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秘め恋  作者: 蒼崎 恵生
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遮られた決意


 アオイがマサを避けるようになって数日が経った。先の見えない現状にモヤモヤが募る一方、カフェの経営は順調だった。毎月新メニューを追加しているのが功を奏したのか、じょじょに客の数は増えている。最近バイトに来たばかりの真琴もすぐ仕事に慣れ、アオイが所用で店を開ける時も彼女がスムーズに店を回してくれるのでとても助かっている。プライベートでは親友、職場では良きパートナーだ。


 アオイと真琴、二人だけのシフトになった平日の昼下がり。客がいなくなると、話題は自然と恋愛に関する雑談になった。


「そういえば、最近、ひとし君元気?」


「うん。仕事にも慣れてきたみたいで、前より余裕があるっていうか、最近優しいんだ。ちょっと安心した」


 言葉とは裏腹にアオイの横顔には寂しさが浮かんでいた。


「そのわりには浮かない顔してる」


「なんでかな。望み通り優しくしてもらえるようになって嬉しいんだよ。嬉しんだけど、全面的に喜べない。一瞬でもマサに気持ちがいっちゃったっていう後ろめたさがあるから……」


「本当にそれだけ?」


「それだけだよっ」


「昨日からマサ君バイト入ってないもんね。寂しい?」


「もう、またそんなことを。違うからっ」


 ただ話題にマサの名前が出るだけで胸が喜んでいるのが分かった。たとえ親友との会話でも積極的に口に出したらいけない名前なのに、どこかでこの流れを期待していた。


「最近さ、ツイッターで気になるものを見つけてね。見る?」


 真琴は言い、制服のポケットから自分のスマートフォンを取り出した。


「あー。仕事中はスマホ禁止だよ」


「今日だけ見逃して? ほら、このアカウントなんだけど」


「もう。何?」


 柔らかく咎めつつ、アオイは真琴の差し出したスマートフォンの画面を見た。真琴が言うツイッターユーザーのアイコンが抹茶ラテの画像に設定されている。この店の看板メニューのひとつだ。とはいえ抹茶ラテを置いているカフェは多い。それでもこの店のものだと断定できたのは、パフや生クリームの盛り付け方にこだわっているからだ。他店との差別化を図りたいと考えた、アオイのオリジナルである。


「これうちの抹茶ラテだね。てことは、お客さんのアカウントかもしれないってこと?」


「だね。この人、プロフィールの一言欄に『イルレガーメファン』って書いてるし、間違いない」


 il legameイルレガーメ。アオイが考えたこの店の名前だった。


 今やツイッターがあれば何でも発信できる。本当に店のファンなら店長としてはありがたいが、悪意ある書き込みで店の評判を落とそうとする人間もいると聞いたことがある。このユーザーが何をつぶやいているのか、アオイは経営者として喜ぶ半面不安にもなった。


「どんなことが書かれてるの?」


「お店のオススメメニューとかかな。このつぶやきをリツイートやいいねしてるユーザーもけっこういる」


「そうなんだ」


 ひとまず安心する。


「最近お客さん増えてるのその人のおかげだね。クチコミって大事だし。お礼伝えたいけど、店の公式ツイッターって作ってないんだよね。この際作っちゃおうかな」


「案外身近な人かもよ。読んでみて」


 真琴はにんまり笑ってアオイにスマートフォンを渡した。イルレガーメファンのつぶやきが見れるようになっている。


「これ……。この人の日記みたいなもの? いいのかな、勝手に見て」


「見られること大前提のツールだよ」


 店の感想以外のつぶやきもあった。他人のプライバシーに踏み込んでしまう感覚がして後ろめたくもあるが、次の一文を読んでその気持ちは消え去った。


《置いてってもらった宿泊費、返すつもりだったけどその隙すらない。受け取ってもらえないならせめて割り勘でいいって伝えたいけど……。それすら許されない空気が漂ってる。》


「これ……。もしかしてマサの裏アカ……? 真琴、どうやって見つけたの?」


「この前お客さんと話してたら、ツイッターでオススメされてた抹茶ラテがほしいって言われてさ。ツイッターって何のことですかーって訊いたらざっくり教えてくれて。気になって探してみたら、ね」


