88 クロカブト
クロカブトの硬い外骨格に覆われた足が迫ってくる。
大きさの違いも相まって、その速度は圧倒的だった。
「受け止めるな! 食らったらぶっ飛ばされるぞ!」
剣を構えていたナバーシュは、すぐさま背後の従者に合図をして跳躍した。足元をすさまじい勢いで空振りしていく足。従者たちも選りすぐりの者たちなのか、彼の指示どおりに回避していた。
が、今度は別の足が彼らを捉えていた。幾本もの足はそれぞればらばらに動き、襲いかかる者たちを掴まんとする。
受け流さんとする者、慌てて魔術により回避する者。そこには様々なやり方がある。
そしてナバーシュは素早く剣を敵に向けると、刃が一瞬にして変形していく。そこには纏わりつく模様があった。
剣先から幾重にも別れて、敵の足に絡みつく。そして彼は振り回されるように移動し、剣が解けて彼の肉体が投げ出されたときには、敵の頭目がけて一直線に飛び込んでいた。
いつしか剣は元の形に戻っており、掲げられた勢いのままに、脳天目がけて振り下ろされた。
激しい金属音を打ち鳴らしながら交わるも、そこでナバーシュの勢いは止まった。クロカブトには傷一つついておらず、うっとうしそうにするばかり。
そして真っ黒な兜がぐるりと動くとナバーシュは突き飛ばされて、地面へと打ちつけられた。ぎりぎりのところで力の魔術により勢いを殺すも、彼の表情は硬い。先ほどの一撃がまったく効果を成さなかったことが、精神的に彼を追い詰めていた。
「やるじゃない! 囮としてね!」
やけに元気のいい少女の声が聞こえ、ナバーシュは顔をしかめた。そちらには、敵の死角に回り込んでいたマルセリナの姿。
彼女は引き連れていた従者たちにさっと合図を出す。
「狙いは関節の付け根! 敵が気づく前に、一斉に撃つ!」
マルセリナの言葉とともに、いくつもの幾何模様が浮かび上がっていく。彼女の頭上で絡み合った光の筋が槍のような形を描くと、そこから赤い光が放たれた。
炎の槍は敵目がけて突き進んでいき、狙いを過たず敵に命中。炎が弾け、辺りに火の粉が撒き散らされる。さらにいくつもの火球が命中し、一帯は赤く染まっていく。
「どう!? 硬い皮膚があったって、この熱には耐えきれな――」
「馬鹿! 調子に乗るな!」
敵を眺めていたマルセリナの瞳に映る巨体がゆらりと動き、一層大きくなった。炎が消えると、そこにあったのは変わらぬ状況。捕食者が獲物を捉え、野蛮な目を爛々と輝かせていた。
一瞬、呆然としていたマルセリナだったが、すぐに我に返った。彼女を抱きかかえる存在があったからである。
「ちょ、ちょっと、どこ触ってるの!」
「暴れるな馬鹿、そんな状況じゃねえだろ!」
「えっち! すけべ! 変態!」
ナバーシュの腕の中でマルセリナは暴れる。咄嗟に離れていく二人の背後では、クロカブトの足がしきりに敵を捕らえんと動き回っていた。
マルセリナの従者はあまり練度が高くはないようで必死に逃げ惑い、一方ナバーシュの従者は警戒に動きつつ、主がなんだかんだと言いつつもマルセリナを助けようとした辺りに彼らしさを覚えるのだ。
が、そんなことなどクロカブトは考慮してはくれない。足元のちっぽけな者たちが逃げるよりも速く、距離を詰めていく。
「あれなんとかしてよ! あんたさっき、敵を討つ! とか言ってたじゃない!」
「お前こそ、意地を見せるとか言ってたじゃねえか!」
「なによ、かっこつけてるくせに! 意気地なし! へたれ!」
言い争う二人であったが、いよいよクロカブトが足を伸ばさんとすると、一緒になって青くなった。
が、その直後、クロカブトの動きが止まった。先ほどマルセリナが狙いをつけた関節のところに集まっている者たちが数十名。
そしてそこにいる一人の少年は、変わらぬ余裕を浮かべていた。
「さあ、彼らだけ賑やかにさせておくわけにもいかない。俺たちもいるということを、ここに、この瞬間に刻み込むのだ!」
ヴィレムは全身から幾何模様を生み出す。それは一瞬にして円錐型を形作っていき、無数の模様が何十にも重なり合い、半透明のものにもかかわらず、向こうが見えなくなるほどの密度になった。
そして魔術師隊の者たちが敵の足に力の魔術を用いて拘束している。前に進もうとしているがゆえ、足を引っ張ってやるだけで関節は伸びきっていた。
クロカブトが彼らの存在を振り返ろうとした瞬間、ヴィレムの風槍の魔術が発動した。
円錐が先端に向かって輝いていき、極限まで圧縮されていた空気が放たれる。針の穴を射貫くように精密なコントロールにより、クロカブトの関節に穴が空いた。そしてそれだけにはとどまらず暴威は吹き荒れ、足をなぎ飛ばし、余波で腹部にまで衝撃を与えていた。
巨体が傾いでいくと、その下敷きになりそうであった雑兵たちは慌てて逃げていく。が、間に合わない。
迫る巨躯に、顔を絶望に染めた瞬間、さっと割り込む黄金色があった。
ぴたり、とクロカブトの動きが止まる。その肉体には幾何模様が浮かび上がっていた。しかし、それを用いたのはその魔物ではない。
巨体に相対する小さな少女はけろりとした顔で、大きく槍を振りかぶり、かましてみせた。非常にシンプルな金属製の槍には無数の幾何模様が絡みついており、世に生まれ出たどの名槍にも劣らぬ美しさがあった。
槍はいかに人の大きさに比べて大きいとは言え、クロカブトの大きさからすれば些細なものに過ぎない。だが衝突の直後、甲高い音を立ててクロカブトの外骨格がへこみ、巨躯が吹っ飛んでいった。
