89 西の空
ノールズ王国西の峡谷を越えた向こうには平原が広がっている。
遊牧民が暮らしている土地であり、数十年前までは大小様々な部族が駆け巡り、争い続けてきた歴史がある。
彼らは皆、獣だけでなく野生の魔物を飼い慣らして、ともに生活している特徴の者たちだった。それゆえに戦いは日常の出来事だったのも、争いを終わらせようとしなかった要因の一つであるかもしれない。
そうして誰かが統一することもなく、東からノールズ王国が攻めてくれば一時的に協力し、いなくなればまた争っていた彼らであるが、数十年前に変化が起きた。
とある部族が猛烈な勢いで勝利を収め始めたのである。彼らは瞬く間に平原を統治し、数多の長を従えることになった。それがイン・エルト共和国の成立であると言われている。
この戦力差を生み出した要因には諸説あるが、彼らが魔物を家畜化したことが最も寄与していたとされている。
部族において、魔物は野生のものを捕まえ屈服させるのが習わしであり、強い男の証左であると見なしていた風潮もあって、獣の家畜化には成功していたが魔物までそうしようという試みはなかったのである。
そうして多くの魔物による力をもって平原を圧倒したイン・エルト共和国であるが、もちろん、なにからなにまでうまくいくはずもなく、領地の拡大には限界が見えていた。
まず、南に存在している部族の存在だ。彼らはイン・エルト共和国の攻撃を退け続けてきた屈強なる者たちである。南部には山脈が存在するため、その土地では多くの四足獣を率いて進むのが難しかったというのが主な要因だが、彼らに言わせれば、「家畜など牙を抜かれた獣に過ぎない」のである。
そしてイン・エルト共和国の北東部――峡谷を経てノールズ王国の北の山脈と繋がっている――は高く険しい土地になっており、とても人が進んでいくような場所ではない。
ノールズ王国では、北の山脈は聖域から来る瘴気を阻んでいるとされており、北風が吹くと病に陥らないよう子供を家に隠す風習があった。そして西国でも同様に、北は近づくべき場所ではないとされている。
それから西部、北西部においては海が存在している。そこにはまた別の部族が生活しており、大海の向こうの北や西の大陸と交流があるとされていた。
いかに平原を治めた強大なイン・エルト共和国とはいえ、他国と争うのは得策ではない。そこで彼らには手出しをすることなく、互いに干渉せぬまま長い時間が過ぎてきた。
そんな状況もあって停滞していたイン・エルト共和国に、今は東からの侵略者の姿があった。小競り合いが続いていたノールズ王国からの兵である。
対して、イン・エルト共和国が駆使する魔物の群れが平原を駆け東に向かっていくも、その頭上を飛んでいた鳥形の魔物にまたがっていた兵が合図を出すと、地上の部隊はくるりと向きを変えた。
彼らに向かってきていた東の部隊は、その変化にうまくついていくことができず、勇ましく掲げていた剣を下げることしかできなかった。
「またか! なにをやっているのだ!」
声を荒げたのは、ノールズ王国国王アルベール・ノールズである。
ノールズ王国を出立して十日あまり。目立った変化がないことに、彼は焦れていた。
イン・エルト共和国は、先の戦いで濃紫のローブの一団がクロカブトを葬ったことを知っており、さらにはこの土地の争いでも猛威を振るったこともあって、空中から彼らの姿を見るなり、撤退、あるいは別の離れた部隊を攻めて離脱することを繰り返していた。
イン・エルト共和国の者たちも、そしてアルベール・ノールズの頭の中にも、ある一つの情報があった。それゆえに、のらりくらりと躱す余裕と、憤慨する焦燥が両者に生じていたのである。
――封建制を取っているノールズ王国では、諸侯の従軍義務に日数制限があるのだ。その間、ひと月余り。
それが終われば、各諸侯は王への忠誠を果たしたことになり、さっさと自分の領地に帰ってしまうことだろう。王と諸侯の結びつきは強いものではなく、ただ契約に基づいて命令を聞いているだけなのだから。
そのためアルベールにとって一番の敵は、なかなか崩せない敵でも、いまいち働かない家臣たちでもなく、この無駄に過ぎていく時間なのだった。
