2、別離
『どうしたの?』
突然、訪ねてきた幸に向かって、和人が尋ねる。
「なんでもないよ……今日は夕飯、私が作るね」
そう言って、幸は和人の家の冷蔵庫を開けた。
「キャベツと人参と豚肉……野菜炒めでいい?」
『なんでもいいけど……何かあったの?』
「なんでもないったら。たまにはいいでしょ、私の手料理も」
明るく笑って、幸は台所に立つ。和人は苦笑すると、ダイニングテーブルで宿題を広げた。
『ありがとう』
夜になって、玄関先で和人が幸に礼を言った。幸は軽く首を振る。
「ううん。じゃあ、またね」
『さっちゃん。お母さんと、早く仲直りしなよ』
和人がそう言ったので、幸は驚いた。
「どうしてわかったの? お母さんと喧嘩してるって……」
『当たった? なんとなく、そうかなって思って』
「……悔しいけど当たり。まあ大丈夫、親子だし。じゃあ、またね」
『うん、ありがとう。おやすみ』
「おやすみ……」
幸は自分の家へと戻っていった。
時間が冷静さを取り戻し、母親が心配する気持ちが、幸にも少しはわかっていた。だが、やはり母親の言葉は、ショック以外の何ものでもない。和人とはずっと一緒にいた、姉弟のような存在である。今更その関係を問われても、幸にはどうすることも出来ない。だが母親の心配もわかるような、少しは考えさせられるものがあった。
数日後。幸はクラスメイトの女子数人と、休み時間に話をしていた。
「知ってる? 二組ってば、今度の合唱コンクールに向けて、朝練までやってるんだって」
「へえ。私なんて、放課後練習だけでも、声枯れてきちゃったよ」
女子たちが、そんな話を続ける。
「まあ、うちの合唱コンクール、レベル高いらしいし。試験の合間にはいい息抜きだよね」
「確かに。でも、うちは大丈夫でしょ。だって伴奏者が、学年一のピアニストだもんね」
そう言って一斉に視線が集まったのは、幸であった。
学校では近々、合唱コンクールがある。クラス対抗のコンクールのため、ここ数ヶ月、幸のクラスでも気合を入れて練習をしていた。
幸は子供の頃から習っているピアノを生かし、合唱コンクールでは伴奏を手がけることになっている。それは高校に限らず、中学時代もやってきたことだ。将来はピアノの先生になることも、幸の小さい頃からの夢でもある。
「やだなあ。変なプレッシャーかけないでよ」
困った様子で、幸が言う。
「またまたー」
「本当だよ。今回の曲、難しいし。まだ覚束ないところあるんだよ」
「じゃあさ、幸の家で自主練しない? 幸のピアノの練習含めてさ」
幸の言葉に、一人が提案した。
「いいねえ。幸の家、大丈夫?」
「うちは構わないけど……」
「決定! じゃあ放課後、幸の家に直行!」
一同はそう言って、放課後を待った。
学校を終えて、数人の女子が幸の家へ集まった。
「お邪魔します! 幸の家、広いね」
「そんなことないよ。適当に座って。今、お茶持ってくるね」
幸はそう言って、友人たちを自分の部屋に案内し、部屋を出て行った。そしてお茶とお菓子を持って戻ると、一同は部屋の中を物色している。
「ねえ、幸。手話に興味あるの? 本がいくつかあるけど」
一人が、本棚にある手話の本を取って尋ねた。
「興味っていうか、幼馴染みが聴覚障害者で……」
幸は正直にそう答える。
「へえ。なんか難しそう……」
「そんなことないよ。ジェスチャーに似た動きが多いし。慣れれば普通に会話出来るよ。耳に障害がある人は、それが声の変わりだもん」
本を見つめる友達に、幸が言った。
「でも障害のある人って、なんか怖くない?」
一人の言葉に、幸はハッとした。
「え、どうして? そんなこと……」
「ああ、確かに。なんかやっぱり、うちらとは違うよね」
幸の言葉を遮って、話は進んでいた。幸は先日の母親の言葉を思い出し、また友人たちの話を聞いて悲しくなる。
「……みんなとはあんまり接する機会ないかもしれないけど、私とその子は幼馴染みで、普通の子と同じだよ? 怖いところなんて全然ないし」
