11、事故
和人は電車からの流れる街並みを見つめていた。ふと、また悪寒が背中を走る。風邪かもしれないと、和人は身を震わせた。
長い家路はいつも気が重い。街を過ぎた景色は、もはや真っ暗だ。耳が聞こえない和人にとって視覚まで闇となれば、一人きりの時間の中では、本当に自分は孤独なのだと思い知らされる。
その時、和人のポケットが震えた。見ると、携帯電話に新着メールがある。祥子からである。
<お友達との飲み会は終わった? 帰ったらすぐにパソコンのメールを開いてください。ビックニュースがあるから!>
メールの内容はこうだった。和人は軽く顔を掻きながら、天井を見上げた。“ビックニュース”の見当もつかない。混雑した電車の中を、和人は立ちっ放しで家路を急いだ。
和人が改札を出ると、目の前に止まったタクシーから見覚えのある人物が走ってきた。幸の両親である。ただならぬ雰囲気に、和人は思わず二人を止めた。
「あ、ああ、カズちゃん。さ、幸が……」
涙を流しながら、幸の母親が言った。和人は『幸』という言葉に目を丸くした。
『さっちゃんが、どうしたの!』
和人が尋ねる。さっきまで一緒にいた幸に、何かあったというのか、気が気でない。逸る気持ちを、幸の母親にぶつける。
「和人君、急いでるんだ。なんなら君も来るかい?」
冷静さを装いながらも、蒼褪め、苛立ちに似た複雑な表情をして、幸の父親が言う。和人は居ても立ってもいられず、二つ返事で頷いた。
和人はそのまま、幸の両親とともに駅へと逆戻りした。
『何があったの……?』
夜の上り電車でガラガラの車内に乗り込んだ和人は、ボックス席の目の前に座る幸の両親に問いかけた。未だ事情を知らない和人の顔は、胸が張り裂けそうになるほどの切なげな表情をしている。
「病院から、連絡が入って……事故に遭って、重体だって……」
ぽつりぽつりと、目の前に座る幸の母親が言う。和人は信じられないといった表情で目を丸くした。
『そんな! さっきまで、一緒にいたのに……』
一同は、それぞれに押し黙った。
病院に着くと、和人と幸の両親は、走って手術室へと向かった。すると手術室の前には、腕と頭に包帯を巻いた、修吾とその母親がいた。
「修吾さん!」
幸の母親が、すがりつくように修吾のシャツを掴む。
「申し訳ありません!」
それと同時に、修吾は深々と頭を下げた。修吾は頭を下げたまま震えている。
「申し訳ありません。この子も動転していて、まだ何がなんだか……」
修吾の身体を抱いて、修吾の母親も頭を下げた。
「何が……あったんですか?」
幸の父親が尋ねる。それに答えたのは修吾ではなく、修吾の母親だった。
「修吾が幸さんを車で送る途中、交差点で接触したようなんです……相手は大型のトラックで、気づいた時には突っ込まれていたと。それが……ちょうどぶつかったのが助手席側で……うちの子は腕の骨を折り、頭を打って脳震盪を起こしていました。でも、幸さんのほうは……」
そう言う修吾の母親の口元を、和人は注意深く見つめていた。完全に理解は出来ないものの、大体はわかった。
一同は落胆し、それ以上、誰も何も話そうとはしなかった。ただ長椅子に座って、幸の無事だけを祈っている。そばにいる修吾は表情を失くし、未だ動転しているようである。
和人も長椅子の端に座り、目を閉じた。「助かってほしい」、ただそれだけだった。
しばらくして、手術室のドアが開き、一同は一斉に立ち上がった。
和人の目には、医師に駆け寄る幸の両親、やがて泣き崩れる幸の母親が映っていた。幸はどうなったのか、食い入るようにその光景を見つめている。
すると手術室から、横たわった幸が運ばれてきた。一同の目に、ほぼ全身を包帯でぐるぐる巻きにされた幸が映る。頭から顔、肩や腕まで包帯を巻かれているが、唯一剥き出しの口元だけが、幸ということを証明している。
生きている──。全身で息するように呼吸をしている幸に、和人はそう認識した。
一同はそのまま幸の後について、病室へと向かっていった。その途中、和人は思いきって修吾の背中を叩いた。修吾は肩を震わせ、和人を睨むように見つめる。
『説明してくれませんか? さっちゃんは……』
