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1、序章


 私は今、死の床にいる。

 私の人生には、いつもあなたがそばにいた。あなたがいなければ、今の私はないと言いきれるだろう。

 私はあなたを深く傷つけてきた。それでもあなたは、私のそばにいてくれた。ずっとずっと、いつづけてくれた──。



     ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇



「さーっちゃん! あーそーぼ」

 一軒の家の前でそう叫ぶ、小さな男の子がいた。まだ五歳の男の子だ。

 その声を聞いて、一人の少女が家から顔を覗かせる。男の子より一つ年上の女の子の名は、原田幸はらださち。ふわふわとした長い髪とくっきりした二重瞼が自慢の、近所でも可愛いと評判の女の子である。

「カズちゃん、何して遊ぶ?」

 幸が男の子に向かって尋ねた。男の子は、幸の隣の家に住んでおり、名前を水上和人みなかみかずとという。和人はいつも明るく、人を笑わせるのが得意の元気な男の子だ。幸とは仲の良い幼馴染みで、和人が生まれた時から知っている。

 家も隣同士のため、二人は毎日遊んでいた。

「今日はピアノのお稽古は?」

 和人が尋ねる。幸はピアノを習っているので、稽古がある日は早く帰らねばならないのだ。

「今日はないよ」

 幸がそう言うと、和人は嬉しそうに幸の手を取った。

「じゃあ、公園に行こうよ」

 二人は、近くの公園へと向かっていった。


 二人は砂場で遊んでいると、和人が何度も咳き込んだ。時には咽るように、苦しそうである。

「カズちゃん、大丈夫? 風邪かなあ」

「大丈夫」

 幸の質問に、元気にそう返す和人は、鼻水を垂らしながらも夢中になって遊んでいた。

 その日も二人は、夕方に幸の親が迎えに来るまで遊んだ。


 次の日。いつものように声をかけてこない和人に、幸は和人の家を覗く。

 和人の家は共働きで、昼間に両親はいない。だが祖母が同居しているので、和人の面倒はいつも祖母が見ていた。

 幸は、和人の家の呼び鈴を鳴らした。

「あら、さっちゃん」

 出てきたのは、和人の祖母である。

「おばあちゃん。カズちゃんは?」

「カズちゃん、お熱が出てるのよ。今日はお寝んねしてるから、また今度ね」

 祖母の言葉に納得しながらも、幸は和人のことが心配になった。

「……カズちゃん、大丈夫?」

「うん、大丈夫よ。さっちゃんがお見舞いに来てくれたこと、ちゃんと伝えるから。元気になったら、また遊んでね」

「はーい……」

 幸は頷くと、自分の家へと帰っていった。

 しかし、それから何日経っても、和人が幸の家へ遊びの誘いに来ることはなかった。


 数週間後。幸は今日も和人の家を覗き込んだ。

 ここしばらくは和人の祖母の態度も一変し、「今、忙しいから」の一点張りで、門前払いを食っている。幸は幼いながらも、和人に何かあったのだと悟っていた。

 幸が部屋から外を眺めていると、和人の家の前に一台の車が止まるのが見えた。中から和人の両親が降り、続いて和人の姿が見える。幸はすぐに、家の外へと飛び出した。

「カズちゃん!」

「……さっちゃん……」

 和人の母親が幸を見て、困ったように呼びかける。和人も幸に気づいて、嬉しそうな顔を見せた。

「あっあー」

 その時、和人がそう言った。幸はいつもと違う様子の和人を不思議に思って、静かに和人へと近づく。

「……カズちゃん、どうしたの?」

 幸がそう問いかけた時、幸の母親が家から飛び出してきた。

「中へ入りなさい、幸! ごめんなさい、水上さん。足止めして……」

 そう言った幸の母親に、和人の両親は苦笑し、和人を連れて家の中へと入っていってしまった。


 それから幸が、和人が高熱により聴覚を失ったことを理解するまでには、少し時間がかかった。

「幸。カズちゃんは、お耳が聞こえなくなっちゃったの。だから、もうお外は危ないから、これからは二人で遊びに行ったりしちゃ駄目よ」

 母親にそう言われたが、まだ小さい幸には、それがどういうことなのかわからない。


 しばらくして、水上家も落ち着いたようだった。和人の両親は常に苦悩した顔をしていたが、やっと幸も和人と会うことを許された。しかし久しぶりに会う和人は、前とは違った――。

