56
雨が激しくなってきた。僕たちはアーチの反対側に場所を移した。そちらの方が幾分高くなっていて、大きな岩も多かったので、多少なりとも雨を防ぐことができそうに思えたのだ。岩に体を押し当てながら、僕はリュックからビニールのシートを取り出して広げ、2人の頭の上からかぶせた。ビニールに打ちつける雨の音がバラバラと鳴った。
「もう一度聞いてもいい?これで“内界”の空は元に戻ったの?」 僕は聞いた。
「うん、空の色はもちろん、風も元通りになったはずさ」
「それじゃあ、君の仕事も無事終わったわけだ」
「そうだよ。やっとね」 彼はほほ笑んだ。安堵の表情が浮かんでいる。
「これを毎回繰り返すの?」
「何かおかしいと感じた時はね。でも今回はちょっと苦労したよ。調べたアーチはここが5つ目なんだ。ここまでわからなかったのは、今回が初めてさ」
「いつもは違うの?」
「異常を感じるとその度合いを見て、どのアーチが原因か、だいたいのあたりをつけるんだ。仮に最初に訪ねたアーチがはずれたとしても、だいたい3つ目くらいでわかるんだけどなあ・・・。今回はこれまでになく規模が大きかったので、“虹”から回ったのさ」
「5つ目ってことは、もう一つ、これから行こうとしていたアーチがあるってこと?」
「そうだよ、“弓”だよ。前回会ったじゃないか。直したばかりだから、あそこは違うと思ってたんだ。だから最後に回したんだよ」
「なるほどね・・・。それで、これからどうするの?」
「どうするって、また“内界”に戻るよ」
「レイクパウエル・・・いや違った、湖のほとりまで行って飛び込むんだね?」
「そうだよ。今夜が満月だから、何とかして湖に行かないといけないんだ」
「でもこの天気じゃ、月は出ないんじゃないの?」
「そうだね、“門”は光ってくれないかも。せめて雨が止んで、少しでも月が姿を見せてくれないと・・・」
ジョッシュの表情が曇った。
「今夜がダメだったら、次の満月まで待つしかないの?」
「いいや、それは無理なんだ。その頃には、この印が消えちゃうから」 そう言って彼は自分の顎を指差した。僕は彼の顎をじっと見つめたが、アーチの印は見えない。気づかないうちに、完全に消えてしまっていたのだ。
「ジョッシュ、大変だ。消えてるよ!」
「消えてる?何が?」
「印だよ。顎についていたアーチ型のやつ」
それを聞いて、みるみるうちにジョッシュの表情がこわばり、目が大きく見開かれた。
僕はもう一度、彼の顎のあたりをじっくりと見つめた。だが、何も見えない。どう見ても印は消えている。
僕はゆっくりと首を横に振った。
彼は悲痛な表情を浮かべ、顎を触り続けていたが、見る見るうちに目に大粒の涙がたまり、ぽろぽろと落ち始めた。
僕は何と声をかけてよいかわからず、ただ彼の悲しむ表情を見つめていた。
雨がたたきつける音に加え、空がゴロゴロ鳴り始めた。雷が落ちそうだ。
「行かなきゃ」 ジョッシュが言った。「とにかく湖まで行かなきゃ」
彼の気持ちは痛いほどわかったが、この雨の中、湖まで行くのはどう考えても難しい。引き返したところで、谷底の川を渡るのはもう無理だろう。今はただ、雨がやむのを待つしかない。
「無理だよ。この雨じゃ・・・」
「ティム、僕は行くよ。行かなきゃいけないんだ」
「でも・・・もう少し待とうよ」と僕が言ったところで、バキッバキッと地面が割れるような激しい音がした。雷が落ちたのだ。ジョッシュもさすがに驚いたようで、思わず肩をすくめた。
「ほら、いま行ったら危ないよ。雷に当たるかもしれない」
一瞬おびえた表情を見せたものの、ジョッシュの顔は真剣で、気持ちが高ぶっているのがわかった。
「ティム、どうしても行かないといけないんだ。いま行くしかないんだよ。僕は先に行くよ!」
