、多分一生忘れないな。
この件を当事者のイクトに知られた時の感覚を、今まさに追体験している。そんなマサの心境にまで想像が及ばないのか、はたまた反応に困っているのか、アオイは上気した頰をそのままに、困惑を隠さない視線をカウンターテーブルに固定させている。
夕方前から夜までのわずかな時間、店内の客足は一時的に落ち着く。土日はひっきりなしに客が来るが、平日だとぽっかり暇が出来る。夏休み期間中もそれはだいたい同じで、たまに外国人観光客なども来たりするが、それ以外は特に普段と変わったところもなく、まったりできる余白の時間が訪れる。特に人手もいらないので、そういった時間帯は大抵マサとアオイの二人きりで店を回している。マサが休みの日は他のバイトが同じようにアオイと二人きりのシフトになっている。
いつも思うのだが、今日もそう。朝から夜までの通し勤務をしているマサにとって、アオイと二人きりにされてしまうこの時間が最も苦痛だった。苦手なタイプを前に気の利いた雑談をして場をやり過ごすという処世術を、マサは持ち合わせていなかった。
何とも思っていない人の前でならもう少し気を遣ってもいいけど、なんかこの人にはそういう上辺だけのやっつけ対応が通じなさそうっていうか。下手したら墓穴掘りそうだし。だったら何もしない方がいいよな。
心の中で、アオイに絡まない理由を探し言い訳してみてもマサの苦手意識は薄らぐことなく、むしろ肥大していく。アオイは当たりの柔らかい人だ。接客態度についても客からしょっちゅう好意的な感想をもらっている。こんなにいい人は、そうそう出会えるものではない。なのになぜ自分はこの女性が苦手なのか、マサはやはり分からなかった。
苦痛の二人きりを、いつもなら適当な雑務を探したり接客をしてやり過ごすのだが、今だけはどれも効果がないような気がした。
店長、その顔なんだよ。軽蔑したならしたってはっきり言えば!? 親友の彼女とヤるなんて最低最悪だって思ってんだろ。別に俺、アンタに嫌われたって痛くもかゆくもないし。てか、こっちはアンタのこと嫌いかもだし。
無言の時をただ気まずく感じてしまうマサは、それが自分の発言のせいだということも棚に上げ、次第に苛立ち始めた。適当に布巾を濡らし、汚れてもいないカウンターテーブルを拭くことでイライラをごまかそうとする。腹の底が焼けるように熱い。
親友の彼女とどうこうなったーなんてどこにでもある平凡な話なんだろうけど、すでに旦那のいる人妻には無縁のものだろうな。……だからって、優等生ぶって当たり障りない返答してくる店長もどうかと思う。そう、そうだよ。この人のそういうとこが嫌なんだよ。二十三年も生きてたら人の汚さとか絶対持ってるはずなのに、シレッと隠し通して善人面してる感じ。気にくわないんだよなー。
布巾を持ってテーブルを左右に滑るマサの手つきは不自然に力強く、それが苛立ちから来ていることを察したのか、アオイは恐る恐るといった口調でようやく言葉を放った。
「マサの親友からしたらショックなことだったかもしれない。でも、マサにもワケがあったんじゃないの? 親友の彼女にわざと近付くような子には見えないから」
むやみにテーブルを拭くマサの手がピタリと止まる。大人びた言葉だった。少なくとも今のマサにとっては。聖人君子ぶっているように見えるアオイの口からそんな言葉が出るとは思わなかったのだ。マサの中に、その言葉を受け入れる心地が整っていく。しかし、受け入れてもらえたことによる安堵感だけではなく、マサの心の片隅にはわずかな違和感も芽生えた。
子?
