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24、激励

 和人は夜の街を、祥子の部屋目がけてまっしぐらに歩いていた。やがて着いた祥子の部屋は真っ暗で、いくら呼び鈴を鳴らしても応答がない。和人はいつものように、持っていた祥子の部屋の鍵を使おうと、ポケットから鍵を取り出した。しかし、何かの感情が和人を止めた。

 中へ入らずに、和人はそのまま部屋の前へ落ち着くと、その場から見える近所の景色をただ呆然と眺めていた。


 その頃幸は、未だ自分の部屋でピアノに向かっていた。ピアノに触れてから、食事もろくにせずにピアノを弾き続けている。目は見えなくとも、それは水を得た魚のように、心の底から喜びが溢れ出す。

 その時、幸の部屋のドアが開いた。幸はピアノの手を止め、振り向く。

「お母さん?」

 幸が呼びかける。

「ええ、お客様よ。真由美ちゃんよ」

 幸の母がそう言って、部屋を去っていく。入れ替わりに、幸に気配が近づいてきた。

「幸! 久しぶりね」

 そう言って幸の手を取ったのは、同級生の真由美であった。懐かしい声が幸に届く。

「……真由美?」

「そうよ。ごめんね、なかなかお見舞いに来れなくて……でもよかった。ちゃんとピアノやってるんだね。腕は衰えてないじゃない」

 真由美の言葉に、幸は顔を曇らせる。

「ありがとう……でもやっぱり、前とは違うから……」

 幸が言った。ピアノを弾く楽しさは思い出しても、やはり前のようにはいかない。何度も間違え、何度も失敗しているのだ。しかも譜面が見えないとあっては、新しい曲を覚えるのもままならない。

 そんな暗い顔をしている幸に、真由美は変わらぬ笑顔を向けている。

「この間、カズに会ったのよ」

 突然の真由美の言葉に、幸は驚いた。

「……和人と?」

「うん。街角で偶然。ちょっとお茶したけど、あんまり変わってないみたいね」

「さあ……」

 幸は静かに笑った。思えば和人と真由美は、短いながらも恋人同士だった時代がある。互いの変化を感じるほど、二人は密接な関係にあったはずだ。そう考えると、幸にとって和人は遠い存在だと思い知らされる。

「さあって、幼馴馴染みでしょ?」

「だからって、和人のことなんでも知ってるわけないでしょ。避けてた時期もあったし……真由美のほうが、知ってる部分も多いんじゃないの?」

 少し苛立って幸が言った。なぜ苛立っているのかはわからない。ただ胸がムカムカする。

「さあね。でも私は、一度もカズのことを振り向かせることは出来なかったな……」

「なに言ってるのよ。付き合ってたくせに」

 苦笑した幸に、真由美は真面目な顔で幸を見つめる。

「……まだわからないの? 気づいてあげなよ、カズの気持ち」

 突然そう言った真由美に、幸は首を傾げた。

「え……?」

「見ててイライラするのよね。カズは押しが弱いし、幸は鈍感だし……この際だからハッキリ言うけど、カズは幸に特別な感情を持ってるのよ?」

 真由美が言った。幸は一瞬止まる。

「特別な……感情って……」

 さすがの幸も、それが何なのかは気づいた。だが和人のことを思い出せば、そんなことは有り得ないと思った。なぜなら和人は、真由美や祥子と付き合ったりしている。そんな和人が、自分へ特別な想いがあるなどとは、夢にも思っていなかった。

「なに言ってるのよ。特別な感情だなんて……」

 苦笑している幸に、真由美は小さく溜息をついて口を開く。

「本当に気づいてなかったんだ……それとも気づかないようにしてたの? どっちにしても、カズの幸に対する執着心は並みじゃないわよ。それが恋愛感情じゃなくて、幼馴染みという枠に捉われていてもね」

「真由美。言ってる意味がわからないよ……」

「私がカズと別れたのは、カズの気持ちに気づいたからよ。どうやっても、カズの中で幸より一番にはなれないって思ったの。だから別れたの」

 幸は押し黙った。やがて静かに口を開く。

「仮に、和人の気持ちが私に向いていたとしても、だから何よ……」

「幸……」

「大切に思ってるのは当たり前じゃない。私だって、和人のことは弟みたいに大切に思ってる。だから何度も傷付けてきたけど……だけど、今更そんなこと言って、意地悪のつもり? それとも親切のつもり? 私はこの通り、目が見えないんだよ。和人は耳が聞こえない。そんな私たちが、どうすればいいのよ……」

 幸の言葉に、真由美は複雑な表情をした。確かに幸が言っていることも、先日和人が言っていたことももっともだった。自分が言うような勢いではなく、二人が慎重になるのは当たり前だと、真由美にもわかっていた。だが二人の言い分は、真由美にとってまどろっこしく思える。

「どっちでもあるし、どっちでもないかな……幸、手術しなよ。手術すれば、また見えるようになるんでしょ?」

 今、幸の目が見えたならば、心から心配そうに自分を見つめている真由美を見ることが出来ただろう。だが今の幸には、苛立ちと悲しみしかない。幸は首を振った。

「みんなそう言うけど、怖いの。手術とか、血を見るのとか、痛いのとか辛いのとか……それに、見えてもほとんど見えないみたいだから……」

「だけど、今はまったく見えないんでしょ? 手術すれば、光を取り戻せるんだよ。見えないって言ったって、私がここにいることとか、鍵盤の黒とか白とか、漠然と見えるだけで違うんじゃないの?」

