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12、悲劇

『もう一度……もう一度、ちゃんと訳して!』

 談話室では、和人と祥子、そして幸の両親が向かい合わせになっている。重苦しい空気の中、和人が立ち上がりながら、大きく手を振ってそう言った。

 しかし、通訳を買って出た祥子は、幸の父親の言葉に固まった。

「……ハッキリ言おう。幸の目は、もう見えないんだよ……」

 父親の言葉に、幸の母親が大きな声を上げて泣き崩れた。そんな母親を、父親が抱き止める。

『……目が見えない?』

 あまりに残酷な宣告に、訳すことが出来ない祥子に向かって、和人が聞き返した。そんな和人に祥子が頷く。和人はショックを露わにしながら、静かに椅子に座り直した。

 祥子は幸とはまだ会ったことはないが、幸は少なからず幼馴染みの話として、和人との会話に何度も登場した人物だ。幸が和人の理解者だともわかっている。そんな幸の目が見えないとなれば、今後どうして和人と話すことが出来るのだろう。祥子の目からも、思わず涙が零れた。

「目だけじゃない……ガラスの破片で、至るところを深く切っているから、ずいぶん痕が残ってしまうそうだ。でも今は美容整形技術も発達しているし、治せないことはないそうだよ。目も……手術をすれば、少しばかりは治る見込みもあるそうだ……まあ、また幸の身体を切り刻まなければならないが……」

 幸の父親がそう言った。祥子は涙を堪え、必死に通訳をする。

 手術をすれば治る見込みがあると言った父親の言葉は、和人にとって最後の支えとなるような、かすかな希望の光に見えた。だが和人のショックは隠し切れない。

 一同はそのまま時が止まったかのように何もしゃべらず、少しも動けずにいた。ただ幸の母親のすすり泣く声だけが、部屋に響き渡る。

「まあ、生きていてくれただけで……」

 沈黙を破って父親がそう言いかけた時、父親の目から涙が溢れた。父親にとっても、もう限界だったのだろう。

『……おじさん、おばさん、元気出してください。少し休んだほうがいいよ。僕も、今日はもう帰ります……』

 和人が手話で静かに語りかける。そんな和人の言葉を、祥子が訳して言う。

「カズちゃん。ありがとうね……」

 幸の母親が、和人の手を取ってそう言った。和人は首を振ると、母親の肩を抱いた。

『おばさん、無理しないでね……僕はさっちゃんが生きていてくれただけで、今はホッとしてるよ……』

 和人の言葉に救われるように、幸の母親が初めてホッとした顔を見せた。表情は暗いままだが、何度も頷く。

「そうね、本当にそう……幸が生きていてくれただけで……」

 そう言うものの、幸の母親は未だ現実を受け止められずに涙を流す。そんな母親を抱き止めながら、幸の父親は和人と祥子にお辞儀をし、もう行くように促した。

 和人と祥子もそれに応じてお辞儀をすると、談話室を出ていった。


 長い病院の廊下を、無言のまま和人と祥子が歩いている。和人は表情を失くしたまま、未だ青褪めた顔色をしていた。

「……和人」

 そんな和人に、静かに祥子が話しかけた。

「もう終電ないでしょ。うちにおいでよ」

 祥子が言った。すでに、和人が家に帰る電車はない。

『でも……』

 和人が少し渋る。一人暮らしの祥子の部屋に、和人が上がったことは一度もない。二人の心が通じ合っていることは互いにわかっているものの、ハッキリとした関係ではないので、女性の部屋に泊まるというのは気が引けた。

「遠慮しなくていいわよ。狭いけど、別々に寝られるスペースも一応あるし、なんならしばらくうちから学校や病院へ通えばいいじゃない。和人のお母さんのこともあるけど、こっちも落ち着くまでは心配でしょう?」

 祥子の言葉に、和人は優しく微笑んだ。祥子は自分のことをよくわかってくれている、気遣ってくれている。目の前の祥子が頼もしく思え、いつもより愛おしく感じた。

『じゃあ悪いけど、今日はお世話になるよ……』

 そんな和人に、祥子は微笑んで頷いた。


 初めて上がる祥子の部屋は、1DKのマンションだった。綺麗好きの祥子だけあり、部屋は綺麗に片付いている。それでも、テーブルの上だけは雑誌や原稿が雑然としており、祥子は恥ずかしそうに、それを素早く片付けていた。

