15、恋人
和人は喪失感で、何も考えられなかった。ただふらふらと駅へと歩いていく。自分の存在が幸を苦しめるなら、もう会わないほかない。
“さよなら”と言った幸の姿が、頭から離れない。婚約者の修吾も、もはや幸を支えてくれる存在ではなくなってしまった。和人には、幸のことが気かかりでならない。
ふと気づくと、駅を通り過ぎようとしていた。和人は溜息をついて駅へと戻っていく。すると、ポケットに入れている携帯電話が震えた。祥子からのメールである。
<今、家に帰りました。今度はいつ会える?>
和人は顔を上げると、元来た道を戻っていった。
和人にメールを送ったものの返事がない祥子は、気を取り直して部屋で一人、仕事をしていた。イラストレーターの祥子は、今は絵本の仕事が多く、多忙な日々を送っている。
メールを待ちながらも、祥子が仕事に熱中しかかったその時、部屋の呼び鈴が鳴った。
「はーい」
祥子はインターフォンの受話器を取った。画像を送れるほどのものではないが、声でのやり取りは出来る。しかし、一向に相手からの言葉がない。祥子はハッとした。
「和人……?」
祥子は受話器を置くと、玄関へと走っていった。ドアを開けると、案の定、和人の姿があった。
「和人。急にどうしたの?」
そう言う祥子の顔を見て、和人は気が緩んだように息を吐いた。そして、唐突に祥子を抱きしめる。
「……和人?」
強く抱きしめられながら、祥子が尋ねる。だが和人はそのまま、抱きしめることを止めない。祥子もまた和人に抱きつき、二人はしばらくそのままでいた。
しばらくすると、やっと和人が祥子を離した。その顔は疲れきったような顔で、静かに祥子を見据えている。
『ごめん。突然……』
やがて和人がそう言った。そんな和人に、祥子は笑って首を振る。
「いいわよ、全然。むしろ嬉しい」
笑顔で祥子が言った。
奥手な和人は、今まで一度だって自分から行動を起こしたことがない。メールをするのも、キスをするのも、いつも祥子からだった。そんな和人に、少し不満を持っていたのも事実だ。だが和人が会いに来てくれた。祥子は素直に嬉しかった。
そんな祥子の気持ちを知ってか、和人からもやっと笑みが零れる。
「どうぞ、入って」
そう言って、祥子は和人を部屋の中へと招き入れる。部屋に通された和人は、ソファにただじっと座っていた。
「お茶どうぞ」
『ありがとう……』
出されたお茶に、和人は口をつける。だが視線はじっと一点を見つめたまま、動こうともしゃべろうともしない。
「……その傷、どうしたの?」
祥子が和人の頬を指差して言う。和人の右頬は、もはや切り傷のように痛々しく残っている。
『ちょっと……ぶつけたんだ』
嘘ではなかったが、それ以上詳しいことを和人は言おうとしなかった。祥子も慣れた様子で苦笑し、救急箱を取り出して、素早く和人の頬に消毒液を塗り始めた。
「幼馴染みの……さっちゃんに、何かあったの?」
仕上げの絆創膏を貼りながら、祥子が察して言う。和人との会話に出てくる人物は、職場や学校の誰よりも、幸のことが多かった。それは祥子が嫉妬するほどだが、和人にとって幸は唯一の心から信頼しあえる友人なのだと知っていたので、祥子は何も言えない。
その問いかけに、和人は静かに微笑んだ。目を閉じても、幸の痛々しい姿が浮かぶ。幼い頃味わった、世界でたった一人になったかのような孤独。きっと幸も、その孤独を今味わっているに違いない。自分はまだ、幼かった分よかったのかもしれない。だが幸は違う。そう思うと、胸が張り裂けそうだった。
和人は突然、祥子に抱きついた。人肌が恋しい。幸の苦痛が、いつの間に自分の苦痛に変わっていた。今でも不安で仕方がない毎日。また幸から別れを告げられた今、和人は孤独になった気がしていた。
「和人……」
