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81 平穏、そして動乱

 空が晴れ渡っていた。


 青くなんの悩みも持ち合わせてはいないように晴れ晴れとした空を見上げながら、ヘイスは手を伸ばす。けれど、彼の手はなにも掴むことはなかった。


「はあ……なんにもありゃしねえなあ」


 思わず呟いてしまうのも、無理はなかった。ここ最近はこれといった魔物の被害もなければ、ルーデンス魔導伯の力が知れ渡ったのもあって諸侯が攻めてくることもなかった。それゆえに剣をにぎるときといえば、訓練のときくらいのものだ。


 ヴィレムがこのルーデンス領を取ってから一年。王都に行けば魔物に襲われ、帝国に行けば魔術師に命を狙われた彼だったが、近頃は平穏な日々を送っていた。まったく、これまでの生活が嘘であるかのように。


 それゆえに部下であるヘイスもまた、日常の仕事が終われば、なにをするでもなく寝転がって過ごすのだ。詰め所近くの屋根の上は、彼の定位置になりつつある。


 たまにはこんな日も悪くはないが、続いてしまうと嫌にもなってくる。


(……こんな風に思うと、あいつに悪いか)


 この時間を共有できないトゥッカには申し訳ないが、こう思ってしまう状況こそ、彼が望んだ平和なのだろう。


「なんかねえものかね……」

「いつものように、遊んでいればいいんじゃないのか。街に行って、誰彼構わず声をかければいい」


 何気なく呟いた言葉には、返事があった。

 そちらを見れば、おめかしをしたオデットと、いつもの雑な格好のディートがいる。仕事が終わって暇になったようだ。


「っけ。楽しそうにしやがって。……だいたい、そういう気分じゃねえんだよ」

「ヘイス。帝国に行ってからおかしいぞ」

「あー……お前のような、食って寝てるだけで幸せそうなやつにはわかんねえさ」


 そう返されると、ディートは


(そういうものか)


 と素直に納得するのだった。実際そうなのだから、反論することもなければ、不満に思うこともない。


 淡泊な反応を示す一方で、率直に受け止めるところは彼の美点でもあろう。しかしこの場合、ヘイスの意図をまったく汲んでいなかったともいえる。


 そんな会話を引き継いだのは、オデットであった。


「あの……ヘイスさん。悩みでもあるんですか?」

「そんな高尚なもんじゃねえさ。ただ……忘れそうになるんだよ。貧民街で暮らしていたときのことを。泥にまみれて生きてきた日々のことを。こんな俺が人並み以上の生活を――豊かな平民たちが思い描く理想の日々を、夢見てしまうんだ。……あたかも貴族にでもなったかのような気分でね」

「……ルーデンス魔導伯といるから、ですか?」


 オデットに言われてヘイスは頭をかいた。この少女、普段はディートのことしか考えていないようで、なかなか勘が鋭い。


「ヴィレム様は……ルーデンス魔導伯となる前から、シャレットだったんだ。なんにもねえところから、ここまで来たわけじゃない」


 オデットはヴィレムがこのルーデンス領を取る前のことは知らない。ディートも学園で一度会ったとはいえ、シャレット領に行ったことはなかった。


「そのときのことはわかりませんが……ルーデンス魔導伯がこの土地を取ったのは、その実力によるでしょう」

「わかっちゃいるよ、そんなことは。そういうんじゃなくて……なんというかさ。なんにも持ってなかった俺たちは、あの人に会わなきゃなんにも持たないまま死んでいったに違いない。それがつられてこんなところまで来ちまったから、つられて貴族に会うことになって、そこでようやく身分の違いってものを思い知らされるのさ」


 言い切ったヘイスは、視線を自身の手のひらに落とした。泥だらけだった手に汚れはなく、代わりに剣と手綱を握ることで皮膚が硬くなって、逞しい手のひらになっていた。


「ヘイス。お前は竜騎兵隊隊長だろ? 貴族となにが違う?」


 ディートが問うた。

 彼は騎士や貴族――支配者に、積み上げてきたなにもかもを理不尽に奪われる日々を送っていた。だからこそずっと、その違いを意識してきたのだろう。

 奪うものと奪われるもの。そんな意識でいた彼は、いつしかその騎士という立場を手にしていた。けれど、一度だって領内に暮らす誰かから奪ったことはない。いつかその日が来るのかと思ったが、一向にその暗雲が近づいてくることはなかった。


