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14、離別

 数週間後。幸がどうなったのか、頼りは流れてくる噂だけだった。和人は躊躇いつつも、幸のことが気かかりでならず、様子を見に幸が入院する病院へと向かっていった。

「帰って!」

 和人が病棟を歩いていると、そんな大きな声が響いている。和人には聞こえないものの、その声に驚いた人たちが、廊下からその声がする病室のほうを見つめているのが見える。それと同時に、数人の看護師が慌てて病室へと入っていった。その病室は幸の病室だと思い、和人は小走りに病室を覗き込んだ。

 一人部屋の病室では、数人の看護師がベッドの上の患者を押さえつけているようだった。だが、仕切りのカーテンが邪魔で幸の姿は見えない。看護師はカーテンの向こうで何かの処置をしているようで、それからすぐに病室を出て行った。

 そんな中で、窓際には幸の母親が泣いており、ドアの近くには修吾の姿がある。

「カズちゃん……」

 和人の姿を見つけ、幸の母親がそう言った。

「和人……?」

 中から幸の声が聞こえる。だが、和人にそれは聞こえない。和人には、この病室にいる顔触れで、幸の病室に間違いないとわかっただけだった。

「失礼します。お大事に……」

 すると、そう言って修吾が和人に向かってきた。だが何も言わず、和人の横をすり抜ける。

 状況が飲み込めず、少し呆気に取られた和人は、静かに病室へと入っていった。幸の母親は、とても悲しそうな顔をして涙を流している。そしてそこで初めて和人は、ベッドの上の幸を目にすることが出来た。

 未だ顔や頭を包帯で巻かれ、痛々しい姿ではあるが、意識はあるようで口の辺りが息づいている。だが身体を震わせ、口を結んだりし、唯一動かせる右手で顔を押さえている。泣いているのだ。

 和人は幸の母親を見た。だが首を振るだけで、何があったのかは教えてくれない。和人はもう一度幸を見つめると、勢いよく病室を飛び出した。


 和人がそのまま病院を飛び出すと、病院の駐車場に向かう修吾の姿が見えた。とぼとぼと歩く修吾に、和人が追いついて肩を叩く。

「水上君……」

『彼女に、何をしたんですか!』

 いつになく険しい表情で、和人が言う。手話をするその手さえ、興奮して荒々しい。

「……婚約を、解消させてもらったんだ……」

 やがて言った修吾の言葉に、和人が信じられないといった様子で、修吾の顔を覗き込む。

『さっちゃんと……結婚しないということですか?』

 修吾は静かに頷いた。

「無責任だけど……幸のことは可哀想だと思うし、助けたい。だけど、どうしようもないじゃないか……もう前とは違う。身体のことも、将来のことも……俺には幸の人生は背負えない。親も反対しているし、こう言ってはなんだけど、結婚する前でよかったと思ってる……」

 ぼそぼそと修吾がそう話した。和人は修吾の口元をじっと見つめながら、身体を強ばらせ、怒りに震えている。こんな震えがきたのは生まれて初めてだった。

 和人は修吾を睨みつけ、突然殴りかかった。

 修吾の言葉が、百パーセント和人に伝わったわけではない。だが和人には、修吾が幸との婚約を一方的に解消して逃げ出し、幸を傷付けたことだけはわかった。

『どうして! どうしてそんなことを……どうして!』

 修吾に詰め寄り、手話で怒鳴るようにそう言う和人の目からは、今にも涙が溢れ出しそうだった。「どうして」と、何度も何度も問い質す。

『彼女の気持ちはどうなるんだ。どうしてそんなことが出来る! あなたの恋人だろう!』

 早口で手話を続ける和人に、修吾はもう手話についていけなかった。ただ、自分を責めていることだけはわかる。

 和人は修吾の襟元を掴み、顔で訴えかけながら、その手を離そうとしない。

「離してくれ!」

 そう言って、修吾は和人を力一杯振り払った。

 駐車場をぐるりと囲む木製のガードレールに、和人はもたれるように倒れかかった。顔を打って、擦り切れた頬から血が滲む。だがそんなことをもろともせず、和人はもう一度修吾に掴みかかり、もう一度、修吾を殴った。

 今度は修吾が地面に倒れ、和人は修吾に馬乗りになって掴みかかる。

「俺だって、酷いとわかってる!」

 そんな和人に、修吾が叫んだ。

「だけど……もう無理なんだ……」

 地面に横たわりながら、修吾が涙を流してそう言った。

 何もかも変わり果てた姿の幸を、修吾はもう正視することすら出来なかった。自分の責任に向き合う勇気もなく、親からも幸との関わりを反対されている。そんな中で、修吾自身も重圧に押し潰されていた。