「怖いんだってば! 僅かに見えるのがなんだって言うのよ。漠然と見えたって、譜面は見えない。細かい作業は出来ない。人の判別だって出来るかわからないのよ! 怖い思いをしてまで、する価値があるの?」

 そう言った幸に、真由美は言葉を失った。これがあの幸なのだろうか。将来を嘱望され、恋人の修吾と幸せの絶頂を送っていた矢先に起こった忌まわしい事故。それが幸の人生を狂わせ、ここまで恐怖に怯え、卑屈で後ろ向きになってしまったのか。真由美は悲しくなった。

「……ごめんね。励ますつもりで、ここに来たんだけど……」

 やがて真由美がそう言った。幸も押し黙る。

「だけど、幸。私はあんたを、ピアニストとして尊敬もしてたし、かつての恋人が好きな女性としても、一目を置いてるつもり。べつに幸とカズを無理矢理くっつけたいわけじゃないわ。だけど、いい加減気づいてやって。カズの絵本は読んだでしょう?」

 真由美の言葉に、幸は意味がわからずに顔を上げた。

「え……ううん」

「なんだ、読んでないの……そっか。じゃあ一度は読んであげなよ。テープ図書も出てるって聞いたけど、あれは幸のことを考えてのことじゃないの? それに、カズの晴れ舞台じゃない」

「……うん」

 そういえば、和人からテープ図書まで受け取っていたが、なぜかそれを聞く気にもなれなかった。それは、和人の才能に嫉妬していた部分もあるだろう。自暴自棄になった幸の心に、当時はそこまでの余裕すらなかったのである。

「ごめんね、今日は。私も相変わらず、何が言いたいかわからずに突っ走っちゃって……今日のことは忘れてよ。今度、ゆっくり遊びにくるから」 

 真由美は部屋のドアを開けた。幸も我に返って、俯く。

「ううん、こっちこそごめんね、真由美……ありがとう……」

 そう言った幸に、真由美は背を向けたまま微笑んだ。

「幸……悔しいよ。こんなにも愛されてるあんたが、そんな不幸そうな顔してるの……」

「真由美?」

「またね……」

 真由美はそう言うと、幸を残して去っていった。

 幸には、真由美の言った最後の言葉が理解出来なかった。唯一わかったことといえば、真由美はサバサバした性格ながらも、未だに和人の思いを少なからず引きずっているのだという、漠然とした思いだけである。

 真由美の言葉も、和人の想いも、幸にはまだ届いてはいなかった。


 数時間後。食事や風呂を済ませた幸は、一階の寝室に戻るとベッドに座った。そのまま寝ようと思ったが、ふと真由美の言葉が気になった。幸は静かに立ち上がると、手探りで棚の上を探る。

 少しして、オーディオデッキに手が触れた。使い慣れたデッキだけあり、ボタン配列まで容易に思い出せる。幸は左からボタンを数え、再生ボタンと思われるスイッチを押した。

 CDが回り始めた音が聞こえる。やがて、音楽とともに声が流れた。

「テープ図書。絵本、さっちゃんと虹の美空。作、水上和人……」

 ゆっくりとそう読まれるCDの声に、幸の耳は釘付けとなった。

 以前、母親が気を利かせて、このCDを流そうとしてくれた。その時は聞く気になれず、すぐに止めてしまい、和人が出版したという絵本の題名すら知らなかった。その時のまま放置されたオーディオデッキから、初めて聞く内容が流れる。

 幸は震える手で、再生ボタンの左隣のボタンを押した。するとCDが最初に戻る。幸はもう一度、再生ボタンを押した。

「テープ図書。絵本、さっちゃんと虹の美空──」

 間違いなく、題名が自分の愛称を謳っている。

「和人……」

 やがて、絵本の内容が朗読され始めた。幸はオーディオデッキの前で固まったように、そのテープ図書に聞き入っていた。

 絵本の内容は、“さっちゃん”という女の子が、数々の困難に立ち向かいながら冒険を続け、やがて美しい虹の国に辿り着くという内容だった。そのラストは、振り向いた“さっちゃん”が見る、今まで歩いてきた険しい道を包む、美しい空の絵で締めくくられる。

 どんな逆境にも立ち向かってほしいという、幸への願いが込められると同時に、夢に向かってまっしぐらだった幸そのものであり、和人自身が持つ強さへの憧れ、諦めなければきっと叶う夢が織り込められていた。

 幸はそのまま、涙を流していた。真由美が言っていた和人が抱いている自分への想いを、思い知らされた気がした。

 そして幸も、一気に和人への想いが膨れ上がる。今までの思い出が溢れ出す。

 思えば和人を、何度も傷付けてきた。疎ましく思えた時代もあった。だが何があっても、和人だけは変わらず自分を見つめてくれていた。それが恋心というものに当てはめるのには、少し違うだろう。もっと大きな和人の想いに包まれていたのだと、幸は思い知らされていた。

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