五歳年下の男に対するその表現が、引っかかる。お互いそこまで年が離れているわけではないのに、微妙な部分で年下扱いされた気がした。そこでツッコミを入れようものならそれこそ子供じみていると思われそうだったのでグッと言葉を飲み込み、あえて流すことにした。
「えー? そんなイイヤツに見えますー?」
無意識に声がうわずる。アオイの予想外な反応に、マサは少なからず戸惑ってしまった。
「意外すぎて逆にこっちがビックリしますってー。だって、このこと知ってる周りの知り合い、百パーセント引いてたし」
話すつもりのなかったことがマサの口をついて出る。どうにかしてこの話をやめたいが、同時に話してしまいたい衝動にも駆られ、マサはアオイから目を離せなくなる。彼女もまた、一従業員のマサの言葉を待っているように静かに彼と視線を合わせた。
「子供の頃から仲の良かった幼なじみがいるんですけど、そいつの彼女だったんですよ、ヤッた相手。発覚して噂になってから皆俺のこと避けてたから、残りの高校生活ぼっちになって」
イクトとは高校まで同じ学校だった。人から話しかけられるまで何もしないでいるマサと違い、イクトは自ら社交的に振る舞い仲間を作っていくタイプで、その行動力と明るさはイクトを学年の人気者にした。校内のどこを歩いていても友達に声をかけられる。
そのような学校生活を送っていれば当然と言うべきか、イクトには恋愛系の噂がひとつふたつ囁かれるようになり、中学生になる頃には彼女を作って別れ、また彼女を作り別れ……を、繰り返していた。高校生になってもその調子が続いた。
いくら学年の人気者とはいえ、純愛主義とは限らない。そこはイクトも思春期真っ只中の一男子高生だった。恋愛感情など知らず欲望だけで女子を見ていた部分があった。マサにもその気持ちは理解できていたのでそのことでイクトを咎めることはなかったし、むしろ自分も女性に対して欲が先走る方だったのでイクトに対し妙な仲間意識すら覚えたものだ。男ってそんなもんだよな、と。
高校生になりマサはバイトを始めた。自由に使える金が増えると身だしなみに気を遣った。それは無意識に女子の視線を意識したいわゆるモテるための手っ取り早い手段。その甲斐あってか、マサに興味を持って近付いてくる女子が一定数現れるようになり、マサにもついにイクト同様、彼女を作れる機会が何度も訪れた。
初恋などという感情は知らず、ただ好かれるがままに相手を受け入れ、合わなければ別れた。そしてまた別の誰かと付き合う。デートは模範的なものだった。カップルに似合いのやけにカラフルなショッピングモールや女性受けするカフェ、雑貨屋、テーマパーク。休日私服でデートする時は、最後に必ず安ホテルに足を運ぶ。金がなければ夜の公園で彼女の肌に貪りついた。夜が作る遊具や高木の影はわりと穴場で、案外人目につかない。人の気配がすることもあるが、見られてしまうかもしれないというスリルが即興奮の材料に変換されるので問題ない。むしろそれが良かった。
内から熱く燃え上がる欲の波を野放しにした瞬間、このために自分は女を求めるのだと実感した。一方で、頭の片隅では淡々と自分を観察してみることもあった。
こんなものか恋愛って。ん? これって恋愛か? なんか違うような気もするけど、まあいいや。考えるのダルいし。
そんなある日、マサに何度目かの別れが訪れた。長期間彼女が途切れなかったせいか、別れて数日間、暇と欲望を持てあます。
社会人ならいざ知らず、高校生の自分が欲求を満たせる場は限られてくる。大金を持っているわけでもない。もんもんと日々が過ぎる。体を突き破りそうな欲が内に横たわっているにも関わらず、こちらから適当な女性を積極的にナンパする度胸も湧いてこなかった。女性ウケの良かったこれまでの自分。良くも悪くも、女性から迫られる経験ばかりが積み重なり受け身体質が出来上がっている。
誰でもいいから抱きたい。いや、誰でもいいは嘘。好みの子がいい! 可愛い子が通学途中の道端で自動的に一目惚れしてきてくんないかなぁ。
そんな都合の良い相手がいたら誰も苦労しない。頭では分かっていたが、自分の欲に飽きるほどのため息をついてもなお、女の肌を求めてしまう自分がいた。どう抑えていいのか分からない。生身の性行為を知らない頃だったら一人遊びでそこそこ満足できたが、女性の体を一定数知ってしまった今とても贅沢な感性になってしまったらしく、自分の慰め方では物足りない。
でも、そういうことする前、女子って絶対恋とか愛とか説明の難しい単語を持ち出してこっちの気持ち確かめたがるよね。アレ何なんだろう。正直こっちはそんなのどうでもよくて、とりあえず気持ちよくなりたいばっかり。パパッとさ。ヤる前に少女漫画みたいなセリフ考えるのけっこう面倒なんだよね。そうしないとさせてくれないから必死にそれっぽいこと言うけどね。いっそ、ジュースやお菓子みたく、欲しくなった時に都合のいい子をコンビニとかで買えたら便利なのに。ま、無理だろーけど。