 だからこそ、この結論に至ったのだ。思い込んでいた身分の差なんてものはハリボテで、押し倒した向こうに待っていたのは、自らの力でなにもかもを変えていける日々だと。


「ヴィレム様はそう思ってるかもしれねえな。そうでなきゃ、薄汚いガキをわざわざ拾うはずもねえ。……まあそれはそれとして、俺は貴族にはなれやしない。貴族になるってことは、領地を得るってことだ。……あんな恐ろしい男に領地を睨まれながら生きるくらいなら、こうしてお膝元でぬくぬくとあったかい飯を食いながら過ごしているほうがよっぽど幸せに違いねえさ」


 そういうヘイスは、どこか自己陶酔的なため息をついた。

 これといった進展のない話をしているヘイスに、オデットはいよいよ焦れてきたようだ。


「ディートくん。もう行かない? あれはきっと、感傷に浸っている自分をかっこいいと思ってるだけだよ。そんなことより、一緒に……ほら、今日は晩ご飯を一緒に買う予定だったでしょ?」

「そうだ、晩ご飯!」


 ディートはオデットの言葉にはっとする。

 そんな様子を見ていたヘイスは、


(ありゃ、餌付けされてんな……)


 と、友人の悩みより飯を優先した同僚を見て、少し呆れるのだった。


 そうして二人が去っていくと、一人になったヘイスはもう一度空を見上げた。晴れ渡った空に、帝国での一日を思い出した。



    ◇



 ヴィレムは窓から外を眺めていた。

 こうしていると晴天の元、城下の楽しげな声が、聞こえてこないというのにしかと伝わってくる気がする。


 王都から帰ってきたヴィレムは、やはりこの都市が一番だと思うのだ。そこまで華やかというわけではないが、確かな命の力強さがあるこの都市がヴィレムは好きだった。


(……だけど、ずっとずっと、無条件で続いていくものだと思ってはならない)


 この平和を維持していくためには、必死でもがき続けなければならないのだ。もし手足を動かすのをやめてしまえば、運命という濁流はひどくあっさりと、なにもかもを流し去ってしまう。


 この他愛もない日々が変わらないためには、不断の努力が必要であり、前へと進み変わり続けねばならない。


 そう思うと、ヴィレムは一つ息をついた。


「ヴィレム様、やはり悩みが……?」


 そう尋ねるのはクリフだ。彼は今日、ヴィレムに呼ばれてやってきていた。


「悩んでなどいないよ。俺の気持ちは決まっている。いや、覚悟と言ったほうがいいか」

「心配いりませんよ。ヴィレム様はそんな繊細なお方ではありませんから」


 クレセンシアが茶化すと、ヴィレムは口を曲げた。


「俺だって悩むことはあるよ。この可愛い耳はいつだって俺の独白を聞いているものだから、迂闊なことは言えない、言ってしまえばすぐにひっぱたかれてしまうだろう、ああ、しまいには愛想を尽かされてしまうのではないか、とね」


 ヴィレムは頬を膨らませたクレセンシアの狐耳を掴んでもてあそぶ。ふわふわして柔らかなそれが形を変えるたびに、くすぐったそうに彼女は目を細め、尻尾をぱたぱたと振る。どちらも本気ではないからこそ、心地好い瞬間だった。


 そうして戯れていたヴィレムだったが、やがてクリフに向き直る。


「君たちを雇ったとき。このルーデンス領を取ったとき。あのときの気持ちは変わらずにここにあるけれど、状況は常に変わり続けているし、俺もそれに合わせて動かなければならない。悩んでいる暇なんてないよ」