そう言うと、彼は頭をおおっていたビニールを振り払い、もと来た道を岩壁に沿って走っていった。
「ジョッシュ!」 大声で呼んだが、後ろを振り返ることもなく、ひたすら走っていく。その姿が小さくなるのを見て、思わず僕も彼の後を追った。手にしたビニールのシートを頭上にかざしたものの、この雨では意味がなかった。途中でリュックに詰め込み、びしょ濡れになりながら必死に彼を追いかけた。
雨のせいで土は柔らかくなり、あちこちで足を取られるため思うように進めなかった。来るときに登ったあの急な斜面を、今度は下りないといけない。足場が崩れたりしないか心配だった。
ジョッシュはというと、足元が悪くても気にならないのか、来た時と同様にどんどん僕を引き離していく。斜面を下りるところで一瞬こちらに視線を向けたが、僕を待つこともなくそのまま下りていき、やがて姿が見えなくなった。
何度か足をすべらせバランスを崩したものの、やっとのことで僕も急斜面の上に着いた。下を見ると、河原にジョッシュがいて、濁流を見つめている。川の水はかなり増えていて、とても渡れるような状況ではない。それどころか、激しく降り続く雨でさらに水量が増し、河原まで飲み込みそうな勢いだった。
ジョッシュが振り返った。険しい表情で、首を横に振っている。さすがの彼も、これではどうしようもないと悟ったのだろう。とりあえず彼のいるところまで行こうと、斜面に足をかけたとき、踏みしめた土がゆるんで崩れた。 「あっ!」と思った瞬間、バランスが崩れて体が横に流れ、宙に浮いた。「ティム!」とジョッシュが叫ぶ声が聞こえた。僕の体は横になったまま何回転もして、河原まで転落してしまった。
一瞬、何が起きたのかわからなかった。気がつくと、あおむけになった僕の顔に、雨粒が打ち付けられていた。意識があったので、ひとまずほっとした。僕は15mほどの高さがある急斜面を転げ落ちていたのだ。死なずに済んだのは奇跡かもしれない。ただ、あちこちを殴打したようで、体じゅうに痛みが走った。特に肩が痛かったが、幸いだったのは、リュックを下にして地面に落ちたことだ。おかげで背中や頭を打たずに済んだ。
ジョッシュが駆け寄ってきた。
「大丈夫 !?」
「ああ、やっと追いついたよ」
僕は笑って見せた。彼は笑わなかったが、僕が痛そうな顔をしていないのを見て安心したのか、大きく息をついた。
僕はゆっくりと立ち上がってリュックを下ろし、服やズボンについた泥を払い落とそうとした。しかし、降り続く雨のせいで、かえってドロドロになってしまった。
「怪我はない?」
ジョッシュは僕の頭からつま先まで見回しながら心配そうに聞いた。
「ああ、ちょっと肩が痛いくらいだ。そんなことより・・・」 僕は川の方に目を向けた。「これじゃ無理だね」
ジョッシュは川の流れを見つめたまま、黙っている。
それにしても、この濁流の勢いは凄まじいものだった。この流れなら、岩だって削れるだろう。巨大なアーチができるのも納得できる。
ジョッシュはしばらく動かなかったが、そのうちもう一度、上流から下流の方へと川の流れを見渡した。水の量はさらに増え、来るときに僕たちが休憩した河原は大半が川に飲みこまれて消えており、もたれて休んだ板のすぐ近くまで水が迫っていた。ジョッシュは、川を渡ったときに通り抜けてきた、葦のような細い木が群生している方へと歩き出した。そして、手前の方からその茎を引き抜き始めた。
「どうしたの?」
そう言う僕の呼びかけに振り返ることもなく、「手伝って!」とだけ言い、黙々と葦を抜いている。何をしようとしているのかわからなかったが、僕は慌てて彼の横に駆け寄り、同じように片っ端から抜き始めた。
彼の表情は真剣そのもので、一言も言葉を発しなかった。彼の気迫に気圧され、僕もひたすら黙々と葦を抜き続けた。