いけない。思考が犯罪のにおいを帯び始めている。極端な思考をしてしまう自分に危機さえ感じた。このままではまずい。理性を保つために勉強や早朝ランニングに挑戦したが三日と続かなかった。趣味もない。解消の手立てがなく、欲求不満は頂点に達しようとしていた。そうしてとうとう、授業中、近くの女子からいい匂いがして体が反応してしまった時は、そこから消えたいと思った。涙が出そうになる。どうにかしてこの苦しさから解放されたい。
くだらない、馬鹿げている、それでいて切実なマサの願いを見透かしたかのような怖すぎるタイミングで、当時イクトと交際中だった同じ学校のリオに接近された。リオは有名美少女アイドルグループの誰かに似ていると近隣校でも知れ渡っており、イクトと付き合ってからも何人かの他校生に声をかけられていた。リオ本人は一途な性格で、少なくとも〝その時までは〟イクト一筋だった。
リオはイクトのことで悩んでいた。相談するならイクトのことを最も良く知る相手がいいと考え、イクトと縁の深いマサを校門で待ち伏せていた。リオはイクトやマサと同じ高校の同級生だが、彼女だけクラスが違う。時々廊下ですれ違ったりするしモテる子なので顔くらいは知っていたが、マサが彼女と言葉を交わすのはその時が初めてだった。イクトは恋愛事でオープンな反面変なところで秘密を持ちたがり、マサに直接リオを紹介したりすることは一切なかった。
リオの待ち伏せに、マサは不覚にも緊張し別の意味で期待を持ってしまった。自意識過剰と言われればそれまでだが、この時にはもう自分が女子にモテるタイプであることを自覚しつつあった。リオは学年の人気者。顔も性格も人当たりも良く、男女共に人気の高い、非の打ち所がないパーフェクトな女子だった。イクトに片思いしていた女子達はイクトとリオが付き合ったことにショックを受けつつ「あの子なら仕方ないよね」とすぐさま諦めモードになり、リオに対し嫉妬ゆえの総攻撃をすることもなかった。リオの日頃の行いが良いからだろう。
ショートヘアの外見も手伝って一見サバサバして見えるが、リオには妙に色気もあった。近くで見たら特に分かる。水で濡れたような自然な唇の艶に、マサも思わず目が釘付けになってしまった。
そういうこと興味なさそうな顔してるけど、やっぱりイクトとはもうシてんのかな。シてんだろうなー。なんか嫌だな。想像したくない。
リオの唇を流し見て真っ先にそんなことを考えてしまった。男なら誰だってそうだよねーと軽い調子で自分を擁護しつつ、親友の彼女にそんな目を向けてはいけないことも分かっていた。
相談にはしっかり乗ろ。俺はイクトの幼なじみなんだから。それで彼女は頼ってきたんだから。それ以上でも以下でもない!
懸命に健全な親友のフリをした。
「どこで話す? 相談ならイクトやイクトの知り合いとかに聞かれたくないよね?」
「じゃあ、マサ君ちでもいい?」
「え、俺んち!?」
この子、その気のないフリして遠回しに誘ってる!?
マサはそう思ってしまった。自分が欲求不満だから都合よく考えてしまうのかもしれないが、それにしても急に室内だなんて、リオのチョイスはおかしいと思う。単に恋愛相談なら別に部屋まで行く必要はない。ファーストフードやファミレスやカフェの禁煙席、密室がいいならカラオケで充分じゃないか。彼氏の親友相手とはいえ、よく知らない男の家に行きたがるなんて普通ではありえない。少なくとも、男の感覚から見たら素っ頓狂な提案だった。自室だなんて、完全にこちらのテリトリーになる。彼女にとっては身構えるシチュエーションではないのか。
「ごめんね。やっぱりダメだよね……?」
リオは上目遣いにマサを見つめた。その視線はあざといほどに愛らしく、簡単にマサの理性を遠くにやってしまう効果があった。女の子らしく尖った顎に反し柔らかさを想像させる頬の曲線。遠目からは薄いと思っていた唇は間近で見るとぽってり赤く色づいている。心なしか目つきも艶めかしかった。
「別にいいよ。うちの親共働きで夜まで帰らないし」
即答していた。あれこれ考えたのが無駄だったと言わんばかりに。
リオを部屋に上げた時、彼女の体からかすかに甘い匂いがし、反射的にこれまで付き合った女子達のことを思い出した。親がいないのをいいことに、この部屋に何度女を連れ込んできたか。そんなことを繰り返していくうちにキスが上手いと言われるようになった。最近は女っ気が途切れそういうことを全くしていない。そのせいか、よけいリオのことを意識してしまう。
可愛いけど、抱こうと思えば抱けるけど、むしろめちゃくちゃ好みのタイプだけど、この子はイクトの彼女だろ! ダメだって!!
