84 西へ
ノールズ王国国王アルベール・ノールズが西国イン・エルト共和国への本格的な侵攻を決定して数十日。国内は騒がしくなっていた。
長らく小競り合いが続いていたため、いずれ戦争が始まるだろうと誰もが予感してはいたが、当面は平和であってほしいと願っていたのだろう。それゆえに、戦火へと火種が注ぎ込まれることに、浮き足立たずにはいられなかった。
気の早い者は家財をまとめて東へ引っ越しを始めたし、そうでない者も、いつ争いが広がってきてもいいよう、金品を懐に忍ばせて寝るようになった。
そしてなによりも戦々恐々としていたのは、まさに現地に赴く兵たちだろう。西との国境付近にある領地の者はともかく、中央、あるいは東寄りの土地に住んでいる者たちにとって、西国は見知らぬ土地である。文化や風習も大きく異なっており、ただ剣を向けるだけとはいえ、どのように対応すればいいのかいまいちわかっていなかった。
さて、そうして各地から集められた兵は、いくつかの集団に別れながら、西へと向かっていく。王の名の下に共同で戦うとはいえ、領主たちは自分の役目――外敵と戦う義務を果たすためだけに行くのであり、この国に対する愛国心を燃やしているわけでもなければ、他の諸侯と手を取り合おうとするわけでもなかった。もちろん、私的に親しい間柄の者たちは、互いの利のために協力することもあろうが。
このように騎士は領主に、領主は王に忠誠という名の義務に縛られていることになるが、その数は前線に出る雑兵と比べれば遙かに少ない。
そして今も重い足取りで西へと進むみすぼらしい鎧が忠誠を誓っているのは己が剣であり、そして領主がくれる金である。
このような状況ではとても諸外国に太刀打ちなどできやしないと思うのがもっともかもしれない。なにしろ、安く頭数をそろえるため、剣を持ったことすらない者を傭兵として使っている領地がある有様なのだから。
それゆえに結局のところ、戦いを望んでいる者よりも、ぶら下げられた金に釣られて自分たちのあずかり知らない戦に引っ張り出された者がほとんどなのだ。身が入るはずもなかった。
そうしてのろのろと鉄が西に集まっていく中、濃紫の一塊が別格の勢いで進んでいく。
彼らは一様に同じローブを纏っており、その身なりは豪奢でこそないが、平民などとはくらぶべくもないほど整っている。
「……それにしても、こんなにたくさん連れてくることになるとはな」
そう呟いたのは、彼らの先頭を行く少年、ルーデンス領が領主、ヴィレム・シャレットである。彼の後ろに続くのは、ヴィレムとともに戦地に赴くことになった魔術師たちだ。ルーデンス領の防衛が問題なく行えるよう編成はオットーが行ったため、ヴィレムは先ほど顔を合わせたばかりだった。自分の身は自分で守るから、クリフくらいいればいいと思っていたのだが……。
「ヴィレム様はご自身の価値がわかっていないのです。領主が討たれたとなれば、領民は皆が皆、明日に震えて暮らさなければならなくなるのですよ?」
隣で笑うのはクレセンシア・リーヴェ。
そんな彼女にすかさずヴィレムはおどけてみせる。
「たかだか末っ子がそのような立場になるとはね。今やノールズ王国国王すら期待する偉大な魔術師になってしまった」
ヴィレムが言うと、その後ろにいたクリフが、
「まさに事実ではありませんか。ヴィレム様はノールズ王国中がその動向を――ヴィレム様の顔色を窺っているのですから」
などと自分のことさながらに、誇らしげに告げるのだ。
彼の言うことは間違いではないのだが、それはルーデンス魔導伯の動きを見ているということだ。ヴィレムが言うのは、国王がヴィレムに活躍を期待している、ということなのである。
先日、学園の生徒ヴィレムが護衛をつけるべくルーデンス領に戻ると、オットーが眉をひそめながら、ノールズ王国国王の署名がある一枚の手紙を見せてきたのだ。
当然、王が手紙を書いてから各諸侯のところまで到着するまでには時間があるから――だからこそヴィレムは王に気づかれて先手を打たれることもなく、学園に潜り込むことができたのだが――ルーデンス魔導伯にも出兵の要請が出たのだ。
けれど、オットーがその返事を書くことになる。ルーデンス魔導伯は現在不在であり、学園の生徒であるから、生徒らしく王のために戦うと。
ヴィレムが学園の生徒となった噂はすでに王都では広まっており、そこにこのような手紙を返された彼らは、挑発されているように感じたかもしれない。
とはいえヴィレムは規則を破ってはいない。もちろん、守っているわけでもなかったのだが。
とにかく、王も表立って追求することもできず、怠けないように「ヴィレムの華々しい活躍を願う」ことしかできなかったのだ。普通に考えれば、戦果を上げるには兵が必要になるから、それによってヴィレムの策による差異を減じようとしたのだ。
もっとも、わざわざ一領主の戦力を期待するほうがどうかしている、とヴィレムは思うのだが。
そんな彼の隣でにこにことしているクレセンシア。
「どうしたの、シア?」
「いえ、皆が顔色を窺うヴィレム様というお方は、どのようなお顔をしているのかと気になったのです」
「ほう。鬼のような顔をしているかい?」
「ふふ。それは後ろを見ればわかるのではありませんか?」
ヴィレムは言われたとおりに振り返ると、そこには表情を引き締めた魔術師たちの姿がある。
顔と名前はかろうじて一致するが、どのような人物なのか、ほとんどヴィレムは知らない者たちだった。
(……なるほどね。どおりで人数が多いわけだ)
