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21、勇気

 数日後。まだ薄暗い早朝、幸の家のリビングには明かりがついていた。今日から父親が出張へ行くというので、幸の母親が早くから食事を作っている。幸はまだ寝ているはずだ。

「帰るのは来週だったわよね?」

 母親が、食事中の父親に尋ねる。

「ああ。早ければ週末には帰るよ」

「わかったわ。でも、急な出張なんて困るわ。私もパートの仕事、急には休めないのよ。なんとか同僚に代わってもらうことは出来たけど、今日は誰かに頼まないと、幸のお迎えが出来ないわ……」

 母親が心配そうに言う。幸が事故に遭ってからというもの、母親は幸につきっきりでいる反面、幸が施設へ通い始めてからは、その時間だけは近所でパートの仕事を始めていた。未だ休学中の幸の学費と、現在の治療費を合わせれば、父親の給料だけでは厳しいのだ。幸の迎えは両親が交代で行っている。

「わかってる。こっちだって急で迷惑してるんだ。今日の迎えは、なんとか誰かに頼んでくれよ。仕方ないだろう」

 ため息混じりに、父親がそう言った。

「あなた。音楽学校、退学の手続きしましょうか……幸も手術はしないって言ってるし、このまま休学してたって、学費はいくらか払わなきゃならないのよ? 通ってもいないのに。その上、治療費やリハビリだなんだって、私がパートに出たって、すぐに追いつかなくなるわよ……」

 そう言う母親を、父親が困ったように見つめる。

「だけど、あの学校に入れたのは幸の才能だよ。目が見えなくたって、頑張ればピアノも弾けるはずだし、今後手術して見えるようになる可能性も残っているんだ。お金の心配はあるけれど、あの子の唯一の居場所を取り上げることはないじゃないか……」

 そう言っている父親も、家計が厳しいことはわかっていた。だが小さい頃からの幸の夢を摘み取ることなど、今は出来なかった。それこそ、幸の新しい人生までもを見失う気がした。

「無理しなくていいわよ、お父さん」

 その時、そんな声が聞こえた。両親が振り向くと、リビングのドアのところに幸が立っている。

「幸……」

「私、ちゃんとわかってるから……目が治ろうと治らなかろうと、もうピアノはやらない。学校へも行かない。だから早く、退学の手続きを済ませて!」

 強い口調で、幸がそう言った。両親は立ち上がって幸を見つめる。

「お金のことは、子供のおまえが気にすることじゃない。ピアノは続けなさい。今はまだ弾きたくないかもしれないけれど、ピアノはおまえの一番好きなことじゃないか。苦労して入った学校なんだし、今の状態に慣れたら、また学校へ行けばいいじゃないか」

 父親がそう言った。しかし間髪入れずに、幸が叫ぶ。

「綺麗事言わないでよ! 私は子供じゃないわ。お金のことだってわかってるし、ピアノだってこれから弾けるわけないじゃない。学校へだって行けないわよ。夢なんて、もうない! だから、退学の手続きをして。私がそう言ってるんだから、さっさとそうしてよ!」

 幸は逆上していた。寂しさ、孤独、絶望、それらが入り混じって、何度も幸を襲う。そしてやり場のない幸の心は、一番身近な両親を襲う。かつて同じように、和人を傷付けたように……。

 叫びながら、幸も自分と戦っていた。こんなことを言いたくはない。こんなことには意味がない。抵抗して涙が出ながらも、幸の叫びは止まらない。押さえつけようとする両親を振り払いながら、幸は大声で泣き叫んだ。

