91 南の山
山中を進んでいくと、獣の息遣いが感じられるようになってきた。ところどころ、なにかが通った跡が残っているが、常に草木をかき分けなければ歩くことすら難しい。
「確かに、これでは平地の民は足を踏み入れるのは難しそうだなあ」
ヴィレムがそんな感想を漏らすと、シオドアはここぞとばかりに反撃に出た。
「なんだ、貴族の坊ちゃんはこれくらいで根を上げるのか?」
「そんなわけないじゃないですか。そもそも、俺は小さいときから森には行ってますよ」
訓練もかねて、森を歩くことはあった。それにやはり森に魔物を倒しに行ったと言えば、ヴィレムが子供らを集めて隊を作ることになったきっかけでもある。
「ヴィレム様ががっかりされているのは、決して辛いからではありません。お肌が敏感なので、虫刺されを嫌がっているのです」
クレセンシアは言い終わると、尻尾を一振りして近寄ってきていた羽虫を追い払った。
別にヴィレムはそんなことを思っているわけでもないが、こんな山中ならば虫刺されもひどいかもしれない。
そう思ってシオドアを見るが、どうにも軽装である。ここらの虫は大きい個体もいるから、服の上からでも刺されてしまいそうだ。
「……基本的にな、魔物の匂いがしっかりついた者に動物は近寄ってこねえんだよ。食われたりたたき落とされたりしちまうから」
「それは部族の理由であって、シオドアさんの理由にはなりませんよ?」
「お前さん、ほんと可愛くねえな」
彼らはずっとそんな調子であったが、クレセンシアがやがて狐耳を立てた。集落を発見したようである。
しかし、基本的に彼らは移動を続けているため、どこにどの部族がいるのかはわからない。そしてシオドアもこの土地を離れて久しいため、いろいろと変わっていることもあるかもしれない。もっとも、あくせく働く都市とは違って、ここではそれほど激しい出来事もないから、落ち着いている可能性が高いが。
「さて、シオドアさん。挨拶してくださいね?」
「なんで俺がするんだよ。こういうときは、お偉い貴族の末っ子さんがやるべきじゃないのか?」
「いえいえ。俺はあくまでも付き添いですからね。ペール殿下のお墨付きの英雄、シオドア・アーバス殿の」
しかつめらしく言うヴィレムを見て、シオドアは諦めることにした。ヴィレムになにを言っても仕方がないと思ったのだろう。一度決めたら、無理にでも通そうとするところがあるのだから。
それに必要なときになれば、考えていることを明かすに違いない。だからシオドアはそれまで特に考えないことにした。
そうして人々の声が近くなると、途端、魔物のうなり声が上がった。見れば、三匹の犬の魔物がヴィレムたちを睨みつけている。
シオドアは臆することなくずいと前に出ると、
「俺たちは敵じゃない。族長と話をしに来た」
偉い者を出すように要求した。魔物も人の言葉を理解できずとも、ある程度は感情が読めるのだろう、僅かに声を潜めた。
さて、いきなり族長を出せと来たのだ。そうなると向こうも黙ってはいない。招かれざる客のところに、男たちがぞろぞろとやってくる。
「これはこれは。ご大層な歓迎、痛み入る」
ヴィレムは終始そんな調子であるから、男たちも困惑気味である。ただのどうしようもない場もわきまえぬ貴族ならそれでいいのだが、彼の後ろに控えている者たちは、どう見ても魔術師であったから。彼らの存在は、この山の中では目立っていた。
「……ここになんの用だ」
出てきた四十代ほどの男が、シオドアを見て短く告げた。
「用件は二つ。一つは東から来た兵との争いを避けてほしいということ。そしてもう一つは、王の居場所を知りたいということだ」
「いきなりやってきてなにを言うかと思えば……そうか、お前はあのときの子供か」
「なんだ、知ってるのか。それなら話は早い」
口角を上げるシオドアに対し、族長は呆れたように首を振った。
「ならばますます、その用件を聞くことはできないな。兵がこちらに危害を加えるようならば、臓腑を引きずり出してやる。そしてお前のような危ない輩を王に近づけるわけにはいかない」
「へえ……臆病なんだな」
「なんだと! 貴様、侮辱するか!」
