87 峡谷
ノールズ王国と西国イン・エルト共和国の間には峡谷が存在している。
かつてその峡谷を元にして国境が引かれたそうだが、長い年月の間に地形が変化し続けてきたこともあって領地問題が発生し、不和を加速させる要因の一つだったのだろう。
しかし現在では、彼らがこの土地を巡って干戈を交わらせることはなかった。
というのも、この土地は荒れており、これといって役立つ植物があるわけでもなければ、有用な鉱山資源があるわけでもなかったからだ。
そしてなにより兵を進めるにあたって障害となったのが、魔物の存在である。谷底を流れる川辺で水を飲んでいる小動物や水鳥は、いつの間にか引きずり込まれて溺死させられていたり、土中から飛び出した魔物に丸呑みされたりすることも珍しくはなかった。
それゆえに両国が権利を主張することもなく、ずっと自然のままになってきた通行の難所に、今日は足を踏み入れる者たちがあった。
ぞろぞろと列を成して進んでいく者たちは、ノールズ王国から西へと向かう兵たちである。彼らは谷底を移動しているところだった。
人が歩く場所でもなく、整備されているわけでもないため、兵たちは歩くのでやっとだ。ときおり小石に足を取られ、つまずきそうになる者もいる。
先日イン・エルト共和国の襲撃を予想していなかったのは、こうして谷底を行くには時間がかかり、気軽に往復できるものでもないからだ。
しかし、彼らはこんな道を歩いてきたわけではなかった。
「……どうやら、兵が移動した形跡はないようだ」
ヴィレムは地面に手をつき幾何模様を用いながら呟いた。その隣でクレセンシアはおどけて尻尾を振る。
「たったこれだけで答えを叩き出すなんて、ヴィレム様は地質学者だったのですね!」
「俺がわかるのなんて、人の骨くらいのものだよ。といっても、ここではすぐに骨すらも食われてしまうようだから、近くに埋まってはいないみたいだけどね」
「では、いったい根拠はなんなのでしょう?」
クレセンシアが小首を傾げると、ヴィレムは持ってきた袋の中から干し肉を取り出し、彼女の口に突っ込んだ。
「こうして君が肉を食べるとどうなるだろう?」
「ヴィレム様がクレセンシアを見て喜びます!」
クレセンシアは尻尾をぱたぱたと振ると、ヴィレムは頬を緩めつつ笑うしかない。
「その通りだけど……肉片が落ちるだろう? あれほど大きな鳥を引き連れているとなれば、大量の餌が必要になるし、綺麗に食うはずもないからその残骸を漁る獣がいてもおかしくないと思ってね。運ぶのに馬車も必要になるかもしれないけれど、車輪の跡は見当たらないし、靴で踏みならされた形跡もない」
「あっという間にやってきたということですね。輜重隊もなく」
「となれば、やっぱり飛んできたんだろう。休み休みやってきたのかもしれないが、長距離を移動できるとなれば都合がいいな」
そんなことを考えているヴィレムを見て、クレセンシアは微笑む。
「まるでおもちゃを見つけた子供のようですね。以前、ルーデンス領で飛竜を打ち倒してしまったときから、飛ぶものを狙っていたのですか?」
「そういうわけでもないけれど……空輸できれば便利だと思って。うん、そうだ。西で魔物を探そう。そしていいやつがいれば、持ち帰るとしようじゃないか」
そう言ったときヴィレムの頭の中では、すでに新しい隊の結成まで想定されていた。輜重隊として活躍させるか、それとも戦いに出すか。面倒ごとは全部ヘイスに押しつけてしまおう。
考えていたヴィレムだったが、歩き続けているうちに前方が騒がしくなってきたので、そちらに視線を向ける。すると魔物と交戦しているところらしかった。
「見てきましょうか?」
クリフが尋ねるも、ヴィレムはその必要もないと判断する。彼が危機に陥るような相手ならば、呑気に兵が剣を掲げてなどいないだろう。
とりあえず警戒だけしておこうとヴィレムが風読みの魔術を発動させると、比較的近くの土中でなにかがうごめいていることが判明する。
彼はすぐさま幾何模様をそちらに飛ばすと、土の魔術を用いてそれを引っ張り出す。
土が盛り上がり、そこから頭を覗かせたのは巨大な虫であった。胴体は長く、くねっている。表面には若干の光沢があり、大地を探すように頭を振り乱していた。
「うわあああ!」
近くにいた兵が抜剣し、慌てて距離を取る。中には尻餅をついた者もいた。
「たいして強い魔物じゃないから問題なかろう。これを使って――」
ヴィレムが言葉を言いきるよりも早く、無数の矢が魔物を貫いた。鏃が刺さったところからどろどろした液体が溢れ出す。
その光景はとても見るに堪えないものである。恐ろしい、恐ろしくないは別として、見ていて気分がいいものではないのだ。