 ドン、ドン――。その時、ガラスを叩くような音が聞こえた。一同は、音がする庭のほうを振り返った。するとそこには、和人が立っている。何度もリビングの窓を叩いている。

「カズちゃん……」

 母親の言葉に、幸がビクッと身体を振るわせた。

「すまないね、こんな朝に大騒ぎしてしまって……」

 父親が冷静になりながら、リビングの窓を開けて和人に言った。そんな幸の父親に、和人は首を振る。ただならぬ雰囲気を感じながら、和人は幸の父親を見つめた。

『僕の母が、さっちゃんの家から声がするって……様子を見に来ただけです。大丈夫ですか?』

 ゆっくりと和人が手話でそう言った。幸の父親はほとんど手話がわからないので、少しはわかる母親が頷く。

「大丈夫よ、カズちゃん。ちょっと興奮してただけだから……ごめんねって、お母さんに伝えてね」

 そう言う幸の母親に、和人は頷きながら幸を見つめた。幸は俯き加減で涙を流し、口を結んでいる。

「……とにかく、私はもう学校に行かないから。早く退学の手続き取ってね」

 幸はそう言うと、手探りでふらふらと歩きながらリビングを出ていった。

「……私ももう出かけないと。出来るだけ早く帰るから、あとは頼んだよ」

 父親もそう言うと、足早に家を出て行った。残された幸の母親と和人は、互いに顔を見合わせる。

『……さっちゃん、本当に大丈夫なんですか?』

 やがて、和人が心配そうにそう言った。

「ええ。身体のことは、相変わらず……でも、あの子、もう、ピアノはやらないって……」

 ゆっくりとそう話す幸の母親の口元を、和人はじっと見つめていた。まるで幸がしゃべっているかのように、母娘の口は似ているものがあった。

 あれだけ好きだったピアノをやらないと、幸から聞かされているかのように、和人は愕然とした。そして大きな溜め息をつくと、静かにリビングへと足を踏み入れた。

『お邪魔します……さっちゃんに会わせてください。話がしたいんです』

 和人がそう言った。

「でも、話といっても、あの子は……」

『もうお互い、これ以上傷付くことはありません。さっちゃんと話をさせてください』

 切実なまでの和人の顔は、幸の母親が頷かざるを得ないほどの気迫を感じさせた。

 幸の現在の部屋を聞くなり、和人はその部屋へと向かっていった。一階に移された幸の部屋を開けると、幸はベッドに寝そべり、頭から布団を覆っている。

 勢いよく開いたドアに、幸はいつもと違う気配を感じていた。両親のどちらでもない。でなければ、和人しかあり得ない。

「和人……?」

 幸は起き上がって、和人のほうを見る。和人は幸を見つめていた。その視線を、幸も感じている。

 そのまま和人は部屋を見回した。生活の必需品はあるものの、幸らしさが感じられない無機質な部屋だと思った。だが部屋にある本やCDのほとんどが、ピアノに関する本である。

 幸がピアノを止められるはずがない。止めてほしくない。和人はそう思うと、幸の手を取った。そして、幸の手を使って手話をする。

『ピアノを止めるなんて言わないで』

 まるで自分が手話をしているかのように、幸の手が和人によって動かされる。幸の目から、また涙が零れた。

 幸は和人の手を振り払ってベッドから立ち上がると、振り向いて手話を始める。

「……あ、あんたまでそんな酷なこと言うのね。わかってる? 私はもう、目が見えないのよ。ピアノだって弾けない。弾く気にもならない……私はもうピアノが嫌いなの。それでいいじゃない!」

 乱暴なまでのその手は、手話自体も怒鳴っているようだ。和人は顔をしかめて幸を見つめると、急に立ち上がり、幸を抱き上げた。

「嫌だ! 下ろしてよ!」

 和人の腕の中で、幸が暴れる。だが和人はお構いなしに、そのまま幸の部屋を出て行った。ドアの近くで様子を見ていた幸の母親も、和人のその行動に驚き、心配そうに見つめている。

 そんな幸の母親を横切って、和人は幸を抱えたまま二階へと上がっていった。和人が生まれた時から変わらない幸の家。しばらく入ったことはなくても、自分の家のように覚えている。和人はそのまま、元の幸の部屋へと入っていった。

 ベッドや棚などは一階の新しい幸の部屋に移されたため、唯一大きな家具であるピアノだけがぽつんと、しかし象徴的に置かれている。和人はそのピアノの前に置かれたピアノ椅子に、優しく幸を座らせた。座り慣れたピアノ椅子ということが、一瞬にして幸に伝わる。

「嫌だ! もう弾かないって言ってるじゃない!」

 立ち上がろうとする幸の肩を押さえつけるように、和人がもう一度座らせる。だがそれに抵抗して、幸も負けじと和人の手を振り払おうとした。

 しばらく格闘の末、和人の手から力が抜けた。幸は和人の手を振り払い、手探りで出入り口へと向かっていく。

「幸……」

 ドアのそばで様子を見ていた幸の母親が、気の毒そうに幸をそう呼んだ。

 その時、ピアノの音色が聞こえた。ままならないリズムながらも、その音色はメロディになっている。

「……キラキラ星……」

 思わず幸がそう言った。ピアノを弾いている主は和人しかいない。だが、和人は耳が聞こえないのだ。頻繁にピアノに触ったことがあるとも思えない。しかしそのメロディは紛れもなく、和人が奏でるメロディだった。

 立ち止まった幸に、和人はピアノを弾くのを止めると、静かに近づいた。

『合ってた?』

 そばに立っている幸の母に向かって、和人が尋ねる。母親は頷きながら、幸に声をかける。

「幸。カズちゃんが、合ってたかって……」

 それを聞いて、幸は静かに頷いた。それを見た和人は微笑む。そして幸の手を取り、さっきと同じように、幸の手で手話をした。

『覚えてるものだね。小さい頃に、よく弾いたよね。キラキラ星……』

 手話を理解し、幸は頷く。あとからあとから、涙が溢れ出す。

『僕は、さっちゃんのピアノが好きなんだ。耳が聞こえなくなっても、さっちゃんが楽しそうにピアノを弾く姿を見るだけで、勇気が湧いてきた……』

 和人の幸の手を握る手が、一層強くなった。

『小さい頃から今まで、毎日欠かすことなく続けてきたピアノを止めるなんてもったいないよ。世界には、目の見えないピアニストだってたくさんいるじゃないか。さっちゃんは、ただ趣味でやってるピアニストじゃない。賞だって取ったんだ。才能だってあるんだ。こんなことで……障害なんかに負けないで……』

 和人の気持ちが、自分の手を通して幸にストレートに伝わってくる。

「和人……」

 もう十分だった。和人の気持ちは、百パーセント以上に伝わった気がした。和人の強い心が、自分の弱い心を満たすような感覚さえ覚える。

 幸の涙は、静かに流れ続けていた。

『さっちゃんの夢は、僕の夢だ。だから、僕の夢を壊さないで……』

 幸はそれを理解すると同時に、和人の手を振り払った。そして、目の前の和人に抱きつく。いつの間に大きくなった身体だろう。視覚を奪われた幸にとって、和人の身体は大きく温かく感じる。そして、安心出来る匂いがした。いつか感じた和人の匂いだ。

 和人もまた、大人になって初めて幸を抱きしめて、これ以上ないというまでの安らぎを感じていた。偽ることの出来ない感情が溢れ出す恐怖さえ感じる。

 祥子を愛することで封じ込めていた、幸への恋心。自分で不純に思いながらも、心が幸で満たされていくのを、和人自身認めざるを得なかった。

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