「……皮肉なものですね。ゆっくりした時間のために、あくせくと働かねばならないのですから」

「そう言うな。それこそが、都市を治める者の役目なのだから」


 そうして話をしていると、オットーがやってきた。彼もまた、ヴィレムに呼ばれた一人だ。


 これで彼が声をかけていた人物は揃った。


「……今日集まってもらったのは、言わねばならないことがあるからだ」


 彼らが息をのんで、ヴィレムの続きを待つ。ヴィレムは間を取ることもなく、あっさりとその言葉を口にした。


「この領地に新たな脅威が現れた。……いや、この国に、といったほうが正しいか」


 クリフが口を固く結んだ。

 そしてオットーが表情を変えずに彼に尋ねた。


「西国との戦争の気配があるということですか」

「ああ。前からその話はあったが、どうやらもう、逃れられないところまで来てしまったらしい。近日中に、出兵の要請が下るだろう」


 領主は領内における自由を手にしているとはいえ、国内外の争いに関しては、王の命令の下、兵を出さねばならなかった。そればかりは主従関係にある以上、どうしようもない。


「では、我々もそのように動かねばならないということですか」

「いいや。兵は出さない」


 ヴィレムの言葉に、オットーは目を丸くした。先ほどと言っていることが正反対なのだから。


「というより、出す必要がない、といったほうが正しいか」


 どういうことかと、クリフとオットーが揃って疑問を顔に浮かべた。

 ヴィレムはそんな二人の反応を見て満足したらしい。


「俺は学園に通うことになったんだよ。王都のね」


 そう告げると、オットーが顔を上げた。

 ヴィレムは王都の学園に通うかどうか、という話は、シャレット領にいた頃に聞いていた。それが今になって、領主となってから通うという意味は……。


「そういうことですか。要請をはねつけるためとはいえ、そのために学園を利用したとなれば、心証はよくないでしょうね」

「領主が学園に通うなど、いまだ前例がないんだ。こういう誰もやったことがないものはね、初回はうまくいくものなんだよ。そして次回からは対策がなされ、使えなくなる。……俺一人のために、このギリギリになって、通達を行うのを遅らせるわけにもいかない。俺の勝ちだ」


 ヴィレムの言葉に、クレセンシアが補足する。


「もちろん、まったく戦わないわけにはいきません。学園の生徒においても、戦争に参加するのは強制ですから。そこで何名か、ついてきてもらうことになるでしょう。軍費を貴族の子弟から金を搾り取ろうとしての規則なので、このことに気兼ねする必要はありません」


 王としては学園の生徒そのものを戦力として当てになどしていないが、その生徒を守るための兵は重要な戦力なのだった。


 貴族の子らが戦争にかり出されるとなれば、親も金と兵を出さねばならなくなる。そうすることで彼らは前線に立つこともなく、戦ったという名誉と経歴だけが手に入るというわけだ。お互いに利点があるから続いていることなのかもしれない。


 自ら剣を手にとって切り込むのは、将来武官として名を馳せようとしている者くらいだろう。あるいは、金がない家の者か。この通達が行われた場合、そういった従者を連れていけない者は逃げることもできず、震え上がることだろう。


 さて、そういうことになったのだが、クリフはまだ気がかりなことがあるようだ。


「ですが……王が直々に命令を下した場合、免れることはできないのでは?」

「王と結びついているのはこのルーデンス領じゃない。あくまで、ヴィレム・シャレットという俺個人なんだよ。そしてヴィレム・シャレットは、明日から学園に通うことになっていて、出兵のための取り決めも行ってきた。というわけで兵の数は、一領主の出す数ではなく、一回の生徒が出す数で済む、というわけだ」

「……領主がそのような数少ない手勢で攻めていると知れば、真っ先に狙われるでしょう。正気の沙汰ではありません」


 クリフにヴィレムは口の端を上げた。


「今までどれほど、俺が矢面に立ってきたと思っているんだ。俺を誰だと思っている?」

「ルーデンス魔導伯。では、その従軍のお役目、私にお任せください」


 クリフが跪き、ヴィレムが彼に視線を向ける。

 ヴィレムが魔術師隊の中から選ぶとなれば、彼しかなかった。だから呼んだのだ。


「期待しているよ。とにかく戦となれば相手は多いだろうから、魔術が有効だろう。人を相手にすることになるが……」

「覚悟はできております。たとえそこに築かれるのが屍の山といえども、変わらぬ忠誠を誓い続ける所存でございます」


 彼に迷いはないようだった。

 ヴィレムが魔術師として取り立てた者たちの中でクリフは一番、ヴィレムに心酔していたのだから。少々危うくも感じられるところがあるが、魔術の腕といい判断力といい、もっとも優秀な魔術師であるのは間違いない。


「ヴィレム様も前もって相談してくれればよいものを」


 とオットーがこぼすと、ヴィレムは、


「仕方なかったんだよ。俺も出兵の話を聞いた直後に行動を起こしたんだから。今頃きっと、王たちは書状の確認をしているところだろう。相談してからでは遅かったんだ」


 時間の問題であると返すのだ。

 ヴィレムがさっさと決めてしまうのはいつものことで、それゆえにうまくいってきた部分もあるのでオットーは問題視することもなかった。


「クレセンシアさんがついているんですから、問題もなかったのでしょう」

「その言い方だと、俺が信頼されていないみたいじゃないか?」

「信頼していますよ。ほかの領主にはとうてい見られない、信じられない行動力を」


 ヴィレムは釈然としない感じであったが、クレセンシアがぎゅっと手を握ると、思わず笑顔になった。


「クレセンシアも、ヴィレム様のことを信頼しています」


 はにかむ彼女を見て、ヴィレムは手を握り返した。

 どこに行っても、どんな立場になっても、側で揺れている尻尾を見ながら。


「さて、これから忙しくなるぞ。準備をしなければ。手伝ってくれるかい?」


 ヴィレムの言葉に、三人が頷いた。

 そうして領主ヴィレム・シャレットは、学園の一生徒としての生活を始めることになった。


 まだ見ぬ西の大地はどうなっているであろう。

 城下の街を、もう一度ヴィレムは目に焼きつけた。


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