悲しさに似た怒りを抑え、幸が反論してそう言った。しかし友人たちも言葉を続ける。
「それは幼馴染みだからでしょう? 近すぎるからわからないんだよ」
「そうそう、べつに差別する気なんてないけど、やっぱりうちらとは住む世界が違うっていうか……」
「ボランティア程度ならいいけど、あんまり肩入れしないほうがいいんじゃない?」
「そうそう。そんなに必死になって反論してると、彼氏の卓也君も引くよ?」
「え……」
そう言った友人たちに、幸は眉をしかめて俯いた。
「だから、世界が違うんだってば。街で手話してる人とかいるけど、やっぱり特異に見えるでしょ。幸まで耳が聞こえないと思われるんだよ? うちらみたいに関わったことない人から見れば、やっぱりちょっと引くよ」
幸はもう反論する気にもなれなかった。
なぜここまで言われなければならないのか。和人は目の前にいる友人たちと同じだ。小さい頃から明るくて、今でもよく幸を笑わせてくれる。耳が聞こえなくて、口が利けないというだけで、あとは他の十六歳の少年と一緒なのだ。
だがもう、そう反論は出来ないと思った。なにより母親にも注意されている今、自分だけが不可思議な正義になっているのではないかと心配になる。
「ああ、なんか暗くなっちゃったね。練習始めようよ」
一人がそう言ったことで、空気が変わる。
「そうだね、始めよう。発声練習からしようよ。ね? 幸」
「う、うん……」
幸ももう考えるのはよそうと思い、ピアノの前に座るのだった。
合唱コンクール当日。コンクールを終え、幸は恋人の卓也とともに家路へと向かっていた。
「最優秀賞、やったな! 最初はやる気なかったけど、ハモって気持ちよかったなあ」
満面の笑みで卓也が言った。
幸のクラスは、先日の自主練習の成果があったのか、晴れて最優秀賞を受賞していた。
「うん。私もピアノ弾いてて、ゾクゾクしちゃった」
「そうだよな。それより、本当に家に行っていいの?」
卓也が尋ねる。
今日は幸の母親が出かけているので、家には誰もいない。そのため幸は、家へ卓也を招くことにしたのだった。いつも卓也には駅まで送ってもらうだけで、家へ入ってもらったことは一度もない。しかし外では幸の母親とも面識があり、卓也は幸の家族に受け入れられている。
「いいよ。お母さんも、卓也のことは信用してるし」
「じゃあ、お邪魔します。急に緊張してきた」
「あはは。大丈夫だよ」
二人は笑いながら、幸の家へと向かった。
幸の家へ近づくと、向こうから和人が歩いてくるのが見えた。和人も幸に気づいて、大きく手を振っている。
そんな和人に気づいて、卓也は幸を見つめる。
「知り合い?」
「う、うん……」
家の前に着いて、幸は立ち止まった。
『彼氏?』
和人は幸に、笑いながら手話で尋ねる。
「う、うん……」
幸は頷くだけで、和人から視線を逸らした。先日、友人と少し口論になったことで、卓也に和人を会わせたくないと思った。
そうとも知らずに、和人はいつもと変わらぬ笑顔で話を続ける。
『さっちゃんも、やるね。カッコイイ彼氏じゃない』
「うん……じゃあね」
和人の言葉を遮って、幸は卓也を連れて、足早に家の中へと入っていった。
「なあ、今の障害者?」
卓也が尋ねる。
その質問に、幸は少し戸惑った。なぜだか和人に対しての気持ちが、前とは違う。和人と友達でいることが、周りの友達や卓也まで失ってしまうのではないかと思った。
「う、うん。隣に住んでる子……」
言葉を濁しながら、幸は答えた。出来るだけ早くこの話を終わらせたいと思う。
「へえ。さっきの手話だろ? 俺、初めて間近で見た。幸、理解出来るの?」
「ちょっとだけ。卓也は……障害のある人のこと、どう思う?」
思いきって幸がそう尋ねた。卓也は少し首を傾げながら、口を開く。
