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25、本心

 和人は祥子の部屋の前で、祥子の帰りを待ち続けていた。時計を見ると、もう深夜零時を回っている。もうすぐ終電もなくなるが、和人は帰る気になれなかった。ふと携帯電話を取り出す。だが、思い直してすぐにしまい込んだ。和人はただその場に立ちつくしていた。


「大丈夫?」

 二軒目の居酒屋を出て、橋野が祥子に言った。互いに少し酔っている程度だ。

「もう終電なくなるから帰ろう。送ってくよ」

 橋野が言った。それを聞いて、祥子は小さく笑う。

「橋野さん。私って、魅力ないですかね……」

 祥子の言葉に、橋野は苦笑した。

「馬鹿だなあ。ここにいるのが祥子ちゃんじゃなかったら、僕はとっくに口説き落として、ホテルでもどこでも連れ込んでるさ……人が折角、理性を抑えてまで紳士を装ってるんだ。カッコよく決めさせてくれよ」

「わからないな、その理屈……こっちは傷心なんだから、いくらでも落とせるのに……」

 酔った勢いの祥子に、更に橋野は苦笑する。

「本気で好きな子が傷心の時につけ込むなんて、僕には出来ないよ……ほら帰ろう。僕の気が変わる前にね」

 半ば強引に、橋野は祥子を連れて電車へと乗り込んだ。橋野の告白を聞いた後でも、祥子は未だ、晴れない顔をしている。

「水上と付き合う前は、よく一緒に飲んでこうして送ったものだけど、やっぱり人間、友情と愛情なら愛情を取るんだよな……」

 祥子のマンションに着き、部屋に向かうエレベーターの中で、橋野が言った。それを聞いて、祥子が苦笑する。

「そうかもしれませんね……でも私は、愛情すら取れてなかったのかも。仕事も軌道に乗ってきて、あっちは学生。和人としょっちゅう会ってたってわけでもないですもん……」

「そっか。あいつ、あれでまだ学生だもんな……」

 橋野はそう言って、小さく微笑んだ。和人に抱く祥子の不満は、ある意味仕方のないことだと思った。和人はまだ大人とは言い切れないのだ。

 エレベーターから降り、祥子の部屋に向かう二人は、部屋の前に座り込む和人を見つけた。

「和人……」

 祥子はそう言うと、和人に駆け寄った。和人もそれに気づいて、祥子に微笑む。

『おかえり……橋野さんと飲んでたの?』

 和人の質問に、祥子は何も言わなかった。

「……じゃあ、僕は帰るよ」

 そこに、橋野が声をかけた。祥子は頭を下げる。

「あ、ありがとうございました……」

「いいよ。それより……宣戦布告していい?」

「え?」

「水上。おまえが本気でいかないなら、僕が祥子ちゃんをもらうからな」

 挑発するように、手話と声で橋野が言った。和人は驚き、目を見開いて立ち上がる。

 橋野が何を言ったのか、一瞬、理解出来なかった。橋野は和人にとって、尊敬出来る仕事の先輩だ。だが今、向けられる橋野の目は恐ろしいまでに鋭く、敵意のようなものを感じる。

 そんな橋野を、和人は拳を握り締めながら、唇を結んで見つめた。なぜ普段は温厚な橋野が、挑発するように言うのかも理解出来ない。なによりも、何も反論出来ない自分が腹立たしい。

 そうかと思っているうちに、橋野はいつものように笑った。

「まあ、今言ったことは嘘じゃないけど、二人の答えが出るまで待つよ。水上……きちんと祥子ちゃんと話し合えよ。僕は初めて見たよ。笑ってるだけじゃない、おまえの顔……おまえ、今までプライドも感情も、全部押し込めて生きてきたんだろう。それを恋人の前でも続けてたら、信頼関係なんて崩れるのは当たり前だろ」

 和人は俯いた。図星だった。腹が立っても、悲しくても楽しくても、人前での感情は極力殺してきた気がする。祥子の前でさえも、すべてをさらけ出したことがあったのかは疑問だ。和人のすべてを知っているのは、両親と幼い頃から一緒にいた、幸くらいであろう。

「じゃあ、おやすみ。あとは二人でどうぞ」

 橋野はそう言うと、足早に去っていった。残された和人と祥子は、互いに気まずさを持ち合わせながらも、静かに見つめ合った。

「どうしたの? メールしてくれればよかったのに……それに、鍵は? 忘れたの?」

 やがて、祥子がそう尋ねた。

『楽せずに、君を待っていたかったんだ……』

 和人が答える。

「……どうして?」

『……試練、みたいなものかな』

 その言葉に苦笑して、祥子は部屋のドアを開けた。

「入って」

 そう言う祥子に、和人は玄関まで入るものの、部屋に上がろうとしない。

「どうしたの?」

『今日、ここへ来たのは……確かめに来たんだ……』

 和人が、ゆっくりとそう言った。祥子は察して、少し悲しげな目を向けている。

「そう……それで、何か答えは出たの?」

 大人を装って祥子が言う。本当は言いたくなかった言葉だった。和人はそれを感じながらも、静かに頷く。

『ここ数日、ずっと考えてきた……祥子が怒った理由。過去にも同じようなことで人を苛立たせたこともあった。橋野さんにさっき言われたことも、全部図星だ。僕は感情を表に出さないようにして、人から傷付けられるのを……自分だけを守っていたんだと思う』