祥子はもう何も聞かず、和人を抱きしめた。もう何も言わなくていい。和人が自分を必要としてくれることが、これほどまでに嬉しいとは……和人の不安は、拭い去ってあげたいと思った。
和人が祥子を見つめる。二人は吸い寄せられるように、静かにキスをする。そのまま和人は、祥子をソファに押し倒した。
「和人……」
抱き合った祥子から出た言葉が、和人に響く。それが妙に心地良い。
『もっと言って……』
和人が言った。
「和人……和人……」
素直にそう言う祥子に、和人は目を瞑って、もう一度祥子を抱きしめた。
「カズト……」突然、和人の脳裏に、和人の名を呼ぶ幸の姿が浮かび、和人はハッと目を見開いた。そんな和人に驚き、祥子も不安気な表情を浮かべている。和人は意気消沈して、起き上がった。
「和人……?」
意味もわからず、祥子が和人の顔を覗き込む。和人は祥子を見つめた。なんだかいけないことをしているように思えた。自身の孤独を祥子で埋めようとしている自分が、汚く思える。
『ごめん。突然来て、こんなこと……』
そう言った和人の手を、祥子が包む。
「……私は大丈夫だよ、和人。あなたが好きだもの」
祥子の言葉に、和人が頷く。何かの自信が芽生える気がする。
『……僕も、君が好きだよ』
和人の言葉に、祥子も微笑む。互いの気持ちを確認し合うように、二人はそのままもう一度倒れ込んだ。
夜中。隣で眠る祥子の横で、和人は天井を見つめながら溜息をついた。
(……僕は何者なのだろう。自分の気持ちがわからないなんて……だけど、僕は祥子が好きだ。さっちゃんを好きな気持ちとはまた違う……でも、このもやもやした気持ちはなんだろう。幼馴染みが離れていくのは、こんなに辛いことなのだろうか)
和人は起き上がって祥子を見つめた。祥子は未だ、和人の横で眠っている。
(祥子……この人もそうなのだろうか。一時だけの感情……僕のことは、ただ珍しく映っているのかもしれない。この人も、いつか僕から離れていくのだろうか。あれだけ愛し合っていた、さっちゃんと修吾さん……それがこんなことになるなんて、信じられない。さっちゃんはどうしているだろう。これからどう生きていくのだろう……)
和人はそう思った。
修吾と幸が別れた。あの二人がどれだけ真剣に愛し合っていたかを知っている。それをいつも羨ましく思っていたが、二人はもう会うこともないのかもしれない。
和人も空しくなった。今まで誰とも積極的な付き合いをしてこなかったのは、別れが怖いという自分の臆病さというのも知っている。だが今、幸から別れを告げられ、和人は自分の先の人生が見えなくなるまで心を沈ませていた。もう幸とは、幼馴染みでも友達でもいられないというのか。そう思うと、悲しくてたまらない。
「和人……?」
そんな和人に気づいて、目を覚ました祥子が和人の腕に触れながら呼んだ。和人はハッとして、祥子に微笑みかける。そんな和人に、祥子も小さく微笑んだ。
「いいんだよ、和人。いつも笑っていなくても……」
祥子が言った。
「自分に障害があるせいで、今まで自分の感情を殺してきたのかもしれないけど、私はあなたの恋人になれて嬉しいし、これからずっと付き合いたいと思ってる。だから、せめて私の前では泣いたり怒ったりしてほしいって、ずっと言いたかった……ただ微笑みかけるだけが、優しさじゃないよ」
その言葉に、和人はぐっときた。今の自分の不安を、祥子はすべてわかってくれているのだと感じる。そしてその言葉は、今の和人にとって一番ホッと出来る、ずっと欲しかった言葉だったのかもしれない。
和人は俯いた。今にも泣き出しそうだった。そして静かに語りかける。
『ごめん……僕はずっと臆病だった。君に対して、自分から何の努力も出来なかった。それが君の不安や不満材料になっていることは知っていても、自分が傷付くのが嫌だった……僕はずるい。君が好きだと言ってくれても、流れに任せるだけで何もしてこなかった。自分から行動して傷付くのが嫌だった……』