「テーブルだけは出しっ放しで……そこら辺、適当に座って。今、コーヒー入れるね」

 そう言って、祥子はキッチンへと向かっていく。

 和人は少し興味深げに、初めて入った祥子の部屋を見回し、ソファに座った。一人暮らしの女性の家へ入ったのは、前に一度、幸の部屋に入ったきりである。そう考えると、和人は少し緊張もした。しかし幸のことが頭から離れず、途端に暗い表情になる。

 そんな時、和人の顔を覗き込むように、祥子が入れ立てのコーヒーを差し出した。

「はい」

『ありがとう……』

 和人は無理に微笑んでそう言うと、コーヒーに口をつける。祥子も和人の隣に座り、コーヒーを飲んだ。二人掛けのラブソファには、密着するほどのスペースしかない。こんなムードのあるシチュエーションも、今の和人は何も気づかない。ただ脳裏に幸の痛々しい姿だけが浮かび、手術をしなければ目が見えないという事実が、和人の心を深く突き刺す。一体この先、どうして幸と話せばいいのか。しかし和人は、あまりに突然に起きた衝撃に、事実を受け入れられずにいた。

「……和人」

 思い詰めた表情で固まる和人に、祥子が語りかける。和人はハッと瞬きをすると、隣に座る祥子を見つめた。

『ごめん、何?』

 いつもの優しい表情に戻って、和人が人差し指を振る。

「これ……」

 言葉少なめに祥子が差し出したのは、明日発売の文芸雑誌だった。この雑誌は、和人が毎月講読している本で、今月号は待ちわびていた雑誌である。

「ここ、見て」

 祥子が、付箋をしていたページを開いて見せる。祥子の指が指す場所には、和人の名前が見えた。和人は目を細めて、素早く記事に目をやる。


 “文芸賞、佳作……題名、静寂の音。作者、水上和人……”


 実は和人は、数ヶ月前にこの文芸雑誌で、季節毎に募集される文芸賞に応募していた。大学の文学部学生である和人は、小さい頃から文章を書くのが好きで、将来も小説家などの道に進みたいと思っていた。学校の先生や祥子の勧めもあり、一度作品を送ってみることにしたのだが、まさかいきなり入賞するとは思ってもみなかった。

 雑誌で発表され、受賞者本人にも前もって知らされないこの雑誌の賞は、特異な形式ながらも知名度は高く、学生でまだ無名の和人の大きな飛躍になることは必至であり、新たな一歩になることは確実だ。

 和人は雑誌を食い入るように見つめると、嬉しさに顔を綻ばせた。

『これ、本当?』

「もちろん、本当よ。おめでとう!」

 思わず祥子が、和人の手を取って言う。和人よりも喜んでいる様子だ。

『この雑誌、どうしたの? 明日発売でしょう?』

 そんな祥子に、嬉しそうに和人が尋ねた。

「さっき打ち合わせで、ここの出版社に行ったのよ。そしたらそれがたくさん積み上げられてて、無理言って一冊譲ってもらったの。見たら和人の名前があるじゃない! もう私、居ても立ってもいられなくて……」

『ありがとう、嘘みたいだ。信じられない……』

 和人はさっきとは違う信じ難さで、笑みを浮かべている。

「馬鹿ね。これがあなたの実力よ。和人はこれからじゃない」

『……ありがとう』

 少し照れながらそう言う和人を、祥子は熱い目で見つめている。和人は静かに、祥子を抱きしめた。素直に嬉しい一歩前進だが、こんな時にもふと思い出す、幸のこと。誰かに触れていたい。人肌が恋しくて、和人は祥子をきつく抱きしめる。そんな和人の思いを諭すように、祥子は和人の唇にキスを重ねた。

「和人……あなたが好きよ」

 祥子が言った。思えばお互い、そんなことを言ったことがない。しかし和人は驚くことなく、祥子に静かに微笑みかける。

『僕も好きだよ』

 初めてきちんと確かめ合った一言だった。二人はもう一度抱きしめ合った。和人は祥子を抱きしめながら、静かに目を閉じる。胸の高鳴りを覚えていたが、フラッシュバックするように、幸の変わり果てた姿が浮かんだ。

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