魔物は強くもなかったため、すぐに動かなくなった。その死骸を見ていたヴィレムは、
「こいつを餌にすれば、鳥が来ないものかと思ったんだがなあ。生き餌でなくとも食うだろうか?」
「魔術で動かして見てはどうです? 遠くからでは見分けもつかないかもしれません」
すっかり二人の目的は、西に辿り着くことではなく、空飛ぶ魔物を手に入れることになっている。この魔物の処理をどうしたものかと、兵たちも悩んでいるようだったので、ヴィレムが一手に引き受けることになった。
兵たちはいかにして処分するかを任せたつもりだったのだが、当のヴィレムは力の魔術を用いて、空高く浮かばせていく。
それを見てクリフは尋ねずにはいられなかった。
「……土中にいる生き物ではないのですか?」
「埋めてしまっては、鳥の目では見えないだろう? それなら多少奇妙とはいえ、まだ見えるほうがましじゃないだろうか」
そう笑うヴィレムにクレセンシアが、
「ヴィレム様と比べれば、どんなものも奇妙なのは多少なのですね」
と茶々を入れるのだった。
さて、提案された案はどっちもどっちであるが、結果として笑うことになったのはヴィレムであった。向こうから鳥の魔物が近づいてくるのが見えたのである。
ヴィレムは虫の魔物を崖上の適当なところに転がすと、クリフへと告げる。
「どうだ、俺が言ったとおりだろう?」
勝ち誇った顔で見るヴィレムだったが、
「……鳥の上に乗っている人が見えます。西国の兵かもしれません」
「数は多くないですね。偵察でしょうか?」
クリフもクレセンシアもそんなことを言うので、なんとも言えない気分になった。
しかし、そんなことを考えていたのも束の間。
突如、鳥の姿が黒くかき消されたのだ。いや、そうではない。黒く巨大な存在が、いともたやすく彼らを飲み込んだのだ。
「な、なんだあれは!」
「聞いてねえよ! あんな化け物がいるなんて!」
兵たちが騒然とする中、クリフは魔術師隊の者に動揺しないよう告げる。彼らは息をのみつつも、ヴィレムの余裕に当てられたようで、異様なまでに落ち着いていた。
ヴィレムは敵の姿を眺める。全身が真っ黒な甲虫でいくつもの足が生えており、頭部には兜のような形の外骨格。
その魔物が同胞を貪り食らうのを見つつ、西国の兵はそれ目がけて攻撃を始めた。翼に幾何模様が浮かび、風の刃が放たれる。
甲虫は大量の刃を浴びつつも、傷一つつかずにその鳥へと足を伸ばすが、兵は素早く手綱を引いて浮上させる。そしてつかず離れずの位置を保ったまま――
「こ、こっちに来るぞ!」
「逃げろ! 離れるんだ!」
「離れるったって! どこに行けるってんだよ!」
阿鼻叫喚の巷となった戦場で、ヴィレムは敵を眺めていた。レムの記憶には、思い当たる節がある。
「あやつは確かクロカブト、だったかな。とても硬かったと記憶している」
「見ればわかりますよ、ヴィレム様」
「それは失敬。古い魔物で長く生き残ってきたということは、それだけ強いということだ。あれが倒せないから、西国は歩兵を大量に送ってくることもなく、少数でわざわざ奇襲をかけておびき寄せたんだろうね」
倒せないなら一方的にノールズ王国の兵が蹂躙されるし、仮にクロカブトを仕留めることができたとしても甚大な被害を与えることができる。
討伐を押しつけることができれば、結果がなんであれ、西国にとっては利益しかないのだ。
「どうなさいますか、ヴィレム様」
「決まっているだろう。俺たちがここに来た理由は――」
ヴィレムが告げようとした瞬間、その言葉をかき消す威勢のいい声が上がった。離れたところに、ヴィレムは見知った顔を見つける。それは有力諸侯の居場所ではなく、学園の生徒たちが集まっているところだった。
「者ども続け! ナバーシュ・クネシュ、これより敵を討つ!」
ナバーシュが勇ましい宣言とともに、力の魔術を用いて崖を一気に上がっていく。彼には従者のパスカほか数名が続いた。
そして今度は別のところからも声が上がる。
「クネシュ家にばっかり、いいところ見せて、恥ずかしくないの! ヴァトレンの意地を、力を見せるときよ!」
そう言ってナバーシュを追うのはマルセリナ。こちらは従者カトリンのほか、何十人も続いていた。両貴族の裕福さの違いが窺えるが、ものを言うのは数ではなく、個の力だ。
「負けていられませんね、ヴィレム様」
クレセンシアが言うと、ヴィレムは頷いた。そして彼も名乗りを上げるのだ。今はルーデンス魔導伯ではなく、一人の少年として。
「シャレット家が末っ子、ヴィレム・シャレット、参る!」
彼が剣を掲げると、クリフが、魔術師隊の者たちが、その気迫に引きずられて猛々しい声を上げた。
そして西国の兵が何人も食われる中、いよいよクロカブトが間近に迫った。