自分に言い聞かせ、リオの話に耳を傾ける。そういえば、こうして女子にじっくり恋愛相談されるのは初めてだった。
変な想像をしてしまったものの、最初は真面目に相談を聞くだけのつもりでリオを部屋に通した。リオは物珍しそうにマサの自室を眺め、
「イクトんちは服とか本とか雑に散らばってることが多いんだよ。マサ君は部屋綺麗にしててすごいね」
明るく室内の感想を漏らした後、しんみりした口調で本題を口にする。
「マサ君にだから正直に言うんだけど、最近、私達うまくいってないんだよねー……」
私達。それは、イクトとリオを示していた。
「知らない間にイクトね、バイト始めてたの。だから、いつ連絡してもバイトで忙しいって言って電話もすぐ切っちゃうし、前ほど会ってくれなくなっちゃって」
「ああ、駅前のコンビニでやるって言ってた。でもあれって……」
言いかけ、マサは口をつぐんだ。イクトがバイトを始めたのは、四ヶ月後のクリスマスにリオを突然旅行に連れて行き驚かせるためだった。イクトはそのことをマサにだけ話し、他の誰にも言わないよう強く口止めしてきた。
危ない。うっかり口を滑らせるところだった……。
悩んでいるリオに今すぐ本当のことを教えてあげたいが、言ってしまったらサプライズで旅行をプレゼントしようとしているイクトに申し訳ない。それに、なんだかんだ言って二人が別れることはないとマサは思っていた。イクトは女性経験が豊富だが、リオとは大きな喧嘩もなく長続きしている。女に関して飽きっぽいイクトには珍しいことだ。もしかしたら結婚までいくかも。そう感じるくらい、リオをとても大切にしている。
学年中の皆が証明している通り、この子はいい子なんだろなぁ。可愛いし。華奢だし。爽やかな雰囲気に反して女の子らしい声だし。イクトがバイトで忙しくても本人に文句言ったりしないし。こうしてこっそり悩みを打ち明けてくるのが逆に健気でいじらしいよね。
学校とバイトの両立で疲労してまでリオのために頑張るイクトの気持ちが、マサには深く理解できた。自分だって、こんな子が彼女だったら理不尽に怒られても頑張ってバイトを続けようという気になる。
男子側の気持ちを何一つ知らないリオは、物憂げに言った。
「慣れないバイトで疲れるのは分かるんだけど、最近のイクト、私に触れてくることがなくなって……。前だったら少しの時間でもくっつきすぎってくらいベタベタしてきたのに、だよ? バイトを理由に避けられてるのかも。私、いつの間にかイクトに嫌われるようなことしたのかな? 自信なくなっちゃって……。バイト先には当然私の知らない女の人も働いてると思うし、コンビニって色んなお客さんが来るでしょ? 年上の綺麗な人がいたら、可愛い子がいたら、イクトがそっちへ行っちゃうのも仕方ないかなって」
言い終わる前に、リオの瞳には涙が溢れ止まらなくなった。
「不安だろうけど、イクトに限ってそんなことは……」
いっそ、旅行計画のことを暴露してしまった方がいいんじゃないだろうか。いやしかし……。迷いつつ、マサがしどろもどろに慰めの言葉をかけた時、リオはマサの胸元にそっと寄り添うのだった。甘い匂いの奥にリオの肌の香りが漂う。いわば体臭なのだろうそれはマサの理性の寸前まで迫り、超えてはいけない壁を簡単に突き崩そうとした。
「ちょ、リオちゃん、これはまずいって! イクトに見られたら殺される!!」
「ごめんね、マサ君も迷惑だよね。分かってる。でもね、今すごく寂しいの」
確実に誘われている。マサはそう思った。ここで突き放せるほど純情にも善人にもなれない。リオの体温が行為を促すようにマサの肌を侵食する。
「ダメかな? 二度とこんなことしない。今日だけだから」
「……いいよ。しよっか」
細くて柔らかいリオの両腕をやんわり自分の首筋に回し、マサは彼女を見つめた。イクトとも何度かこういうことをしているのだろうと想像の絵が脳裏をよぎったものの、今は自分が彼女を気持ちよくしたいと感じ、記憶と経験のままリオの唇や肌を愛撫していった。
快楽の海は事の後で熱を失い、冷たい水だけが心に薄く残った。付き合っていなくてもそういうことができてしまう自分に、長年の親友を容易く裏切れてしまった自分に、マサは少しの困惑と動揺を覚えたのだった。
それで済めばまだよかったがそうはいかず、二人がしたことはイクトもすぐに知るところとなった。リオとイクトの間でどんなやり取りがあったかマサは知らないが、リオはマサとの間に起きたことを洗いざらいイクトに話してしまったらしい。そして二人は別れを選んだ。
リオと約束しておけばよかった。互いにこのことは誰にも話さず秘密にしようと。そうすれば彼女はイクトと別れず、今でも平和な関係でいられたかもしれない。マサは後悔したが、もう遅かった。
