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26、告白

 数週間後。幸はその日も、ピアノに向かっていた。大分慣れてきたようで、失敗も少なくなってきている。そして思い出せる曲を手当たり次第に弾く。やがてレパートリーが少なくなったところで、幸は一つの曲を思い出して弾き始めた。先日、和人が弾いて聞かせた“キラキラ星”である。

(小さい頃は、よく和人と一緒に弾いてたな、この曲。和人が初めて弾いた曲……和人にもまた聞かせてあげたいな。それが無理でも、せめて会いたい……今までのことを謝りたい。ありがとうって言いたい。和人に会いたいよ……)

 幸は手を止めて俯いた。最近、思い出すのは和人の顔ばかりだ。

 先日、初めて和人の絵本の内容を知った幸は、自惚れでなく、自分の存在が和人にとって重要な役割を担っていたことを思い知らされていた。あれから何度会いたいと思ったか知れない。こうしてまたピアノを弾き始めたのも、和人のおかげだ。せめて会って、お礼が言いたかった。

 しかしあの日から、和人は現れない。もしかしたら、もう会わないと言った自分の言葉をまだ真に受けているかもしれないと思うと、気が気でなかった。だが会って何を話したらいいのかは、考えても答えが出ない。

 その時、部屋のドアが開いたのがわかった。

「お母さん?」

 とっさに幸が呼びかける。父は仕事のため、入ってくるのは母親しかいない。しかし、幸の呼びかけに返事をしない。

「……さっ、ちゃん……」

 その時、そんな声が聞こえた。喉に力を入れてやっと出たような、少年のような声だった。幸は恐る恐る、ドアのほうへと近づいていく。

「……和人なの?」

 幸は直感でそう言った。

 差し出した幸の手を握る、暖かい手がある。まさしく和人であった。

「ん……」

 頷きながらそう言う和人に、幸は驚きを隠せない。

「どうして、和人……」

 そう言う幸の手を、和人は掴んで離さない。そして和人は、静かに口を開いた。

「……僕は、さっちゃんのことが、好きです……」

 静かに、和人がそう言った。幸の目から涙が溢れる。だが、何を言ったらいいのかわからない。

 和人は和人で不安の中にいた。苦しみに似たような、息苦しい不安だ。和人が言葉を話したのは、聴覚障害が治ったわけではない。ここ数週間、母校の施設で声を出す訓練をしていたのだ。だが、果たして幸に言葉がうまく伝わっているのだろうか、そして幸はどんな言葉を返してくるのだろうか。そう考えると、和人の顔はみるみる強張ってゆく。

 それに反して、幸は微笑みながら何度も頷き、そして和人を抱きしめた。和人はそれに驚きながらも、この上ない安らぎを感じていた。まるで夢のように、幸が腕の中にいる。

 やがて幸は和人から離れ、手話と同時に口を開いた。

「私も、和人のことが、好きです」

 思わぬ幸の言葉に、和人は顔を綻ばせずにはいられなかった。嬉しさを隠せずに、幸の手を取る。

『本当に……?』

 半信半疑で、幸に手話をする。幸はその手話に触れ、意味を理解して頷いた。

「嘘なんて言わないよ。ずっと和人のことを考えてた。そして今、わかった……和人が私にとって、どんなに大切な人なのかって……」

 和人は感無量で微笑んだ。幸も優しい笑みを浮かべている。

 ピアノの傍らには、和人の絵本が置かれている。和人はそれを見て、自分の想いが幸に届いたのだと確信した。


 その日から、二人の関係は幼馴染みではなく、晴れて恋人へと変わった。二人が出会ってから、二十一年目の春のことだった。




 数年後――。

 和人は無事に大学を卒業した。ここ一年は出版社でのアルバイトも忙しくなっており、また学校の近くで一人暮らしを始めている。そのため、幸と会えるのは実家に帰る週末くらいだったが、二人の愛は変わらず育まれていた。


 卒業式のその日、同級生たちが名残惜しそうに大学構内に入り浸っている中、和人は卒業証書を持ち、足早に大学を後にした。

 そして向かった先は――病院だ。和人は入院病棟の一室へと、足早に歩いていく。一つの病室に入り、また一つのベッドを覗くと、反応してこちらを見る女性がいた。幸である。その様子を見て、たちまち和人の表情が嬉しそうに変わる。

『……見えてるの?』

 和人の手話での問いかけに、幸が笑って頷く。

「おかえり」

 見えているからこそ言えるその台詞に、和人も安堵の顔を見せて、思わず幸を抱きしめた。

『よかった……』

 やがて離れた和人がそう言うと、幸も微笑む。

「もう少ししたら目も慣れてきて、今より見えるようになるって。でも、今でも思ったより見えててよかった。それでも、やっぱり手話は見えづらいから、触手話の生活が続くと思うけど……」