「どうって……べつに。でも、あんまり関わり合いになりたくないのは事実だな。昔さ、家の近くに障害者が住んでたんだ。何の障害かは知らないけどさ……よく、何もしてないのにぶっ叩かれてさ。それ以来、あんまり良いイメージないなあ」
ストレートに卓也が言った。卓也は逆に、他の子より差別意識がないのだと感じる。それでも良いイメージがないという卓也に、幸は押し黙ってしまった。
「あ……今、お茶入れてくるね」
幸はそう言って、キッチンへと向かっていった。
小さい頃から、親に差別はいけないと教わってきた。そんな母親も、屈折した意識を持っているのだと最近知った。出来れば関わりたくないのだということを思い知らされる。友達にも否定され、幸は自分自身の中に生まれる屈折した差別意識に、戸惑いを感じずにはいられなかった。
夕方。
「お母さん、何時に帰るの?」
幸の部屋でくつろぎながら、卓也が尋ねる。
「今日は遅くなるって言ってたよ」
「じゃあさ、もう少しゆっくりして、あとで夕飯食べに行かない?」
「うん、いいよ」
二人は笑うと、静かにキスをした。吸い寄せられるように抱き合う。
その時、家の呼び鈴が鳴り響いた。卓也と離れたくないと思い、幸は居留守を使うことを思いつく。しかし呼び鈴はしつこく鳴り響き、ドアを叩く音までする。その行為に、幸はその主に感づいた。
「早く出たほうがいいんじゃねえの?」
「うん、大丈夫。和人だ……」
幸はそう言うと、少し苛立ちながら玄関へと向かっていった。
和人は幸の家を訪ねる際、こうして何度も呼び鈴を鳴らすことがあった。それは幸が家にいることがわかっているからだ。しかし耳が聞こえないために、本当に呼び鈴が鳴っているのか、幸に聞こえているのかがわからずに、何度もボタンを押す。
「ハイハイ……」
卓也と作り上げたムードを壊され、少しうんざりして幸がドアを開けた。
『遅いよ』
笑いながら和人が言う。そんな様子の和人に、幸は苛立ちを隠しきれない。
「こっちにだって都合ってもんがあるの。なによ?」
『ごめん、邪魔した?』
「いいから、要件は?」
『……父さんが出張から帰ってきたんだ。お土産だって』
和人はそう言うと、紙袋を差し出す。
「ああ、ありがとう……」
幸が手話交じりにそれを受け取ると、和人は幸の後ろに向かって会釈をした。幸の後ろには、いつの間にか卓也が立っていたのだ。幸は和人と手話で会話していたことを、卓也に見られて恥ずかしくなり、和人を玄関の外に追いやると、卓也の手を取った。
「卓也。外行こ」
幸はそう言うと、そのまま和人を横切って、卓也とともに街へと出ていった。
それから数日後、幸は先日の友人たちと、ファーストフード店にいた。恋や芸能の話題で盛り上がる。
そんな時、幸の目に、手話で会話をしながら店に入ってくる数人の男子学生が映った。その中に、和人の姿もある。聾学校の友達らしい。
和人は幸に気づくと、いつものように大きく手を振った。幸は慌てて立ち上がると、和人の元に駆け寄り、和人を外へと連れ出した。
『……なに?』
店の裏まで連れてこられた和人が、幸に尋ねる。
「もう、話しかけないで……」
徐に、幸がぼそっとそう言った。手話でなかったため、和人は理解出来ないといった表情で、幸の顔を覗き込む。幸の口元を見つめ、言葉を読み取ろうと凝視している。
幸は溜息をつくと、もう一度大きな声で言った。
「もう、話しかけないで!」
『…………どうして?』
和人は驚いた顔をして、ゆっくりとそう尋ねた。幸は一呼吸つくと、和人を見つめ、手を動かす。
「……私まで変な目で見られるから。友達の前で、手話なんてやめてよ!」
手話とともにそう叫ぶ幸に、和人は傷ついた顔を見せる。幸はすぐに後悔したが、それは本心だった。
『……わかった』
少しして、和人は頷きながら、右手の平で胸を打つ動作を見せた。
『……もう話しかけない。ごめんね……』
続けて和人はそう言うと、そのまま去っていった。幸が店に戻ると、和人の友達すらいなかった。