「私、マサと仲良くなる前、どうしたら店の客層が広げられるのかって悩んでたことがよくあって……。雑談というか場を持たせるための会話でもあったんだけど、まさか、そのことを気にしてマサはこんなことを……?」


「アオイのこと、ホントに好きなんだね。大抵の裏アカってボヤきとか自慢とか公には言いにくいことをつぶやくためのものだったりするのに。こういう裏アカも存在するんだね」


「……どうして? 私、マサにひどいことしてるのに」


 寂しさを埋めるために甘えて、避けて、自分のことばかり優先していた。それなのにマサは、避けられ続けている間も店のために動いていた。そんな素振り、微塵も見せずに。


 真琴は言った。


「お礼伝えるなら早い方がいいかもね」


「真琴、ごめん。少しだけここお願い。マサに電話してくる」


「いいよー。任せて」


 店内再奥の事務所に移動したアオイは、自分のスマートフォンを片手にマサの履歴書を取り出し彼に電話をかけようとした。すると、一通のラインが来ているのに気付く。イクトからだ。そういえば先日、不本意ながらもラインIDを交換しあった。


《アオイちゃん、この前は色々ごめんね。話があるんだけど近いうちに会える?》


 話ならラインで。そう返信すると、イクトからもすぐにメッセージが返ってきた。


《「アオイちゃんの大切な物を預かってる」って言っても?》


 大切な物って、もしかして……。


 心当たりはひとつ。あの日砂浜で落としたかもしれない結婚指輪。マサと一緒に散々探し回ったが結局見つからなかった。イクトが持っていたのか。


 イクトと二人きりで会うのは気が進まない。マサの心情を考えるとなおさら会いたくないが、そういうことなら仕方がない。近いうちに会う約束をした。


 元々はマサにお礼の電話をするつもりでスマートフォンを手にしたはずなのに、気持ちが萎えてしまう。


「次マサがバイトに来たら、その時に言お……」


 その瞬間のことを想像すると胸がドキドキした。裏アカを見つけてしまったことを言うべきだろうか。それは同時にマサの心を覗き見したと言ってしまうようなものだから、黙っておくべきか。


「真琴! やっぱり無理! マサにお礼なんか言えないっ」


 真琴の待つ店に戻ると、アオイは声高らかに言った。真琴はうっかりしていたと言わんばかりに目を丸める。


「それもそうだね。お店のオススメだけじゃなく、マサ君自分の気持ちもぶっちゃけちゃってたもんね。そういう意味ではやっぱり裏アカかー」


 のんきに言う真琴を横目に、アオイは考えた。


 私もツイッターで裏アカ作ってみようかな。


 そして、自分の正体を隠してマサの裏アカとコンタクトを取ってみる。ほどほどに仲良くなったところで、それとなく片思いを諦めるよう促してみるのはどうだろう。それがいいはずだ。自分のためにも、マサのためにも。


 って、これはただの現実逃避だね。分かってる。私が本当に求めてるものは……。


 ツイッターでマサとコンタクトを取るだなんてまどろっこしい方法ではなく、もっと直接的なやり方をする。


「私、けじめつける。マサのためにも、自分のためにも」


「そっか。アオイが決めたことを応援するよ」


「ありがとう。真琴」


 真琴がそばにいてくれてよかったと心から思った。店の外にはいつもと変わらない夏の夕方の景色が流れていた。汗を流して歩く人々の群れ。気を抜くと街路樹に張りついたせみの合唱が耳に響きすぎる。店内は空調で涼しいのに夕日の色が体感温度を上げる気がする。同時に、橙と赤を混ぜた色調はアオイの胸に寂しさを呼んだ。



