75 ヴィレム、皇帝に相対する
皇帝トレヴァー・デュフォーは、権力の象徴たる玉座に腰掛けていた。
彼はこの世のすべての権限を掌握しているとも言われていた。もちろん、直接的に他国に干渉することなどできやしないが、大陸の中でも大きな領地を持つ帝国をどの国も無視できるはずもないからだ。それゆえに彼が望めぬことは天に唾を吐くことくらいであると見なされていた。
その皇帝が見下ろす先には、多くの臣下が揃っている。彼らは皇帝を頂点とした階層的で明確な地位を与えられていた。
しかし、その地位が当てはまらない――もっといえば帝国の民ですらない者も存在していた。
ルーデンス領領主ヴィレム・シャレットは、人々に見守られながら頭を垂れていた。
ノールズ王国では王というものは所詮、秀でた諸侯に過ぎないが、ここ帝国における皇帝というものはまるで存在が違っている。すべての領地を統括し、質実ともに頂点に立っているのだから。
その武力や経済力により、帝国の統治下にあるなしを問わず、周辺諸国の王が参上することも少なくないというのに、たかだか一領主――それも成り上がって一年しか経っていない若造が、こうして招かれることなど、そうそうある出来事ではなかった。
皇帝に見下ろされながらも、その若造は堂々たるものだ。しかし、決して落ち着いていたわけではない。むしろその逆であった。
腹の奥底では、轟々と燃える炎が彼を煽り立てている。権力を前に盲目的従えば、心臓を握らせているも同然であり、かといって楯突けば路傍の石さながらに踏みつぶされてしまう。ままならぬ状況に、レムの記憶がヴィレムを激しい感情の渦に誘い込まんとしていた。
「面を上げよ」
ヴィレムはゆっくりと顔を上げ、皇帝に向き直る。
なんの意味もない形式的な行いであるが、ヴィレムが下の立場であること突きつけられた瞬間でもあった。
それでもヴィレムはなにひとつ顔には出さない。権力という存在に激しい感情を抱いているのはレムであり、ヴィレムではなかったから。ルーデンス魔導伯が一時の感情に駆り立てられ、領地をつぶさせるわけにはいかない。
だからといって彼に思うところがないわけではない。帝国がルーデンス領の襲撃に絡んでいる可能性は存在しているし、多くの謎を孕んでいるのは確かだから。それゆえになおさら、迂闊なことはできなかった。
「このような機会をいただき、ありがとうございます」
ヴィレムがつらつら形式的な言葉を述べていくと、皇帝トレヴァーがヴィレム目がけて言葉をぶつけた。
「ルーデンス領では、魔物の襲撃を受けたそうだな」
思わずヴィレムは目を見開いた。彼自身があのとき抱き、そして蓋をしてきた感情がどっと溢れ出す。今もなお、配下の少年の死が残した印象は薄れることがなく、そのことを思えば様々に入り組んだ感情が発露しようとする。
けれど、次の瞬間には元通りの表情になっている。時間で言えば、瞬きの間にすら満たないだろう。
皇帝はヴィレムが言葉を紡ぐまで、じっと変わらぬ顔で見下ろしていた。
「おっしゃるとおり、先日、魔物による大規模な襲撃がございました。その件に関しまして、許可をいただけないものかと参上いたしました」
率直に述べられた問いに、これまた率直に返す。
皇帝は時間がないゆえにこうした言葉を選んだのか、それともヴィレムを揺さぶるためであったのか。いずれにせよ、呑気におしゃべりするために来たわけではないのは間違いない。
「国境付近における活動をしたいと、ルフィナから聞いておる」
「はっ。ご許可をくだされば、幸甚の至りでございます」
「我々にとっても、魔物を駆逐することに異論はない。認めよう」
わざわざ呼びつけておきながら、あっさりともたらされた返事に、ヴィレムは少し拍子抜けしたようにも感じていた。
「ときに、ルーデンス領では竜を飼っていると聞いた。今や手に入らぬ竜を飼い慣らすとは、どのような魔法であろうか」
これは暗に、お前が知っていることを吐けと言っているのである。しかし、その知識の出所を告げるわけにもいかない。レムの記憶があると知れば、誰が利用せんと狙ってくるかわからないのだから。
「山中を駆け回っていたところ、偶然、懐きやすい個体を手に入れたのです。そして竜どもが従っているのも、我が配下の竜丁たちが日夜、竜のことを思っている証左にございます。人も竜も、長い時間、苦楽を分かち合えば、心も通じましょう」
もちろん、ヴィレムが本心でそう思っているわけではない。いや、ほんの少しでも合理的な考え方ができる者なら、それだけが要因などとは決して感じるはずはないだろう。
しかし、この抽象的で曖昧な感情論をぶつけることで、具体的で確たる答えを避けることができる。
「では、配下の魔術師のおかげである、と」
「魔術師も魔術師でない者も、皆一丸となって働いているおかげでございます」
実際のところ、魔術師でない竜丁はオットーしかいない。
しかし、皇帝は質問の答えを、竜丁から魔術師にすり替えた。それに対応するために、ヴィレムはこのたった一つの例外を持ち出さねばならなかった。
「ルーデンス領では魔術師の育成が盛んだと、この帝国でも評判である。なんでもルーデンス魔導伯は、急に魔法が使える秘術を手にしたそうではないか」
面白い話だと皇帝が笑う。こちらが本題だったのだろう。
ノールズ王国の片田舎の話など、この帝国にそう伝わるはずがない。なんせ領内だけでも多くの国があるのだから、さらにそれより遠いところなど、民にとっては夢物語に出てくる国々となにが違うだろうか。
皇帝はあたかも噂という体を取っているが、
(こいつ……調べてやがったな)
その可能性が高かった。
ヴィレムは顔にこそ出さないが、面倒な相手だと、さらに認識を強める。そうでもなければ、数多の国を従えていくことなどできないのかもしれない。
これが味方ならいいが、敵に回ったとなれば、対応も難しいものになる。先手を打たれる前になんとかしなければならない、というのは、ヴィレムがノールズ王国での招集を受けた際に身につけた考えだ。
「確かに私は幼少時に魔法は使えませんでしたが、訓練を続けてきた時間が大きかったのでしょう。なにかが変えたのだとすれば、それはずっと支えてくれた父の存在にほかならないと思っております」
ヴィレムの問いに、皇帝は一つ頷くだけだった。
この問答に果たして意味があったのかどうか。表面上はなんということもない会話をしているが、その裏では化かし合いが行われていた。皇帝は腹を探り、ヴィレムはやんわりと躱し、互いになにひとつ相手に情報を与えようとはしない。要するに、会話すべきかどうか、という程度にすら信頼性が達していないのだった。
なにかしらの情報に満足したのか、はたまた面倒になったのか。皇帝はヴィレムに下がるように告げた。
臣下どもは、もともと皇帝の気まぐれでもうけられた機会ゆえに、長引かないと踏んでいたのだろう。予定通り、という顔で終わりに待つ彼らを尻目に、ヴィレムは皇帝に背を向ける。
そうして扉の外に出ると、立ち止まることなく進んでいく。クレセンシアのところに向かう足は自然と速まっていた。
あの男の真意はなんであったのか。考えても出ない答えに苛立ちを覚えながら、ヴィレムは進んでいく。そうでなければならない。古の炎も死した高潔なる魂も、立ち止まることを許してはくれないのだから。
思い悩む彼が脳裏に浮かべるのは、懊悩の原因たる皇帝の姿ではなく、魔術師たちの姿であった。