イクトは、恋で悩むリオをマサが一方的に口説いたとでっちあげの噂を流し、マサに敵意をあらわにした。噂を信じない者もいたが、学年の人気者であるイクトとリオの優位性に傾く生徒が多く、誰もマサの話を聞こうとしなかったし、マサもその他大勢に弁解しようとは思わなかった。しても無駄だと感じたし、軽はずみな自分の行いがひとつのカップルを破局に追いやったのは事実。否定したところで二人がヨリを戻すとは限らない。だったら言い訳するだけ無駄だと思った。自己弁護する気力もない。今回のパターンはハイリスクローリターン。それなりにいい思いをしたのだから、けっこう不利なこの状況を受け入れてしまうのもアリ。実際、リオと寝てから、獣じみていた欲が静かになった。リスクを負った甲斐があるというもの。そんな心持ちだった。
イクトはリオの浮気を許せなかったのだろう。マサは事の全貌をイクトに話したがまともに取り合ってもらえなかった。二人はヨリを戻さなかった。
噂に継ぐ二人の別れ。原因はマサ。圧倒的多数派の前でマサをかばう者は出てこず、日頃から人望のあるイクトとリオが優先的に悪口から守られる形となった。おまけに、噂の元となったリオはそれまでと変わらず平穏な学校生活を送り、優等生の顔をして孤立するマサに声をかけ続けた。私のせいでごめんねと謝りつつ、彼女はイクト以外の男に体を許したことを人前で否定し、一切認めなかった。
『私はイクトしか見てなかったよ。でも、イクトに誤解させた私が悪かったと思う』
最後まで、彼女は純情で一途な女を演じていた。巻き込んだマサに対しても、本当の意味で謝罪の言葉をかけることはなかった。そのことに、マサはだんだん疑問を募らせた。
別にいいけどさ。俺にも下心があったし。相手は女の子なんだから力づくで拒否すればよかったのに、断るのももったいないなーって思っちゃったんだよ。だから別に、リオちゃんに謝ってほしいとかはないよ。でもさ。裏切り行為を進んでやったのはリオちゃんも同じじゃん。なのになんで俺はハブられてリオちゃんは無傷なの? おかしくない?
身から出た錆。とはいえ、納得しているかというと微妙。結局マサは、卒業式で写真を撮ろうと声をかけてきたリオをその時初めて無視し、帰路に着いた。リオにとってはさしてつらくもないだろうが、マサとしては精一杯の仕返しだった。女子を無視するなんて精神的にきついことを自らやったのだ。もうこれ以上嫌なことが起こらないようにと願いながら、春の気配が漂う校舎を後にする。リオとのことがなければ、今頃自分もクラスメイト達とわいわい写真を撮り合って高校生活を振り返り、切なくも別れの時を楽しめたのだろう。そう思うと悲しかった。一人ぼっちで歩く最後の通学路。イクトとの絶交状態が続いているのが、何より痛かった。
「まあ、そんなわけで俺は学年一の嫌われ者になったわけですね」
他人事のような口ぶりで話を締めつつ、マサはひどい疲れを感じていた。今になってようやく気付いてしまった。アオイへの苦手意識はリオの件から来ていることを。
吐き気がするほど似てるんだよ、この人、リオちゃんに……。見た目と声だけじゃなく、男女共に魅了する不思議な好感度までさ。カンベンしてよ……。あの手のタイプとはもう二度と関わりたくないんだよ。
かつてはものすごくタイプの女性だったのに、今ではどんな嫌いな食べ物より嫌悪を覚えてしまう対象。
自己分析してみたところでアオイへの苦手意識は無くならず、むしろ深まる。自分が原因みたいなものなのでアオイのせいにするわけにもいかず、かといって自身のことばかり責めるのもつらく、うまい言い訳を探してみても見つかるわけもないし、思考は堂々巡りだ。しっかり傷を見つめる勇気もないのに、あの時のショックは確実に残っている。
どうにかしてこの感情を消化しないとアオイへの苦手意識もそのままだろう。それだけは分かる。しかし、苦手意識を克服して何になるというのか。別にこのままでもいいではないか。マサはアオイとどうにかなりたいとは思っていない。ただのバイト先の店長、それだけだ。友達になる可能性も低い。そもそもアオイは結婚している。今さら男友達など必要としないだろうし、もし男を頼りたくなったら旦那をアテにするはずだ。
ま、その方がいいけどね。
リオの時みたく、アオイに対しては妙な心配をする必要がない。苦手意識はしょうがないのでそのまま放っておけばいい。それでいいではないか。バイトは夏の間だけ。秋が訪れ後期の授業が始まる頃には辞められる。アオイもそれを承知で雇ってくれた。
いや、違う。今だけじゃない……!