 幸が言った。触手話とは、視聴覚障害者の会話の手段の一つで、聞き手の手の中で手話をするような会話方法である。それは、視覚障害者である幸と、聴覚障害者である和人の、主な会話手段であった。

 和人は優しく微笑むと、もらって来たばかりの卒業証書を差し出した。

「うん。無事卒業、おめでとう」

『ありがとう。君も無事に目が見えるようになって、おめでとう』

「ありがとう」

 二人は手を取り合ったまま、しばらく幸せを噛み締めていた。

 ここ数年で、二人の生活はがらりと変わっていた。両想いになったからこそ、二人にとって障害も大きい。互いに空き時間を利用して、福祉施設で触手話やパソコン会話について勉強した。

 和人は長年拒否してきた、声を出してしゃべる訓練も始めた。幸に告白した時、少し訓練した方法だ。だがそれは、あまり上達していない。しかし昔よりは確実に、和人の声は幸に届いていた。

「さっき、真由美が来てくれたんだ。そこのお花いただいちゃった」

 そう言って、幸が棚の上の花瓶を指差す。

『そう。元気だった?』

「うん、相変わらず。今は実家の音楽教室で、ちゃんと先生やってるみたい」

 真由美は幸の大学時代の友人だが、幸の目が見えなくなってからも、たびたび見舞ってくれた一人だ。

 幸はしばらく休学していたが、和人の勧めもあり、しばらくして学校に復帰した。そして去年、無事に卒業している。卒業してからは、幸は施設で子供たちにピアノを教えていた。

 中には幸と同じように、目の見えない子供もいる。やがて幸は、障害を持つ子供たちを通して、自分の目が手術すれば光を取り戻せるという希望に、改めて気づいた。そして今、やっとの思いで決意を固めて手術を終え、やっと今日に包帯が取れたのである。それには和人も、感じるよりも大きい安堵感を得ていた。

『退院は、いつ頃?』

 和人が尋ねる。

「様子を見ながらだけど、早ければ週末に出られるかもって」

『そう、よかった』

 微笑みかける和人に、幸も静かに微笑み、口を開く。

「ありがとう、和人。手術するのがずっと怖かったけど、こうして決心出来たのは、和人がついててくれるって安心出来たからよ。こうして無事に和人の顔が見られて、本当に嬉しい。手術してよかった。ありがとう……」

 幸の言葉に和人も頷き、微笑んだ。

『僕も嬉しいよ。また少し、君に近づけた気がする。僕は君と付き合えて、ずいぶん前向きになれた気がするよ』

「それは私もだよ」

『さっちゃん……』

 久しぶりに、和人が指文字でそう表した。普段は“君”という言葉で省略している和人が、幸を愛称で呼ぶのは、決まって大事なことを言いたい時だと、幸はわかっている。幸も一瞬、息を飲んだ。

『僕は君より年下だし、障害も持ってる。だけど、君を好きな気持ちは、誰にも負けないよ』

「和人……」

『僕には指輪を買えるお金もないし、これから食べていけるだけの保障もない……不安材料ばかりの僕だけど、僕はこれからも、誰よりも君のそばにいたい。だから……』

 和人は呼吸を整えて、幸の顔を見つめた。幸もその先の言葉がわかっていながらも、期待に次の言葉を待っている。

『だから、僕と……』

 幸も思わず身を乗り出し、自分の手の中で動く和人の手話を、固唾を呑んで待っていた。和人も幸が待ってくれていることを知りながらも、なかなか思うように口にすることが出来ない。

 和人は深呼吸をすると、意を決して幸を見つめる。

『僕と、結婚してくれませんか?』

 やっとの思いで、和人がそう言った。幸は待ちきれなかったとばかりに、和人に抱きつく。

「和人、嬉しい。本当に嬉しい……」

 和人は幸を離すと、何と言ったのかと尋ねる。幸も微笑んで、和人の顔を見て言い直した。

「ありがとう。嬉しい」

 幸の言葉を聞いて安堵の笑みを浮かべ、和人は幸をもう一度抱きしめた。

(愛してる……)

 二人の心が、共鳴するように高鳴る。互いに明るい未来が見えているわけではない。幸の目が見えるようになっても、二人には困難な道もきっとあるだろう。しかし互いが互いを引き寄せ合うように、二人はもはや離れられない関係となっていた。

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