「父上。僭越ながら申し上げさせていただきますと、このままでは攻める機会を失ってしまいます」
そう述べたのは、第二王子ペール・ノールズである。
彼の友人、ライマー・セーデルグレンが帝国に留学していた話をよく言っていたこともあって影響を受け、帝国かぶれと揶揄されることもあるペールは、なかなか過激な性格をしていると言われることがあった。
それゆえに王アルベール・ノールズとは折り合いが悪く、以前、首都の襲撃があった際に問題が強まり、一層決裂することになったと見られていた。
そんな彼が、王が不満を溜め込んだところにやってきてこの言いぐさであるから、アルベールは思わず顔をしかめた。
「……お前は私を愚弄しに来たのか? それとも痛罵しに来たのか?」
「非難する意図はございません。私の愚かしい提案を聞いていただきたい一心のことでした。どうかご容赦ください」
頭を下げるペールを見て、アルベールは多少なりとも冷静になったようだ。さすがに、これは八つ当たりである、と。
「して、どうせよと言うのだ」
「我が軍は歩兵が多く、瞬間的な機動力では魔物に太刀打ちできません。しかし、それは交戦が短いからであり、長引けばこちらが有利になるでしょう。魔物には大量の食事が必要であり、どこかに補給の拠点があるはずです。そこに追撃を加えるのです」
人は長時間の移動においては優れた動物である。そして数もこちらのほうが多いのだから、敵を追ってしまえばいずれ魔物は食料と疲労で苦しむことになる、というのが要旨だ。
もちろん、アルベールとてそれくらいのことは考えている。誰よりも敵を討ちたくて仕方がないのはこの男なのだから。
「そうは言うが、手立てがないではないか。これ以上踏み込めば、南から別の民族が攻めてくる可能性がある。そして敵の拠点もわからぬ」
「そのことですが父上、敵の拠点の推測はできております。西国出身の者から情報を引き出し、草を食った跡などから、移動経路を割り出しました」
ペールが述べると、アルベールは僅かに眉を上げた。この人物は凡庸であったが、それゆえに家臣の進言に耳を傾ける寛容さもあった。
「だが、南はどうする? そちらを悠長に押さえている暇はあるまい」
「はい。そこで提案がございます。我々は西を攻める一方で、南にはルーデンス魔導伯を差し向けるのです」
アルベールは彼の話を聞き、息をのんだ。これではまるで、死ぬために行かせるようなものだから。
しかしそれと同時に、厄介払いをするいい機会だとも思った。
ルーデンス魔導伯は従軍の義務をろくに果たさず、少数を連れてきたばかりであり、王と彼に近しい人物は不満を募らせている。
加えて、この戦で敵が敬遠する動きの原因となっていることもある。戦そのものを見れば敵を威嚇する役割を果たしているのだが、それは諸侯にとって利になることであり、王にとって得であるわけではなかった。王にとっては、限りある時間で諸侯をいかに動かすかがなによりも大事なのだ。損害を被るのは諸侯である。
「今回はお前の提案を聞くとしよう。……そのように進めるといい」
「ありがとうございます!」
ペールは王に感謝を述べると、それからライマーのところに向かった。今回、計画を立てたのはほとんどがこの友人なのだった。
そしてその日のうちに彼らは仔細をまとめ、ルーデンス魔導伯へと告げることになった。
◇
ヴィレム・シャレットは空を眺めていた。
まだ日は天辺に昇る前で日差しが眩しく、流れゆく雲は絶えず変わり続けている。
「ヴィレム様、どうなさいました? お家が恋しくなってしまいましたか?」
クレセンシアの問いかけに、ヴィレムは視線を下ろした。
「いいや、逆だよ。シャレット領を離れ、ルーデンス領を離れ、王都や帝都に行き、そしてこんなところにまで来てしまった。けれどこうして見る空はいつだって変わらないし、いつだって違う景色を見せてくれる」
「小さな一歩だった、ということですね」
「ああ、走れば家々に灯がともる前に帰ってしまえる短い距離だ。……けど、俺はたったそれだけの距離を走ることはできないんだよ」
領主として、その責任に縛られることはなんら気になることはなかった。無論、王都や帝都に行ったときは、腸が煮えくりかえる思いもあったが、ルーデンス魔導伯は領民のために動いていたからまだ押さえることができていた。