和人の本心に、祥子は何度も頷いて聞いている。
「いいのよ。それはみんなそうよ……でも私は、自分から行動しないと、和人と付き合うのは無理だってわかってたから……だから、傷付いても和人が好き。これから正直になってくれればいい。あなたの帰る場所が、私のところになればそれでいいの」
『……僕の帰る場所は、もうとっくに君のところだよ……』
「和人……」
互いが互いに告白するように、これだけ本音をさらけ出したのは初めてだった。
俯いたままの和人の頬に、祥子が触れる。
『さっちゃんが……』
その時、和人がそう言ったので、祥子は手を下ろして和人を見上げた。
「……さっちゃんが?」
『婚約者の修吾さんと、別れたんだ……』
「え……?」
祥子は和人を見つめる。和人はとても辛そうな顔をしている。幸に嫉妬さえ覚えるほどの、苦しい表情だ。
だが祥子は和人の続きの言葉に耳を傾けた。幸のことも修吾のことも、和人から聞いて少なからずは知っている。
『婚約解消されたんだ……彼女を捨てたんだ!』
和人の目から、堪らず涙が溢れ出した。人前で泣くなど、一緒に住んでいた祖母が亡くなった時以来である。
「そんな……ひどい……」
口を結んで涙を拭い、和人は言葉を続ける。
『だけど……一番無力なのは僕だ。僕はさっちゃんの何の助けにもならない。修吾さんを殴ったって、修吾さんが帰ってくるわけじゃなかった……せめて彼がいてくれたら、さっちゃんの心の支えになってくれただろうに、今のさっちゃんには両親しかいない。それが僕には、悔しくてたまらないんだ……』
涙を堪える和人に、祥子は静かにキスをした。そして優しく微笑みかける。
「でも彼女には、あなたがいるじゃない。両親だけじゃないわ。友達だっているはずよ」
祥子の言葉に、和人は首を何度も振った。
『僕じゃ駄目なんだ……僕はさっちゃんに、励ましの声をかけることも出来ない。さっちゃんは僕に、泣き腫らすことも出来ない。僕がいることで、さっちゃんを苦しめたくない……もう、会っちゃいけないんだ……』
その言葉に、祥子は目を見開き、驚いた表情を見せる。
「どうして、そんなこと……そんなふうに思うことないわ。幼馴染みじゃない。彼女だって、そんなふうに和人が思ったら悲しむわ」
祥子がそう言っても、和人は首を振るだけだ。
「彼女に言われたの? もう会いたくないって……」
和人の表情に、祥子が気づいてそう尋ねる。祥子の問いかけに、和人は静かに頷いた。
「そんな! いくら大変な時だからって、和人を傷付けることないじゃない!」
突然、祥子が興奮してそう言った。和人がここまで落ち込んでいる原因を知り、幸を腹立たしくも思う。
『違うよ。僕は傷なんて付かない。だけど、さっちゃんの気持ちはわかるんだ……』
「どうして平気でいられるの? 彼女の婚約者が彼女を捨てたように、彼女は和人を捨てたのよ?」
祥子の言っていることはもっともだった。だが和人には、幸の気持ちのほうがよくわかる。
『平気なんかじゃない……だけど僕がさっちゃんの立場でも、僕がいるだけで辛くなるのは当然だと思う』
「和人……」
『僕は……もしもさっちゃんに何かあった時は助けたい、なんでもしてあげたいってずっと思ってた。僕が小さい頃、友達が離れていっても苛められても、さっちゃんだけは僕に手を差し伸べて、友達でいてくれたから……だけど実際、僕にさっちゃんを助けることなんて出来なかった。僕はこれほどまでに自分を無力だと思ったことはないよ。だけど、どうしようもないんだ……彼女が唯一望むことは、僕と会わないことなのだから……』
和人の言葉を聞いて、祥子は和人を抱きしめた。
「じゃあ、忘れなよ。これからは、私が彼女の代わりになるから……私もう、和人の悲しそうな顔も苦しそうな顔も、見たくないの。もう傷付かないで……」
返事の代わりに、和人は祥子を抱きしめた。もうお互い、何も言わなかった。