ここには、シャレット領にいた頃からともに戦ってきた者たちの姿がない。つまり、皆が皆、ルーデンス領に来てから雇った者たちということになる。
長くても二年、短い者では数ヶ月しか訓練を受けてきてはいないのだ。もちろん、見習いではなく魔術師と認められたからこそ、こうして役割を与えられたのだが、その実力はいかほどか。
オットーは彼らに経験を積ませるために同行させたのであり、決してヴィレムを守るために行かせたわけではないようだ。彼らはヴィレムを守るという大役に気を引き締めているようだが……。
(まったくあいつは昔から、俺をいいように使ってばかりだ。そう不満を言えばきっと、「ヴィレム様を信頼しているからですよ」なんていけしゃあしゃあと言うに違いない)
ルーデンス領主都にいるあの男の顔を思い浮かべると、ヴィレムは苦笑した。
「さあ、ヴィレム様のお顔はいかがでしょうか?」
クレセンシアが尋ねるも、彼らの表情は硬い。
(彼らともふれあっておけ、ということか)
最近はヴィレムもこのように部下と接する機会がなくなっていた。それゆえに、ヴィレムにとって使いやすい者を増やすのも意味がある行いだろう。
そう考えたヴィレムは、彼らとの付き合いもうまくやってみせようと口の端を上げる。
しかし直後、彼の頬は思い切り持ち上げられた。クレセンシアがつまみ上げていたのである。
「とても可愛らしいお顔だと思いません?」
「ひ、ひあ。ほへへはいへんは――」
「まあ! そうですか! ヴィレム様は皆さんが笑ってくださって嬉しいとおっしゃっています。仲良くしてあげてくださいね」
クレセンシアが言うと、少年たちはなんとか笑いを堪えているようだった。
「……シア。ちょっと。これではまるで俺は見世物じゃないか」
「人の上に立つ者は、その姿を知らしめる必要があるとは思いません?」
「意味が違うよ、それは」
ヴィレムは口を尖らせる。とても偉大な魔術師の姿ではなかったから。けれど、それこそがルーデンス魔導伯ではなく、ヴィレム・シャレットという存在だったのかもしれない。
一生徒として赴くという事実は、少なからず彼の心理的負担を和らげていた。
そうして雑談をしているうちに、彼らは西の辺境、ヴィルタ領に辿り着いていた。そこには各地から集まってきた兵が駐屯しており、あちこちにテントが見られる。
ルーデンス魔導伯であれば、大勢の兵を見せびらかせ、戦を指揮すべくやってきた王のところに赴いたのだろう。けれど、今はただの生徒に過ぎない。
だから彼が行くべきところはほかの生徒たちがいるところなのだが……。
「シア。そもそも俺は学友の顔を知らない」
「ですから言ったではありませんか。馴染んで状況を把握しておくことは悪くありません、と」
「あまりにも可愛い君が悪いんだよ。俺の視線を捕らえて放さないのだから」
「嘘ばかり。マルセリナさんをずっと眺めていたではありませんか」
クレセンシアが口を尖らせると、ヴィレムは慌てて弁明し始める。
「あれは……懐かしかっただけだよ。それにずっと見てたわけじゃ……あ、あそこにシオドアさんがいるよ。彼に尋ねてみよう」
ヴィレムは半ば強引にクレセンシアの手を引いていく。けれど彼女もまんざらではないようで、尻尾を元気に振っていた。
そんな二人はシオドアの表情を見て、声をかけるかどうか迷った。彼はどこか寂しげにも見えたのだ。
「……なんだお前ら。遅かったじゃないか」
「遅刻してないんだからいいじゃないですか。ところで、俺たちはどこか集まるべきなんですか?」
「ん? いや、好き勝手にすればいいんじゃないか。お仲間がほしいなら……ほら、あそこにいる」
シオドアが顎で示す先には、生徒たちの姿がある。
端っこのほうにいるのは、古びた鎧を身につけた平民の者たちだ。彼らはどうにも居づらそうにしている。
なにしろ、彼らの中心には、ぴかぴかの鎧に身を包んだ貴族たちがいるのだから。少なからず比較してしまうに違いない。
「……傷一つない鎧が輝いてますね」
ヴィレムが言うとシオドアは肩をすくめた。あれではとても、勇ましく敵に突っ込んでいくことなどありえないだろうと。
クレセンシアはヴィレムの鎧をまじまじと眺める。
「ヴィレム様の鎧はいくつもの傷がありますね。これがヴィレム様の生き様なのですね」
「そういうわけではないけれど……それだけ魔物と戦ったということだね」
「なるほど。この鎧はヴィレム様の命を守ってきたのですね。どんな剣も防いでしまうすばらしい防御力を秘めているに違いありません。確かめてみましょう!」
クレセンシアはぽかぽかとヴィレムを叩いてみる。
「君が叩いているのは俺の頭じゃないか」
ヴィレムが口を尖らせると、クレセンシアは笑いながら、今度はヴィレムの頭を撫でるのだ。なんだか気恥ずかしくなったヴィレムはそっぽを向く。
そうすると、げんなりした顔のシオドアと目が合った。
「……おほん。シオドアさん。実際のところ、戦いはどうなのですか?」
この生徒たちが生き延びられるのか、ということだ。
シオドアは渋い表情を浮かべずにはいられない。
「あー……西国はこの国と違って、小さな争いが絶えない地だ。魔物もよく出現する。そして魔物を飼い慣らしていることもあって――」
シオドアが説明する中、ヴィレムは西に視線を向けた。
「なるほど。どうやらそのようですね」
ヴィレムの言葉とともに、シオドアがそちらに目をこらす。そこには、飛行する魔物の群れが近づいてくるのが見て取れた。
「敵襲――!」
鐘の音が響き渡り、辺りは騒然となった。