『……お願いします。彼女を……さっちゃんを、どうか苦しめないでください』

 俯き加減にそう言った和人の目から、一筋の涙が零れ落ちる。

 やがて近くで見ていた人たちから、二人は引き離された。修吾は衣服についた砂を払い落とすと、未だ真っ直ぐで悲しげな目で見る和人を、静かに見つめた。

「ごめんな。もう、幸のことを前のようには見れないんだ……でも出来る限りのことはするつもりだから……」

 修吾はそう言うと、車に乗り込んで去っていった。残された和人は、しばらくその場に立ちつくしていた。


 病棟へ戻った和人は、幸の病室を訪れた。もはや幸も落ち着いたようで、廊下から覗く限り、部屋に看護師の姿はない。

「カズちゃん……?」

 気配に気づいて、ベッドを囲むカーテンの向こうから、幸の母親が顔を覗かせた。和人はぺこりとお辞儀をする。

「カズちゃん、その傷どうしたの?」

 さっき修吾とやり合った時に出来た、和人の頬の擦り傷は、すでにみみず腫れとなって血を吹き出していた。

『なんでもないよ……』

 悲しく微笑みながら、和人が答える。

「和人がいるの……?」

 ベッドからそんな声が聞こえ、幸の母親が和人から視線を逸らす。

「うん……いるわよ」

「近くへ呼んで……」

 幸の言葉に、母親は和人を手招きした。和人は静かに中へ入り、ベッドを見つめる。幸は少しベッドを起こし、俯いている。

『ごめんね。もう、和人と話すことが出来ないの……』

 唯一動く右手だけで、幸は手話でそう言った。和人は目を丸くして、素早く幸の右手を取った。そして幸の手を取ったまま、自分の顔に持っていく。幸には、和人が首を振って否定しているのがわかった。

『でも……私は手話が見えないし、和人はしゃべれない……』

 手を離してそう言う幸に、和人は尚も首を振る。だが実際に、そのジェスチャーすらも通訳が必要だ。和人はどうしたらいいのかわからなくなってしまい、もう一度幸の手を取った。これほど自分の障害を呪ったことはなかった。

 和人が何をしているのか、何を言いたいのかもわからない幸は、もう一度右手を上げて話を続ける。

『だから……もう、ここへは来ないで。私も、和人としゃべれないのは辛い……』

 その言葉に和人は俯いた。今の和人には、幸に否定も肯定も伝えられない。

『だから、和人……』

 幸は俯いたまま、和人に語りかける。

「う……あー……」

 その時、和人の口から声が発せられた。

 和人は首を振りながら、懸命に喉に力を入れた。もうしゃべる術さえ忘れてしまいそうだ。それでも、何か訴えかけたかった。

 幸と幸の母親は、和人の声に驚いていた。和人が聴覚を失ってから、和人の声を一度だって聞いたことがない。

「和人……」

 幸は和人の頬に触れ、悲しみに暮れていた。どうしてこんなことになってしまったのだろう……身体中が痛い。婚約者の修吾も離れていった。夢であったピアノを弾くことも、これからは難しいだろう。

 これからの人生、どうなってしまうのか。そう考えると苦しくて頭が重くなる。なにより和人といるだけで、自分が無力に感じられてしまう。それは幸の心を支ええられないほど重く圧しかかり、生きる希望さえ失われるようだった。

「さよなら……ごめんね、和人……」

 俯きながら幸がそう言った。和人はそれ以上、もう何も言えなかった。

 何も出来ない。だが和人の心は、幸を抱きしめたい思いで一杯だった。傷付いた幸を支えたい。一人にしたくない。いつものように、肩を叩いて合図を送りたい。そう思っても、幸の痛々しい姿では、どこに触れれば痛まないのかすらわからない。

 和人は肩を落とし、唯一触れられる幸の右手を取った。そして幸の胸の前に拳を作り、上下に振る。片手ながらも、『頑張る』という手話が幸に伝わる。それは和人からの『頑張れ』のメッセージとともに、幸自身が『頑張る』という願いが込められていた。和人の精一杯の、励ましの言葉だった。

 やがて幸を見つめると、和人は静かに立ち上がった。そして一部始終を見て辛そうな顔をしている幸の母親の肩を叩いて微笑み、病院を去っていった。

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