 翌日の夜、アオイはイクトと会った。気の進まない予定は早めに消化しておくに限る。夜とはいえ、平日のファミリーレストランは客足もそこそこだ。


「アオイちゃん、来てくれたんだね」


 先に来ていたイクトが、レジ付近のテーブル席で軽く片手を上げた。アオイはかたい面持ちでイクトに近付き、椅子に座ることなく、手のひらを彼に向けた。


「拾ってくれて本当にありがとう。指輪だよね。返してくれるかな?」


「まあ、座ってよ。飯まだでさ。アオイちゃんは?」


「じゃあ、飲み物だけ」


「仕事終わったばかりでしょ? お腹すいてない?」


「家で食べるから」


「そっか。じゃあ仕方ないか」


 やや残念そうに肩を下げ、イクトは自分の食事と二人分の飲み物を注文した。


「イルレガーメ、だっけ。アオイちゃんの店評判いいんだね。レビューサイトにも何件かいい感じのクチコミあったよ」


「そうなんだ。そういうのあまり見てなくて」


 普通なら経営者として見なければならないのだろうが、見るのがこわいという思いから、アオイはあえて見ないようにしていた。


「すごいな。若いのに店持って、仕事もバリバリやってて。そういう子、周りにいなかったからよけい気になる」


「物珍しいってことかな」


「まあ多少はね。でも、それだけじゃないよ」


 イクトは前のめりになってアオイを見つめた。


「あれからずっとアオイちゃんのこと考えてた。マサなんかやめて俺と付き合ってよ。俺は絶対浮気しない。アオイちゃんのこと、ずっと大切にするから」


 やはりと言うべきか、思った通りの展開になってしまった。だからイクトとは会いたくなかった。告白に揺らぐことなく、アオイは毅然と断った。


「それはできない」


「そんなにマサがいい? アイツ、今は一途でもいつまた浮気するか分からないヤツだよ」


「……指輪、返してくれる?」


 ただまっすぐ、冷静な面持ちでそれだけ告げるアオイにイクトは気圧され、おずおず拳を差し出した。中には、海イベントで亡くしたアオイの結婚指輪が握られていた。


「ありがとう。あれからものすごく探し回ったの。大切な物だから見つかってすごく嬉しい。お礼にここは私に払わせてね」


「そんなの別にいいよ」


「そういうわけにいかない。これは結婚指輪なの」


「え!? け、結婚!?」


 イクトは目を白黒させた。


「えっと、結婚って、マサと? 学生結婚? なくはないと思うけど周りにいないからビックリっていうか……。でも驚いた」


「ううん。相手はマサじゃないよ。マサとはただの仕事仲間。付き合ってないの。海の時は嘘ついてた。騙してごめんね」


「そうなの? 結婚してるのに、何でわざわざそんなこと……?」


「あの日、彼女のフリをすることでマサを守りたかった。店長として」


 飲み物が運ばれてきた。アオイはそれをひと口だけ飲み、改めて言った。


「全ては二人の問題で、外野の私には口出す権利はない。それでも一つだけ言わせてほしい。イクト君とマサがこれ以上ぶつからずにいてくれたら私は嬉しい。私にとってマサは大事な従業員だから。お願いします」


「アオイちゃん……」


 テーブルに顔がついてしまいそうなほど深々と頭を下げるアオイを見て、イクトは動揺した。アオイが既婚者であるという告白がすんなり頭に入ってこないし、かと思えば必死にマサをかばう姿もに落ちない。こちらは何と答えればいいのだろう。分かったと言えばいいのか、嫌だと抵抗するべきか。


 しばらくしてひねり出した言葉は。


「店長として言ってるわりには、マサに肩入れしすぎな気がする。アオイちゃん、本当に結婚してるの?」


「……うん」

 

「ひどいこと言ってごめん。アオイちゃんは魅力的だけど、だからこそ正直ショックで、今けっこう混乱してて……。マサと付き合ってるの、嘘だったなんて思わなかったから。マサのあんな顔、初めて見たし。認めたくないけど、アイツが本気で選んだ彼女なんだなって」


 アオイは衝撃を受けた。


 初対面同然のイクトから見てもマサと自分は自然な恋人同士に映っていたということに。


 長いようで短かった沈黙を破り、イクトは言った。


「どうしてだろ。気持ちって、隠してても表に出てきちゃうよね。目には見えないものなんだけどそれとなく気配を感じるっていうかさ……」


「そうだね」


 イクトの言葉に、アオイは自分の結婚生活を思い返した。そして気付く。仁との暮らしに寂しさを感じたのは生活リズムがすれ違っていたせいではなく別のところにあったのだと。


