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フィップス・アーチの名は、かつてエスカランテで牧畜業を営んでいたワシントン・フィップスという人の名前から取られたそうだ。彼はこの周辺で牛を飼っていたが、トラブルが元でジョン・ボイントンという男に殺されてしまった。1878年のことだ。自身の死をもって、彼はアーチにその名を残した訳だ。もっともそれは、彼の本望ではなかっただろうけど。
一方、ボイントンの方も、州道12号沿いにある見晴らし台にその名が付けられている。小さな田舎町で起こった殺人事件は、このあたりの住人にとってそれほどインパクトが大きかったのかもしれない。
フィップス・アーチとマーベリック・ナチュラル・ブリッジとは直線距離は近いものの、フィップス・アーチは岩山の上にあるので、かなり急な斜面を登らないといけない。何人かで行くなら、足場を支えて誰か一人を先に持ち上げてしまい、先に登った人が上からロープを垂らして残った人を引き上げればいい。しかし、一人しかいないと、そういうわけにもいかない。できるだけ傾斜の緩やかな場所を探し、岩壁にへばりつくようにして登る必要がある。僕は右へ左へと移動して登れそうなところを探しながら、少しずつ登って行った。
フィップス・アーチは一言でいうなら、“壮大”という言葉が似合うアーチだった。他のものと比べ、どこか威圧感がある。そのように感じるのは、アーチ部分の厚みがあるからだ。ということは、できてからまだ日が浅いのだろうか?このアーチも、この先、何万年もかけて徐々に細くなっていくことだろう。僕たちにその変遷を見届けることはできないけど、今後、形がどうなっていくのか、その変化を想像すると楽しかった。
僕はいったんアーチをくぐり、反対側に出た。そこは岩山の頂上部分にあたり、岩棚が広がっていた。ところどころに松の木が生えている。こちら側から見るアーチは正面から見たものと比べ、趣きが若干異なっていた。ナチュラルアーチの中には、表と裏とでまったく違う表情を見せるものがあるが、フィップス・アーチもその一つに入るだろう。うまく表現できないが、表側は猛々しい感じ、裏側は優しい印象といったらいいだろうか。とても魅力的なアーチだと思った。
この規模のアーチであれば石積みがあったとしてもおかしくない。そう考えた僕は、まずアーチの真下を調べてみることにした。大きく開いた穴の下の両側に大中小、さまざまな大きさの石がごろごろしていた。きっとここなら石を積んでも人には気づかれまい。
僕はまず、向かって左側を調べてみた。傾斜が緩やかで転がっている岩の大きさも比較的小さかったからだ。しかし残念ながら、こぶりな石がいくつも散らばっているだけだった。
次に反対側を調べた。こちら側には、大きな岩がいくつかあり、足元に大小さまざまな岩や石が転がっていた。そこを登って行くのは、思ったよりきつかった。それに、もし石積みがあったとして、僕が登ったはずみに崩れてしまったりしたら大変だ。石が崩れないよう、慎重に様子を見ながら進む必要があった。
手前の大きな岩の裏側を覗き込んだ時、僕は思わず「あっ!」と声をあげた。少し奥まったところに石積みらしきものがあるのを見つけたのだ。ただ、周りにも同じような石が転がっており、中には二段に重なったように見える石もいくつかあったので、本当にそれが石積みなのか自信を持てなかった。僕は積まれた石の形と向きを覚えておいて、しばらく時間をおいてからまた見に来ることにした。
晴れていて気持ちのいい日だった。太陽の光が真上から降り注いでいる。フィップス・アーチの岩肌には、どうやってできたのかわからないが無数の細い筋が刻まれていて、ちょうど光の当たり加減でその線がきれいに浮き出て見えた。このアーチの片側は、まるで刃物で切り落としたようにまっすぐに削られている。どうしてこのような形になったのだろうか?切り落とされた残りの部分はいったいどこへ消えたのか?すごく不思議だ。また、アーチというものは岩が崩れたり削れたりして穴ができるわけだが、その崩れた部分はいったいどこへいってしまったのだろう?アーチの下に転がっている石は、かつてはアーチの穴の部分を形成していたはずだが、それらをかき集めても、空いた穴の大きさと同じにはならない。細かく削られ、砂となって流されてしまったのだろうか?
そんなことを考えつつ、フィップス・アーチからは少し離れ、上がってきた谷の向かい側に連なる岩山が見える場所に腰を下ろして、しばらくの間、周りの景色を眺めていた。
ジョッシュはどこにいるのだろう?
僕は立ち上がって、崖の端まで歩み寄り、岩山に向かってジョッシュの名を大声で呼んだ。
「ジョーッシュ!」
僕の声がこだました。その音は何度も反響を繰り返し、谷底に響き渡った。
「ジョーッシュ!」
僕は2度3度と繰り返し叫んだ。彼に、この深い谷のどこかにいてほしかった。
残響が止み、しばらく聞き耳を立てたが、シーンとした空気が張り詰めるだけだ。風の音すらしなかった。もちろん人影は見えない。
僕はアーチの手前まで戻り、岩棚の上に寝そべった。空に雲が浮かんでいたが、風がないせいか止まっているように見えた。なんだか今の僕みたいだと思った。同じところに立ち止まったままだ。しかし、この感覚は、今日初めて感じたものではない。以前も同じような気持ちになったことがある。それがいつだったか、今となっては思い出せないけど・・・。要するに、成果の上がらない日が多いということだ。結局、ジョッシュの居場所は手掛かりすらつかめない。それを考えると、気持ちが沈んだ。
動かない雲を眺めながら、エスカランテの町で自分の身の回りに起きたことを思い出していた。よく考えたら、不思議なことばかりだ。
滞在期間を聞き直してきたモーテルの女主人。
ツアー用のジープをただで貸してくれたドラッグストアの老人。
訊いてもいないのに、地図を勧めてきたアウトドアショップの女性。
僕の顔を見て不可思議な反応をしたサンドイッチ店の女の子。
そして・・・2度目は吠えなかった牧場の犬。
何も言っていないのに、僕の素性を知っているかのようだ。彼らの素振りからすると、僕の顎についた印と何か関係があるようにも思うのだが、実際のところ、どうなのだろうか?
いろいろ考えるうち時間が経ったので、先ほどの石積みを改めて確認することにした。アーチの真下まで行き、積み上がった石をじっと見つめる・・・やっぱり、確かに動いていた。先ほどは2段目と3段目の石の角が離れていたが、今はほぼ同じ方向を向いていた。これでフィップス・アーチが6つのアーチの一つであることがはっきりした。“壁”の手前にあるアーチのどれかということになるので、見た目から考えると、これが“岩”だろうか。
ジョッシュを見つけることはできなかったが、謎はひとつ解けた。少しずつではあるが、確実に物事は進んでいるのだ。止まっているように見える空の雲も、やがてどこかに流れていくように。