いきり立つ男たちの中、シオドアは背を向ける。無防備な姿を晒しつつも、彼は余裕であった。なんせ、彼になにかあって困るのはヴィレムだ。つまり、今は矢が振ろうが天が降ってこようが、そよ風が吹くのとなんら変わらないのだ。
「末っ子。直接会いに行ったほうが早いだろう」
「その通りだけど……感動の再会はいいのかい? 君にも会いたい人物がいるだろう?」
「そりゃ、そうだが……けりをつけてからだ」
「ならばいい。早速行くとしようじゃないか」
ヴィレムは言い終わると、全身から幾何模様を生み出した。それらは南へと散らばっていき、一帯を覆い尽くしてあらゆる音を拾ってくる。
鳥の鳴き声、獣が肉を咀嚼する音、人々が草木をかき分ける雑音すら、はっきり聞こえてくる。その中には、巨大な魔物の姿もあった。それは幾何模様に反応して体を起こした。
「……でかい鳥でいいんだな? 羽があって、くちばしがあって……見た目はおそらく、あんまりそこらの個体と変わらないが」
風読みの魔術では音しか拾えないため、おおざっぱな姿しかわからないし、色に関してはまったく情報がない。通常の魔術師であれば、形どころか居場所を見つけるのすら難しいため、これでも並外れた実力があるからこそできる業だった。
シオドアは呆れずにはいられない。いくら直接会いに行ったほうが早いと言ったとはいえ、まさかこんなにあっさり見つかるとは。
しかし、常識外れの末っ子のことだ、考えても仕方がない。彼はかつて相対した魔物の姿を思い出す。
「ああ。そんな愛嬌たっぷりの姿に騙されて、者どもはやられっちまうのさ」
シオドアは自嘲も込めてそう言った。彼もまた、その一人である。いや、その者どもという言葉には、彼しか含まれていなかったかもしれない。なんせ、王に向かっていったものなど、ほかに聞いたことがなかったから。いたとしても、人知れず死んでいったに違いない。
それほどの相手だが、もう戦うと決めたのだ。逃げずに立ち向かうと覚悟したのだ。
シオドアはヴィレムをしかと見る。
「末っ子よ。策はあるんだろうな?」
「そりゃあ、もちろん。まさか無策でシオドアさん一人に行かせるわけないじゃないですか。それじゃあ気がついたときには王のお腹がぽっこりふくれてますよ」
「そこまで頼りねえと思ってるなら、こんなことやらせようとするなよな」
「大丈夫です。なんとかなりますから。……これを使ってください」
ヴィレムが放り投げたのは、緑色の塊である。
シオドアはそれを受け取って具合を確かめてみると、剣や鎧など自由自在に形を変えていった。シオドア用に調節した竜銀である。
この金属は魔力的な変化をするため、魔術師には好まれているものだ。しかし、彼は魔術師ではないし、どちらかといえば武術のほうを好んでいるだろうから、相応しい武器とは言いがたい。加えて、これだけのものが王を倒すための必殺兵器とも思えなかった。
「……なあ、ほかにはないのか?」
「用意したのはそれだけですよ。俺たちの荷物が少なかったのは知ってるでしょう? 袋の中にはパンやワインしかありませんが……前祝いでもしますか?」
「末っ子よ。……この役目降りてもいいか?」
「なに言ってるんですか。さあさあ、行きましょう。こうしちゃいられません。刻一刻と約束のときは近づいているのですから!」
ヴィレムはひょいとシオドアを抱え、猛烈な勢いで駆け始めた。魔術師隊の者すら置いていかれる有様である。隣にぴったりと着いていくのはクレセンシアただ一人。クリフは魔術師隊の者を先導する役割を担ったのだ。
「お、おい! どうするんだよ、まさかこのまま王のところに行く気じゃねえだろうな!? 下ろせって!」
暴れようとしたシオドアだったが、すぐに大地を踏む感触を覚えた。足がしっかりと着いている。
「はい。下ろしました」
あっけらかんと言うヴィレム。まさか、こんな素直に聞くなんて思ってもいなかったシオドアだったが、そこで振り返り――巨大な魔物の姿を認めた。
「うそ……だろ……」
硬直したシオドアをぎょろりとした目で見下ろした鳥形の魔物は、けたたましい声を上げた。
魔物の王が、数年ぶりに会う相手に、激しい闘志を燃やしていた。