「イクト君の言う通り。好きの気持ちも、無関心も、口にしなくても雰囲気に出る。そういうものかもしれないね」


 仁からの無関心を感じ取っていた。結婚前に抱かれた時も、現在も。どれだけ体温を感じようとも、その奥にある熱のこもった感情を感じ取ることができない。それが寂しさの原因だった。


 イクトは言った。


「マサの感情は完全に表に出てた。アオイちゃんのことを好きって思う心が」


「それは私が店長だから。慕ってくれてるだけだよ」


「マサが聞いたら泣くよそれ。ま、俺としてはざまーみろだけど。アイツは一度こっぴどく振られた方がいいね。うん」


 イクトは苦笑気味に毒を吐いた。しかし、その口調は海の時とは違い、柔らかさを感じさせる。


「ひどい言い草」


 突っ込むアオイも苦笑いを浮かべたが、どこか気持ちは解きほぐれていた。ここへ来る前は気が乗らなかったのに、イクトと話せてよかったという心持ちになっている。


 イクトの食事がすむのを待って、アオイは店を出た。今日のイクトの様子を見た限り大丈夫とは思うが、もうこれ以上彼がマサと衝突しないことを願った。


 マサには笑っていてほしい。


 こんなにも誰かの幸せを願ったことがあるだろうか。全力で仁に恋していた頃も、ここまであたたかい心は持てていなかったように思う。


 私、やっぱりマサを好きなんだ……。


 こんな気持ちのまま仁と結婚生活を続けていけるだろうか。いや、無理だ。跡継ぎ問題もあって、自分の両親は早く孫の顔が見たいとまで言ってくる。子供が生まれたら、それこそマサと関わることは許されない。


 だったら、結論はひとつ。仁に本当のことを話して離婚するしかない。その結果、仁に殴られるかもしれない。ひどい言葉で罵られるかもしれない。それでも。


 イクトに会う前は、マサを突き放して仁との生活を大事にしようと決意していた。そのために海での嘘をイクトに明かした。しかし、今となってはそれは決意というより思い込みだった。マサのことを意識していないと思い込むことで無理矢理仁との生活を続けようとした。その先に幸せなど見えないのなら、自分の気持ちを大切にしたい。


 マサを好きって感じた時、幸せだったんだ。私は。


 次に仁と顔を合わせたら、話そう。


 スマートフォンにメールが届いた。メールをする相手は決まっていた。いまだにラインを使わない仁の母親だ。アルコール中毒で入院している義理の母親。そういえば最近全然見舞いに行けていなかった。マサと海へ行ったあの日から。


 アオイは仁の母に可愛がられていた。アオイもアオイで仁の母に懐いた。自分の両親との関係が冷めていただけに、母親という存在に憧れすら抱いていたのである。それだけではない。精神的に弱いところがあるものの、義母がそうなってしまったのはとても理解できたし、なにより、穿ったところのない優しい女性だった。母親という存在が持つ良い部分だけを濃縮したような人柄で、アルコールに走ってしまったのは弱さの極みかもしれないが、そんなこと気にもならないほど、彼女はアオイに優しかった。両親の愛情に飢えていたアオイには、常に自分を見てくれる理想の母親だったのである。


《アオイちゃん、元気? 来月退院できることになりました。今まで本当にありがとう。アオイちゃんは仁だけでなく私のことまで大切にしてくれる、いいお嫁さんだよ。私にとってももったいないくらいの娘さん。本当にありがとう。退院したらご飯でも食べに行こうね。》


 お義母かあさん……。


 マサへの恋を貫くということは、義理の母をも裏切るということ。


 やっぱりダメだ。できない……。離婚なんて。


 スマートフォンを手にした方とは反対の手のひらに、返してもらったばかりの結婚指輪が光った。街灯の光を反射している。砂浜に紛れたら探すのが困難な小さな物質に、今とてつもなく鈍い重みを感じた。












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