全力で槍を振るったクレセンシアは、その勢いでくるりとステップを取りながら、構え直してみせた。そして視線を向ける先では、空高く舞い上がった敵を見据える者たちの姿がある。
「ヴィレム様! 今です!」
クレセンシアの声を聞きながら、ヴィレムは魔術を発動させる準備を行う。
それからクリフの指示の元、魔術師隊の者たちから浮かび上がる幾何模様は、それぞれ異なっている。だが、共通しているのは、どれも単体では発動し得ない魔術ということだった。
それらが完成するまでの間に、ヴィレムの全身からは膨大な密度の幾何模様が昇り続けていた。
そして魔術師隊の者が役目を終え、クリフの幾何模様がそれらを束ねた瞬間、ヴィレムから煙のように昇り続けていた光が、付近の模様すべてを絡め取り、組み込み、形を変えて一つの完成形へと変貌を遂げていく。
ほんの僅かな時間だった。
たったそれだけの間で、ヴィレムの大規模魔術、風竜翼が完成する。
「敵を貫け!」
彼の言葉とともに風が生じた。その風は付近の空気を取り込んでますます大きさを増していく。その流れの中では、光り輝く模様が一際目立っている。
そして空中で動きの取れぬクロカブトへと接近すると、風の流れが変わった。先細になって狙う先は一点。先の攻撃ですでに外骨格のなくなった関節だ。
クロカブトが身じろぎするも、矛先はすぐさま修正されて、もろい部分目がけて飛び込んでいった。
直後、敵の巨躯が膨れ上がった。外骨格はかろうじて弾け飛ばずにいたものの、あちこちが変形して原型をとどめることはなかった。そしてすべての幾何模様が内部に飛び込んだ直後、中からの圧力を受けて、関節部分から大量の液体が噴き出した。
膨れ上がっていた外骨格がきしむ音がなくなったときには、地上に茶色がかった薄汚い色の海ができあがっていた。
地上の者たちがその飛沫を浴びて顔をしかめる中、ヴィレムは平然と歩いていた。駆け寄ってくるクレセンシアのところへと。二人を風が取り巻いており、あたかも液体は避けるように動いていた。
「ヴィレム様、お見事です!」
「ぶっつけ本番だったけど、うまくいったね。彼らはきっと、いい魔術師になるだろう」
ヴィレムはあえて聞こえるように言った。それゆえに魔術師隊の者たちは息をのんだ。
いかに魔術の発動に関与したとはいえ、クリフを除く何十人もの力をもってしても、ヴィレムたった一人の力にすら及ばなかったのだから。そして割り振りは決めていたとはいえ、通常では難しい魔術の合わせ技を簡単に成し遂げてしまう実力に、度肝を抜かれずにはいられない。
そんな彼が褒めてくれたことに、彼らは喜びを隠しきれなかった。
しかし喜ぶ彼らとは対照的に、あっけにとられている、もしくは歯噛みしているような者たちもあった。
命が助かったことに安堵している兵やなにもできずにいた兵たち、そして勇ましく出ていったナバーシュとマルセリナ。そこには様々な思いがあったのだろう。
だからヴィレムもあえて言葉をかけることはなく、クロカブトの死骸のところに向かうのだ。
「これをルーデンス領に持っていこう。兜の部分は非常に硬くできているから、鎧にしてもらうのがいい。そうでないところも、加工次第ではうまく活用できるはずだから」
「はい。ではそのようにいたしましょう」
クレセンシアは紙を取り出すと、彼が言うようにさらさらと筆を走らせる。そしてヴィレムに見せると、二人して満足げに頷いた。
それからヴィレムは魔術を用いる。
生じた風は手紙を攫って舞い上がり、外骨格をも浮かせて東へと向かっていった。
「オットーさん、こんなのを送りつけてくるとは何事ですか、と口を尖らせるかもしれませんね」
「もしかすると、こういうことは誰かに任せてしまうかも――といっても、今はクリフがこっちにいるから、どうなんだろうか」
「ですがオットーさんならきっと、帰ったときにはいくつもの鎧を用意していることでしょう」
「違いない」
そんな二人の勝手な期待をする様子に、魔術師隊の者たちはひやひやしていた。あの期待に応えるのは難しそうだと。
さて、そうしてクロカブトの存在がなくなると、兵たちはいよいよ元の様子を取り戻し、西へと動き始めた。ぞろぞろと列を成していく中、このような出来事はすっかり忘却の彼方へと押しやられていく。
なにも被害は出なかったし、なにより彼らが赴くべき場所は戦場なのだから、いつまでも過去に囚われてばかりもいられなかったのだ。
そんな者たちの中、呟いたのはナバーシュだった。
「くそ、思い上がりもいいところだ」
「……あはは、ちょっと、あそこまで違うと自信なくすとかそういう次元じゃないかも」
マルセリナは乾いた笑いを浮かべた。きっと、誰もが思ったことだろう。
かなうなどとは思っていなかったものの、あれほどの力を見せつけられたら、あれと自分はまるで違うものだから、と言い訳するしかない。必死で食らいつこうとするのは、あまりにも難しいことだった。
様々な思いを抱きながらも、彼らは一様に西へ西へと峡谷を進んでいく。
彼らの戦いはまだまだこれからだった。
これにて第十章はおしまいです。
長くなってしまうため、この辺りで章区切りとさせていただきました。
次話から、西国での活動が始まります。
今後ともよろしくお願いします。