 幸の言うことが理解出来ない。和人が発する言葉が、幸には理解出来ない。なにより和人自身が戸惑いを感じていて、いつもイライラし、幸に当たることもあった。

 そんなことが続き、いつしか幸も和人の家を訪れなくなっていった。


 一年後――。

 幸は小学校へ入学した。和人とはもうほとんど会っていない。時々見かける和人は以前と違い、表情を失くし、いつも一人で寂しそうにしていた。

「返してほしかったら、返してくださいって言えよ」

 学校帰り、幸は和人とよく遊んでいた近くの公園に差しかかり、そんな声を聞いた。砂場では、和人が何人かの小学生に囲まれている。幸や和人ともよく遊んでいた、近所の子供たちであった。どうやら和人は砂場で遊んでいたようだが、小学生たちにスコップを取られたようである。

「あーあー!」

 泣きながら、和人が小学生たちに体当たりする。しかし、すでに一回り大きい年上相手には、弾き返されるだけである。

「返してあげなさいよ」

 その時、見かねて幸が間に入った。

「なんだよ。べつに、何もしてないよ……ちょっとからかっただけだろ」

「からかうって何よ。年下を苛めるなんて最低!」

 怒りを露わにして、幸が怒鳴る。小学生たちは慌てて和人にスコップを返し、去っていった。

 幸が和人を見ると、和人は幸のほうを向いて笑っている。そして両手で一つの動きをした。拝むような、何かのメッセージに見える。

「……え?」

 その意味がわからず、幸は和人を見つめた。和人は尚も笑いながら、幸を見つめる。

「あえあとお」

 和人が丁寧に、無理やりにそう言ったことで、幸は和人が『ありがとう』と言おうとしていることがわかった。

「ううん」

 幸は首を振ると、和人の手を取り、一緒に家へと帰っていった。


 その日から、幸は手話の存在を知った。和人は施設に通っていて、手話を勉強していることを知ったのだ。和人と話すためには、幸も手話を覚える必要がある。なにより、今でも弟のような存在である和人を守りたいと思った。


 十年後――。

 市内の高校に通い始めた幸は、友達も大勢いて、同じクラスで卓也という恋人も出来、有意義な生活を送っている。

「じゃあ、またな」

 駅で恋人の卓也に見送られ、幸は家へと帰っていく。すると、家の前で和人に出会った。

「久しぶり。今、帰り?」

 幸が手話交じりで尋ねる。十年前に始めた手話で、和人とは普通に会話が出来る。

『うん。そっちも、今帰り?』

 和人が手話で尋ねる。和人は現在、聾学校に通っており、両親は相変わらず共働きである。和人の面倒を見ていた祖母は数年前に他界しており、和人にとって幸は、姉や母親代わりの存在となっていた。子供の頃のようにしょっちゅう会うわけではないが、二人は変わらず仲が良い。

「うん。今日もおばさんたち遅いんでしょ? またうちで夕飯食べていきなよ」

 手招きして幸が言う。いつも一人でいる和人に、幸はよく食事へ誘っていた。それに対して、和人が遠慮がちに首を振る。

『ありがとう。でも、そうしょっちゅうお世話になってたら、悪いよ』

「馬鹿ね。今更そんなこと、関係ないわよ。宿題あるなら見てあげるよ」

『言ったね? 今日はいつもより多いよ』

「げ……まあいいや。とりあえず、持っておいでよ」

 二人は笑って、一度お互いの家へと入っていった。


「ただいま。今日、和人来るから、夕飯よろしくね」

 帰るなり、幸が母親にそう言った。

「あら、そうなの? 幸……あなたももう十七なんだし、そろそろカズちゃんばかりに構ってないのよ」

「え……どういう意味?」

 母親の言葉に、首を傾げて幸が聞き返す。

「だから……カズちゃん、耳が聞こえないでしょう? そんな人とばかり仲良くして……ねえ?」

 突然の母親の言葉に、幸は衝撃を受けた。そして怒鳴るように口を開く。

「……何言ってるの? 和人と仲良くして、何が悪いのよ!」

「べつに、お母さんは……」

「ひどいよ! お母さん、昔から差別は駄目だって言ってたじゃない。ましてや和人は、生まれた時から一緒だったんだよ? どうして今更、そんなこと言うのよ!」

「幸……」

「もう知らない! いいよ、お母さんなんか!」

 幸はそう言うと、和人の家へと向かっていった。

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