この先ずっとショートカットの中性的な女性を見るたび苦手意識でうろたえなければならない。そのことに気付いてしまった。気付きたくなかった。マサは絶望の淵に立たされたような心地がした。
今俺どんな顔してんだろ。すっげえダサいことになってる気がする。こんな顔、歴代彼女にも見せたことなかったのに。まいった……。
「よく頑張ったね。逃げずにさ。偉いよ」
わずかな動揺も見せず、アオイは気丈にそう言った。涼やかで明るい彼女の声は、真っ暗な谷底に落ちていきそうだったマサの心を寸前の所でふわりと掬い上げた。掬い上げられた先は頑丈で光射す足場だった。
「マサは悪くないよ」
微笑し、アオイは言った。
「私が保証する。マサはよく頑張ったよ」
お世辞でも変な慰めでもない。アオイの言葉は心から出たものだとマサは直感した。直感ではなく、そう思いたいだけかもしれない。苦手な女が放つ優しいセリフなんて、悪意ある毒舌より後味が悪い。そのはずなのに、今マサはひどく安心していた。
そっか。誰でもいいから、ずっと誰かにそう言ってもらいたかったんだ。頑張ったね、って。
たまたまそばにいたのがアオイだった。たまたま彼女の前で過去を振り返ってしまった。それでよかったのかもしれない。許してもらおうだなんて思ってはいないけど、リオとイクトの件で傷ついた気持ちを自分以外の誰かに受け止めてもらいたかった。
「変な話聞かせてすいません。店長にそう言ってもらって、なんか少し吹っ切れました。ありがとうございます」
初めて、アオイに対して素直な感謝の気持ちが湧いた。これまでも仕事上でアオイにありがとうと言ったり言われたりしてきたが、上辺だけで機械的に言っていたそれらと今の感謝は全く違う。心なしか胸の中があたたかい。久しぶりに感じた感覚だった。
「ありがとうなんて、私は言われる資格ないんだよ。なんてね」
自虐的な物言いでアオイは苦笑する。空気が変わるのを、マサは瞬時に感じ取った。さっきまでとは違う種類の緊張感が背中を伝う。
「どういう意味ですか…?」
「マサは悪くない。これね、半分自分に言ってたんだ」
それまでは苦手意識からあまり直視できなかったアオイの横顔を、マサは食い入るように見つめた。長いまつ毛に憂いが見える。淡い桃色のグロス。アオイはいつもと変わらずナチュラルメイクなのに、この時初めてそれがセクシーだと感じた。
この人こんなに女っぽかったっけ?
いつもと変わらないように見えるのに、いつもとはまるで別人に見える。
マサの視線から逃げるようにアオイは目を伏せ、口元にいびつな笑みを浮かべた。
「同じ経験あるからさ」
「え……!?」
「親友の好きな人、奪ったの。もっとタチが悪いかな。マサは体だけでしょ? 私の場合、親友の片想い相手だって分かってたのに、彼の心を狙って近付いた。親友が許してくれたのをいいことに彼女を結婚式に呼んで見せつけた。彼は私のパートナーなんだよ、って」
「てことは、旦那さんって、店長の親友の好きだった人!? 嘘ですよね? 店長って全然そんな風に見えないですけどっ」
「他の子には内緒だよー? マサしか知らないから。二人だけの秘密にしてね」
いたずらな笑みを浮かべたアオイは、柔らかく念を押すかのようにマサの顔を覗き込み、かと思うと次の瞬間いつもの爽やかな女店長の雰囲気に戻っていた。