何十本、いや何百本抜いただろう。すっかり狭くなった河原に、引き抜かれた葦の木々がうず高く積まれた。そして今度は、ジョッシュが葦と葦の端どうしを結び始めた。水気を含んでいることもあり、茎はすっかり柔らかくなっていて、少し力を入れると紐のように結べるのだった。
「手伝おうか?」 僕は声をかけた。
「いや、いいよ。ちょっと難しいから」
ただ結んでいるだけのように見えたので、何が難しいのかよくわからなかったが、集中している彼を邪魔してはいけないと思い、それ以上は声を掛けなかった・
「ティムは川を見ててくれればいいよ。水かさが増えないか注意してほしいんだ。もし、水の量が増えてきたら教えて」
確かに、気づかないうちに足を取られ、流されたりしたら大変だ。僕は川の方に向き直り、水位を注意深く見ていた。
30分くらい経っただろか、ジョッシュが「できた!」と声を上げた。見ると、いくつもの葦を両端で結び、真ん中のあたりを膨らませるように広げて、まるでハンモックのような形のものができていた。茎どうしを結んだ上に、枝もうまく絡ませて隙間なく編み合わせている。これは確かに結構な技術だ。僕には真似できない。
「へえ、すごいね。ところでそれは何?」
「僕たちの船さ」
「船?」
「そう、これがあれば川も怖くないよ」
こんなもので川を渡ろうというのか・・・。
「おいおい、冗談だろ?この激流だよ。向こう岸に着く前に、流されちゃうじゃないか」
すると彼は不思議そうな顔をして言った。「船だもの。流されないと進めないよ」
それを聞いてやっと気がついた。彼は来た道を戻るつもりはなく、この濁流に乗って一気に下流、つまり湖まで行こうとしているのだ。しかし、今、僕の目の前にあるのは船と呼べる代物ではなかった。骨格だけのボートのようなものだ。これが水に浮かぶはずはない。
「こんなの乗れないよ。沈んじゃうじゃないか」
僕がそう言うと、彼は土砂に立てかけてあった板を3枚ほど持ってきて、広げた網状の“船”の底に並べて置いた。そして別の葦の木を使って、一つずつくくりつけた。
「これでどう?」
底に板を敷いたことで少しは格好がついたが、それでも船というより、二人がぎりぎり乗れる小さな筏のようなものだった。ひょっとしたら古代の人々はこのようなものに乗って漁に出かけていたかもしれない。その知恵をジョッシュも引き継いでいるのかも。だがしかし、平穏な海の上に浮かべるならともかく、この激しい流れに漕ぎ出すとなると話は別だ。こんなもので川を下るなんて、明らかに命知らずだ。
「無理だよ。間違いなく転覆するよ。二人とも川に飲まれて一巻の終わりさ」
ジョッシュは不満そうな顔をした。
「大丈夫だよ。僕が前、ティムが後ろ。僕が川の流れを見てうまく操縦するからさ」
「ねえ、本気で言ってるの?君は自然の怖さがわかってないんだ。ライフジャケットを着てタグボートに乗る観光用の急流下りとはワケが違うんだぞ。時間はかかるけど、水が収まるのを待って、元来た道を戻るほうがいいよ」
僕がそういうと、ジョッシュは両頬を膨らまし、涙目になった。
「とにかく行くしかないんだよ!行くしかないの!」
急に癇癪を起したように叫んだので、僕は驚いた。彼がそこまで動揺する姿を、これまで見たことがなかった。
僕は川の方に目をやり、そしてもう一度ジョッシュの顔を見た。彼の表情は変わらず、真剣そのものだ。僕の目をじっと見つめている。思わず僕は視線をそらし、改めて川の流れに目をやった。このちっぽけな筏に乗って、あの急流を下る・・・
とても現実的とは思えなかったが、もはや理屈ではない。やらねばなるまい、やるしかないのだ。僕はジョッシュの方を向き直り、黙ってうなずいた。彼の険しい表情が、穏やかな笑顔に変わった。
「絶対に大丈夫。僕を信じて・・・」