静かに、和人がそう尋ねた。誰に聞ける状況でもなかったが、一刻も早く症状が知りたかった。しかし、和人がそう言ったところで、修吾は現実から逃げ出すように、その場を走り去ってしまった。
その時、和人の携帯電話が震えた。病院だというのに電源を切り忘れていたことを思い出し、慌てて切る。和人は幸の病室を確認すると、誰もいない夜の廊下で携帯電話を開いた。またも祥子からである。
<まだ帰ってない? 早く帰って。私のほうが待ち切れないよ〜>
そんな内容だが、和人は祥子の弾んだ雰囲気とは正反対に、肩を落としてボタンを押した。返信する気力もなかったが、祥子を心配させたくもなかった。また実家にも連絡をしていないことに気づき、双方にメールを送る。
<連絡が遅くなってごめんなさい。幼馴染みが事故に遭って重体です……今日は帰れないかもしれません>
和人が祥子にそんなメールを送ると、すぐに返信でどこにいるかと尋ねられた。思えばこの病院は、祥子の家から歩ける距離だ。和人は幸の容態を知るためにも、祥子の力が必要だと思い、祥子を病院に呼ぶことにした。
十数分後――。
ドアが開けっ放しにしてある個室の病室から、廊下に少しはみ出す形で、和人が立っている。未だ忙しく、幸に治療を施す医師とともに、ただ呆然としている幸の両親がいる。修吾とその母親は、すでに先に帰っていた。
廊下から見える和人を見つけて、祥子が駆け寄る。
「和人……」
『ごめん。遅くに呼び出して……』
「ううん。いいの……」
祥子はそう言うと、病室を覗いた。
さっきから同じ光景の室内では、特に目立った動きもない。幸の両親は、もはや和人がそばにいるということも、祥子が来たことさえも気づかないようだ。
『出よう……』
和人は祥子の肩を抱くと、廊下へと出て行った。すっかり肩を落として空ろな表情の和人の手を、そっと祥子が握る。そんな祥子を、和人は見つめた。祥子は心配そうに和人を見つめている。
「……大丈夫?」
祥子が尋ねた。野暮とは思ったが、今まで見たこともない和人の暗い顔に、そう聞かずにはいられない。
『うん。ただ、まだ症状がよくわからないんだ……ご両親にも正式に話はされていなくて、まだ落ち着かないみたいだ……』
静かに和人の手がそう話す。和人の脳裏には、包帯で顔さえ確認出来ない幸の姿が焼きついている。さっきまで幸と話していたこともあり、ショックは相当なものだった。
「和人……」
そう言って、祥子が和人の腕に手をかけた時、幸の病室から医師と幸の両親が出てくるのが見え、和人は駆け寄った。
「カズちゃん……」
今日出会ってからずっと泣きっ放しの幸の母が、すがるように和人の腕を掴む。
『……さっちゃんは?』
ようやく、和人がそう尋ねた。幸の症状は、和人にはまだわからない。
「これからお話があるのよ……」
やっとのことで幸の母親が言った。薄暗い廊下の明かりだったため、和人は探るように目を凝らして、幸の母親の口元に集中した。
そんな和人の横に、そばにいた祥子が出てきた。幸の母親は祥子を見つめる。
『彼女は僕の友人です』
和人が、すかさず祥子を紹介した。祥子は静かにお辞儀をする。
「森下祥子といいます。彼と同じ職場関係で、家が近くなものでしたから……彼への通訳は、私がします」
控えめながらも力強い口調で、祥子が言った。幸の母親は静かに微笑んで頷いた。
「それはそれは……これから家族だけに話があるの。申し訳ないけど、カズちゃんには後で伝えるから、今は話を聞いてくるわ。今日は目を覚まさないみたいだし、カズちゃんは……」
幸の母親の言葉を、祥子が手話で和人に訳す。和人は同時に二人を見つめながら、頷いていた。
『おばさん。僕は待ってるよ』
切実な目で和人が訴える。幸の安否がわからない以上、ここで帰る気にもなれなかった。幸の両親も祥子もそれを察し、それ以上は何も言わない。
幸の両親は和人と祥子に会釈をすると、医師とともに別室へと向かっていった。それに続いて、和人と祥子も歩き出す。ふと横切る幸の病室のドアは閉められ、面会謝絶の札が下げられていた。
幸の病室から少し行ったところにナースステーションがあり、幸の両親はその隣にある別室へと通された。そこから先は、親族でない和人たちは入れない。和人はナースステーションのすぐそばの長椅子に座った。それに続いて、祥子も腰を下ろす。