しかし、ヴィレム・シャレットとしてこのような戦いをしている今、自分はいったいなんのために、なにをしているのだろうか、と思わずにはいられなかった。
そんな彼を見たクレセンシアは、狐耳をピンと立てた。
「ヴィレム様は面白くないのですね」
たった一言、それだけで胸中を言い表されてしまったのだから、ヴィレムもまさしく面白くない状況である。
「なにかあっと言わせたい。出し抜いて、目を白黒させてやりたいのだ」
「随分、大胆なことをお考えになるのですね」
「と言っても、俺がなによりも優先すべきはこの望ましくも退屈な時間なんだろう。あと一ヶ月もすれば、俺は暖かい城に戻っていることだろうから」
そのことをわかっているからこそ、ヴィレムはなにも行動を起こさないでいるのだ。そうでもなければ、今すぐにでも飛び出していって、敵に組みついていることだろう。
ここで彼が敵を打ち倒したところで、功績を無視することはできないだろうが、それでもやはり得をするのはやはり王アルベール・ノールズだ。そう思うとヴィレムは気力が萎えてきて、こうして愚痴をこぼしながら過ごすのである。
それに、この戦のどこに大義があるというのだろう。小競り合いから始まって、今はまったく縁のない土地を侵略しているだけだ。
戦う意義を見いだせずにいたヴィレムであったが、視界の端に向かってくる者たちを捉えると、表情を変えた。いつもの余裕ある魔術師の顔に。
「シオドアさん、どうしたんですか? そんな気難しそうな顔して」
「……そういうお前さんは、随分暇そうだな」
「それはそうですよ。なんせ敵さんですら、相手にしてくれないほどなんですから。こんな状況も、しがない貴族の末っ子にはお似合いですが」
「そのしがない貴族の末っ子をご指名の奇特な方がいるもんだ。……まったく、貧乏くじ引かされちまった」
シオドアはぼやきつつ、ヴィレムに手紙を投げて寄越した。開いて眺めてみると、そこには第二王子ペール・ノールズの署名がある。
内容は憂いを取り除くため南に向かえということである。しかし、この命令が下されたのはヴィレムではなくシオドアだった。
土地勘がある者から選択した結果とのことだが、実際のところ、どうでもいい人物でかつヴィレムの上に立っている者だから選ばれたのだろう。帰ってくることができるかどうかも怪しいような、期待されていない、どころか半ば厄介な諸侯をなんとかしてしまおうとすら取れる任務なのだから。
「というわけで、頼むぜ」
「……そんなこと言われましても、俺はこちらの情勢なんか知りませんよ。交渉どころか、どこに誰がいるのかさえも」
「そのほうが固定観念に囚われない方法が出るかもしれないだろ」
などとシオドアは軽い調子だ。しかし、彼とてなんにも思っていないわけではないはず。西国には思うところがあるようで、その上、こんな貧乏くじを引かされたのだから。
「で、どうするんだ? なんにも知らない末っ子さんは」
「とりあえず、西国の話を聞かせてください。すべてはそこから決めましょう」
ヴィレムがそう言うと、シオドアも頷く。そんな二人を見てクレセンシアが優雅に頭を下げた。
「ではご案内いたします。王国を救う英雄殿の拠点へと」
おどけて言う彼女に続いて、二人は歩き出す。
この辺りにはいくつものテントがあるが、将官のものともなれば、遠目からでも見分けがつくのが通常だ。
けれど、シオドアが案内された先には、魔術師たちがいるだけでなんにもありゃしなかった。
「どういうこと――」
彼が疑問を口にするや否や、ヴィレムは幾何模様を生み出した。それらが入り込むと地面は急に盛り上がって、家屋の形を作り上げる。それから金属の光沢に包まれた。
極力荷物を減らすべく考えた結果、このような方法を取ることになったのだ。これはヴィレムが兵の数を減らしすぎたゆえの行いである。
あっけにとられるシオドアだったが、すぐさま魔術師隊の者たちがせっせとワインなんぞを用意すると、中に入って、無骨な金属の椅子に腰を下ろした。
「それじゃあ、会議を始めましょうか。俺たちが勝ち残るためのね」
ヴィレムが不敵に笑うと、シオドアは説明を始めた。