 ゆっくりとそう話す和人に、祥子は黙って見つめている。

『だから、互いに疲れるのは当然だ。今日ここへ来たのは、僕の気持ちがどこにあるのかを確かめたかったんだ……僕は、君を愛していないわけじゃない。だけど、僕が僕らしくいられる場所があるとすれば、それは君じゃないんだ……』

 言うのが辛くて、和人の手は何度も止まった。だが祥子は冷静に和人を見つめ、先の言葉を求めている。

「よくわかった……ううん、わかってた。わからない振りをしていたのかもね……」

 祥子が言った。

『僕もだよ。わからない振りをしてた。僕は……さっちゃんのことが忘れられない』

 苦しげな表情ながらも、正直に和人が言った。変わらない表情の祥子の目から、涙だけが伝う。和人もまた涙を流していた。しかし、思い直してすぐに拭う。

『愛とか恋とか、そういう言葉で表せられない……だけど、僕の中にはいつもさっちゃんがいた。挫けそうな時も辛い時も、さっちゃんとの思い出が僕を支えてた。さっき祥子を待っている時も、思い出すのはさっちゃんのことばかりだ……こんな気持ちのまま、君と婚約なんて出来るわけがない。本当に、ごめんなさい……』

 祥子は涙を拭うと、和人の頬を思いきり叩いた。そして次の瞬間、和人を力一杯に抱きしめる。

「許さない。最後の最後で、そんな本音見せるなんて……」

 和人を間近で見つめながら、和人から離れて祥子が言った。和人は辛そうな顔をして俯く。

「でも嬉しい……おかしいよね、こんな気持ち。だけど、私も馬鹿だ……私は鈍感な和人と違って、和人の気持ちには気づいてたのよ。もう、ずっと前から……」

『……ごめん』

 もう一度、和人は謝った。祥子は悲しげに微笑む。

「いいわよ、フラれてあげる……だけど、もうこんなことはしないで。後悔を恐れないで。私の涙も怒りも、無駄にしたら許さないんだから……」

 その言葉に、和人は深く頷いた。

『わかってるよ……僕は祥子を不幸にしてしまったけれど、後悔するのはここで終わりにする。もう恐れない。やる前から諦めたりしない』

 和人が言った。その真剣な眼差しに、祥子は微笑む。祥子の目から、不思議と涙が止まった。

「馬鹿ね。私は不幸になんかなってないわよ。自惚れないで」

 二人は互いに苦笑した。そして祥子が口を開く。

「もう行って。今度はお互い、仕事で大成したら会いましょう。もちろん今まで通りというか、新しい私たちの良い関係でね」

『うん。ありがとう……』

 和人は何度も頷くと、背を向けた。そしてふと思い出すと、ポケットから一つの鍵を取り出す。すでに鍵の束から外されたその鍵は、この祥子の部屋の鍵である。和人はその鍵を、祥子に渡した。

「ああ、ありがとう。ここにあるあなたの物は、暇を見つけて実家に送っておくわ」

 祥子の言葉に頷くと、和人は静かに手を差し出した。祥子も自然にその手を取り、二人は暖かな握手を交わす。

『ありがとう……僕は恋愛だけじゃなく、仕事の面でも君に支えられてた。それは本当だよ。その鍵一つで、僕は人と同じような恋愛を、初めて味わった気がするんだ』

 静かに和人がそう言った。祥子から預かった部屋の合鍵は、和人が初めて普通の恋愛を感じた一つだった。

 いつだったか、思春期の頃は差別意識を肌で感じていた。障害を持っている自分が普通に恋愛を出来るとは、和人自身が諦めていた。そんな自らの意識を変えさせてくれたのが、祥子だったのだ。

 祥子も頷いて、口を開く。

「それは私もよ。いろいろ不安はあったけど、和人と付き合えてよかった」

『僕もだよ』

 名残惜しそうに、二人はもう一度握手をした。そして意を決して和人は祥子に背を向け、静かに去っていった。

 互いに一人になった瞬間、二人は同時に涙を流した。だがもはや、二人の人生が交わることはないだろう……。

 和人はそのまま、朝を待つ夜の街へと消えていった。


 次の日。和人は家に帰ることなく、そのまま学校に登校していた。祥子と別れた喪失感の中に、どこか清々しさすら感じている。

(さっちゃん。君に会いたい……)

 何を考えていても、思い出すのはもはや幸のことしかなかった。幸を想う気持ちが恋なのかは、未だにわからない。だが幸を失いたくないと思った。支えになりたい――。そんな想いが、和人自身を支える。

 だが今すぐ幸に会っても、祥子と付き合っていた時と同じだと思った。本質的には何も変わっていない自分には、幸に告白し、そのまま付き合う度量などないことを、和人自身がよくわかっている。和人は、今こそ変わらなければならないのだ。

 和人はその日、学校を終えると、その足で母校である聾学校へと向かっていった。

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