祥子の目に映る和人の横顔は、思い詰めた表情で蒼褪めている。
「あの……」
するとそこに、ナースステーションから出てきた女性看護師が、声をかけてきた。和人はハッと顔を上げる。
「よかったら、そこにお湯がありますので、お茶などご自由にどうぞ……身体を冷やすとよくないですよ」
看護師が、丁寧な手話でそう言った。
『ありがとうございます……手話が出来るんですね?』
やっといつもの笑みに戻って、和人が言う。
「ええ、少しですが……学生時代に、少しやっていたんですよ」
その言葉に、和人は静かに微笑んで頷いた。しかし、その目は空ろなままだ。和人は少し考えた後、看護師に問いかけた。
『……中では、どんなことが話されているのですか?』
「ああ、医師がご両親に……」
わからない手話を思い出すように、目の前の看護師が手をまごつかせる。和人は祥子を見た。
「あの、私が訳します。私もまだ、完璧に手話が出来るわけじゃないんですが……」
祥子の言葉に、看護師は頷いた。
「ありがとうございます。ええっと……医師がご両親に、患者さんの現状と今後の医療方針をお話しているところです」
看護師がそう言い、横にいる祥子は手話で和人に訳す。和人はそれを理解し頷くと、もう一度看護師を見た。
『彼女は、どんな様子ですか? わかっていることだけでいいので教えてください』
和人が尋ねる。看護師は少し困った様子だ。
『……手術室から出てきた時、少し説明があったようですが、僕には理解出来ませんでした』
和人はそう続けた。看護師は、和人がここへずいぶん前に駆けつけていながらも、未だに何も知らされていないのだということを理解し、和人を見つめ、口を開く。
「大丈夫です……意識が戻るまでは油断出来ませんが、命に別状はありません」
看護師の一言目に、和人は初めて安堵の笑みを見せた。
「でも外傷が酷くて、目立つ傷跡がいくつか残ると思います……」
『……外傷?』
同席していた修吾は、軽い怪我で済んでいたように見えた。なぜ幸だけが重症なのか、和人にはわからなかった。
看護師も和人の疑問を察して、眉を顰める。
「ぶつかったのは助手席側だったので、原田さんのほうのが衝撃が強かったみたいですね……運転席のほうは窓も開いてたそうで、それほど外傷はなかったって聞きました……多分、これから医師とご家族で話し合って、治療方針も決まりましたら、いろいろわかると思うので……」
それを聞いて、和人は頷いた。
『ありがとうございました』
「いいえ。では……」
看護師が去っていくと、和人は小さく溜息をついた。隣に祥子がいるということも忘れ、ただ幸の安否だけを気遣っていた。
しばらくすると、和人の目の前のドアが開き、中から幸の両親が出てきた。幸の母親は、未だ止まることを知らない涙を流している。
和人と祥子は静かに立ち上がった。和人はすぐにでも幸のことが知りたかったが、あまりにも泣きじゃくっている幸の母親を見て、問いただすことなど出来ずにいる。
そんな時、一人しっかりしようとしている幸の父親が、母親の肩を抱いて和人を見つめた。
「遅くまで付き合わせてすまないね……」
幸の父親が言った。和人は大きく首を振る。
「談話室に行こう。君にも話しておくよ」
和人が何かを発する前に、幸の父親がそう言って背を向けた。和人は少し緊張しながら、その後をついていく。
一同は、そこからすぐそばにある談話室へと向かっていった。消灯時間は過ぎているので、その部屋には誰もいない。
「ねえ、ハッキリ言ったの?」
ナースステーションでは、和人に声をかけた看護師に、数人の看護師たちがそう尋ねた。
「まさか。言えないわよ……」
一人の看護師が、俯いて言う。
「そうよね。あの患者さん、もう目が見えないだなんて……」
その場にいる看護師たちが、一斉に暗い顔になった。
「幼馴染みなんですってね、あの男の子と患者さん……あの男の子、耳が不自由なんでしょう? 可哀想ね。目が見えないんじゃ、手話で会話することも出来ないじゃない……」
看護師たちの溜息は、病院中に響き渡るかと思うほど、長く切なくこだました。